ネットの世界で読まれる記事に大事なのは「ナラティブ」と「ライブ感」だ 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.728
特集 ネットの世界で読まれる記事に大事なのは「ナラティブ」と「ライブ感」だ
〜〜〜ストーリーとナラティブの違いを学ぶ
インターネットで読まれる文章とは、どのような文章なのでしょうか。
「短い方がいい」「単純明快な方がいい」といったことがよく言われていますが、わたしはこれらの指摘はあまりにステレオタイプすぎて、正鵠を射ていないのではないかと思います。実際、noteなどを見ていると、非常に長いけれどもたくさんのビューを稼いで多くシェアされ、人気になっている記事を見かけることがあります。
こうした人気記事の特徴をひと言で言えば、「一緒に並んで座っている友人に語りかけるような口調」を持っていることだと言えるでしょう。
「並んで座っている」といま書きましたが、このような読者との「距離感」や「位置関係」というのは、けっこう重要なポイントです。
たとえばテレビとラジオの違いという有名な説明があります。テレビのスタジオで司会者はカメラに向かい「テレビの前の皆さん」と呼びかけます。スタジオにはたくさんの出演者が並んでいて、しゃべる方も多人数。見ている視聴者も多人数。つまり「多人数vs多人数」という構図を秘めているのです。
しかしラジオのパーソナリティは「皆さん」とは言いません。「ラジオの前のあなた」と呼びかけるのです。ラジオに出演しているのはたいていひとりかふたり。多くてもせいぜい3、4人でしょう。それ以上の人数が出ている番組もときにありますが、誰が何をしゃべっているのかよくわからなくなります。人数は少ない方がいいのです。だからラジオの基本的な構図は「ひとりvsひとり」。
とはいえ「向き合い方」で言えば、テレビにしてもラジオにしても、「対面している」という点では変わりません。それに対してインターネットでは、対面しているのではなく「そばにいる」という感覚があります。そばに座っているだれかに話しかけているのです。
なぜネットは「対面」ではなく、「そばにいる」なのか。これには二つの要素があります。
第一には、ネットメディアには強い当事者性があるということ。
第二に、テレビやラジオにはない、インターネットならではのライブ感覚があるということ。
この二点について説明していきましょう。
まずネットの当事者性について。皆さんは、「ストーリー」と「ナラティブ」という区別をご存じでしょうか。
これは日本語に訳すと、どちらも「物語」となる英単語です。しかし意味は微妙に違います。ストーリーはエピソードの単なる積み重ねという一般的な「物語」として考えればいいでしょう。これに対して、ナラティブはちょっと違う意味づけがされています。
ナラティブは医療や看護の文脈でも使われますが、ここではマーケティング分野でのナラティブについて説明してきます。
ジョン・ヘーゲルというマーケティングの専門家が、2013年の記事でこう書いています。
「ナラティブはストーリーに関連しているが、同じものではない。ストーリーは自己充足的で、始まりと終わりがある。一方でナラティブには終わりはなく、開かれている。結末にいたっても物事は解決されない。ストーリーは私というストーリーテラーについての物語で、あなたの物語ではない。それに対してナラティブは、あなたがとった選択や行動によって結末は変わる。あなたが結末を決定するがゆえに、あなたはナラティブの重要な要素のひとつなのだ」
ナラティブには「終わりがなく、開かれている」というのがカギですね。ストーリーは映画や小説のように、観客や読者が目にする時点で、すでに完成されています。始まりがあって終わりがあり、観たり読んだりして物語をなぞっても、必ず同じ経路をたどることになります。よく練られたストーリーは魅力的ですが、身も蓋もなく言ってしまえば、ストーリーはしょせんは「他人」のもので、「自分」のものではありません。
これに対してナラティブは、観客や読者自身が参加する物語です。参加することによって、物語は「自分ごと」になり、自分自身の人生を変化させたり、本当の意味で勇気づけられるようになる。
もちろん映画や小説を読んでもわたしたちは感動し、勇気づけられます。しかしそういう感動は、一過性で終わることが多い。映画館を出たときには望陀の涙を流していても、翌日にはケロリと忘れてしまっている。映画や小説で人生が変わったというケースも時には耳にしますが、そういう話を聞いて私たちが感動するのは、それが当たり前に起きることではないからでしょう。
素晴らしい映画や小説に感動しても、「しょせんはフィクション」と冷めている自分がいる。だから感動は一過性で終わってしまうのです。それを一過性で終わらせず、持続させ、自分の人生を変えていく糧にするためには、その物語を「自分ごと」にする仕掛けがなければならない。
その仕掛けがストーリーに加えられたのが、ナラティブです。
ナラティブの具体例として最も有名なのは、アップルの1997年のキャンペーン「Think Different」でしょう。当時CEOだったスティーブ・ジョブズのCMナレーションで有名です。
「クレージーな人たちがいる。反逆者、厄介者と呼ばれる人たち。四角い穴に丸い杭を打ち込むように、物事をまるで違う目で見る人たち。彼らは規則を嫌う。彼らは現状を肯定しない。彼らの言葉に心を打たれる人がいる。反対する人も、称賛する人もけなす人もいる。しかし、彼らを無視することは誰にもできない。なぜなら、彼らは物事を変えたからだ。彼らは人間を前進させた。彼らはクレージーと言われるが、私たちは天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが、本当に世界を変えているのだから」
このナレーションに、アインシュタインやジョン・レノン、エジソン、モハメド・アリ、ボブ・ディランなど20世紀の偉人たちの映像が重ねられました。このCMのメッセージは、私なりに解釈すると、次のようなものです。
<テクノロジーは私たちの可能性を伸ばしていくだろうけれども、それは誰かに与えられるものではなく、私たちが「Think Different」することによってこそ実現するのだ。私たちがその世界に参加し、自分ごと化していかなければ世界は変わらないのだ>
ジョブズその人がまさに「Think Different」を体現している人でもありました。ご存じのようにジョブズはアップル創業者でありながら、1980年代にアップルを追い出され、苦杯をなめます。しかし90年代に、経営危機に陥っていたアップルに復帰。見事に復活させました。1997年のこのCMキャンペーンは、まさにジョブズが復帰した翌年に展開されたものでした。
このように苦労しながら、社会にテクノロジーを広めてきたという当事者性をジョブズは強烈に持っていた。だからこそ、このナラティブは人びとの心にリアルに訴えかけ、「自分も頑張らなきゃ」というナラティブにもなったのだと思います。
ナラティブは、書き手だけでなく受け取った側も自分自身の物語として引き受けることができ、そこに自分自身の経験や感情なども重ね合わされることによって、自分の心の中に刻み込まれていくものです。だからナラティブはそれぞれの人の生い立ちや、その人が所属する文化や民族によっても左右されます。
百人がいれば、百のナラティブがあるということになります。同時にナラティブは、いまこの瞬間という感覚を持っています。映画や小説のようなパッケージとして完成された過去の物語ではなく、自分自身がつくっている現在進行形の物語だからです。
このナラティブ的な感覚は、まさにインターネット的だと言えるでしょう。SNSやオンラインRPGなどのリアルタイム参加型サービスは、まさにナラティブに溢れていて、わたしたちはTogetterなどのツールを使いながら日々ナラティブに参加し、自分自身も参加者としてナラティブを生成し続けているのです。
このナラティブな感覚を、文章を書くときにはつねに意識しなければなりません。具体的に言えば、「この文章は誰が書いているのか」「文章の内容は、読者を巻き込めるのか」「読者にどのような持続的なメッセージを与えているのか」などを意識するということです。
さて、第二のポイントに移りましょう。テレビやラジオにはない、インターネットならではのライブ感覚があるというポイントです。これはユーチューブなどの生配信を思い出していただければ、わかるでしょう。従来のドキュメンタリーとはまったく違うアプローチで、この手の動画は作成されています。
最近は生配信的な手法でドキュメンタリー映画が制作されたり、ニュース動画も作られています。わたしは映画コムというサイトで「ドキュメンタリーの時代」という毎月連載を書いていることもあって長くたくさんのドキュメンタリー映画をいていますが、最近の海外のドキュメンタリーにはこのようなライブ感がトレンドになっていることを強く感じます。
ここから先は
¥ 300
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?