SNS時代にもっとも重要な文章術は「誤読されないこと」である 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.768

特集 SNS時代にもっとも重要な文章術は「誤読されないこと」である〜〜〜SNS時代の「日本語の作文技術」について考える(第2回)


著名な朝日新聞記者だった本多勝一氏の1976年の著書「日本語の作文技術」。これは文章の書き方を教える本としては、名著中の名著といえるでしょう。この本の素晴らしいのは、詩情あふれる文学表現ではなく、客観的でわかりやすい論理的な文章をどう書けばいいのかということに徹して解説されていることです。


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しかもこの本の解説は、徹底的に構造的でロジカルです。ふんわりとした説明などまったくないのです。すべてがきれいに整理されて説明されています。これらをすべて守って原稿を書けば、見事なまでにわかりやすく客観的な文章が書けるのは間違いありません。この本が出てから半世紀以上、その後も大量に「文章術」の本が登場してきていますが、この本を超えるものはいまだありません。


とはいえ、わたしはこの本はあまりにも「構築的」すぎるのではないかと感じています。


1976年はインターネットどころかパソコンさえ普及しておらず、文字を読むのは紙の媒体のみでした。媒体の数は限られていたし、無料の媒体もほとんどありませんでした。読むためには本や雑誌や新聞を買わなければならなかったのです。つまり「文字を読む」という行為は、時間もお金もかかるものでした。


だから当時の人々は、文字を愛おしむようにじっくりと読みました。読み終えるのがもったいないぐらいの気持ちで、ていねいに読んだのです。そうしないと読むものがすぐになくなってしまったから。「活字中毒者」という言葉もあったぐらいで、手もとに未読の本や雑誌や新聞がなくなってしまった活字中毒者は、新聞の折り込みチラシの文面まで読んで、活字への欲求を満たそうとしました。いまの若い人は信じないかもしれませんが、そういう時代がたしかにあったのです。


「日本語の作文技術」はそういう時代の文章術です。愛おしむようにていねいに読んでくれる読者の気持ちに合わせて、文章もじっくりと書かなければならなかった時代です。そこで、構築的で厳密な文章術が求められたのです。


作家の故井上ひさし氏は、よい文章を書くというおこないは「過去と未来をしっかりと結び合わせる仕事にほかならない。もっといえば文章を綴ることで、わたしたちは歴史に参加するのである」と説きました。これも文章術の名著として知られる「自家製 文章読本」(新潮社、1984年)でそう書いています。


「ヒトが言語を獲得した瞬間にはじまり、過去から現在を経て未来へと繋って行く途方もなく長い連鎖こそ伝統であり、わたしたちはそのうちの一環である。ひとつひとつの言葉の由緒をたずねて吟味し、名文をよく読み、それらの言葉の絶妙な組合せ法や美しい音の響き具合を会得し、その上でなんとかましな文章を綴ろうと努力するとき、わたしたちは奇蹟をおこすことができるかもしれない。その奇蹟こそは新たな名文である。新たな名文は古典のなかに迎えられ、次代へと引きつがれてゆくだろう」


このような時代を超えていく文章こそが名文であり、わたしたちは名文を目指さなければならないのだという主張です。そして井上ひさし氏は、時代を超えていこうという気概が世の中から急速に失われていっていると嘆き、テレビをやり玉に挙げています。


それによると、テレビは1970年代ぐらいから「一回性」というものを重んじるようになったと言います。一回性は「ハプニング」とも呼ばれ、「視聴率はどかんと稼ぐが、放映そのものは一回こっきり、二度とは放映しない。それがテレビというものだ」いう思想で支えられているのだといいます。続けてこう書いています。


「書物に引きつけていえば<再読に耐える名作や名文なんていらないよ。読み捨てられ、忘れ去られてかまわない>というわけだ。一瞬大いに当って、ある時間すぎれば消えて失くなってしまった方がいいのである。時間を超えたい、いいものを作りたいなどというと『小狡いエリート趣味』『 嘘っぽい』『根暗、やーね』と一笑に付されてしまう」


井上ひさし氏がこの文章を書いたのは、1980年代前半。先ほども書いたように、このころまでは媒体の数は少なく、人々は活字を愛おしむようにしてていねいにじっくりと文章を読んでいました。文章は「時代を超えていくもの」だと皆が思っていたのです。


しかしSNSが普及した現代では、ウェブページの数は無数にあります。ウェブメディアの記事を読み、フェイスブックやツイッターの投稿を読み、キンドル・アンリミテッドで月額定額制の本を読み、どんなに読んでもすべてを読み切れることは絶対にありません。文章は世界中に無数にあり、わたしたちは無料もしくは定額の料金で無限に読むことができるのです。


だから現代においては、文章というものの持つ重みが昔とは徹底的に変わってしまっています。井上ひさし氏がかつて書いた「テレビの一回性」というものが、いまや文章にも当てはまるようになっているのです。永遠に時代を超えて生き残っていく名文ではなく、いまこの瞬間のためにある一回限りの文章。それが、SNS時代の文章の本質です。


とはいえ、現代の文章は井上ひさし氏の言うように「読み捨てられ、忘れ去られてかまわない」だけのものではありません。瞬間的に消費され忘れ去られていくのは確かですが、同時に文章はわたしたちの大事なコミュニケーションの道具にもなっているのです。


インターネット以前の世界では、コミュニケーションの主体は音声による会話でした。対面してしゃべり、電話でしゃべる。手紙を書くこともありましたがどちらかといえば副次的で、主体は音声でした。しかしネットが普及してわたしたちはメールやメッセージをやりとりし、SNSで多数の人と同時にやりとりするようになりました。わたしたちは日々、膨大な数のテキストによるコミュニケーションをおこなっているのです。


もちろんSNS時代にも、素晴らしい文学は変わらず素晴らしい文学であり続けているでしょう。文学のための名文があるということを否定はしません。しかし大半の人にとっては、文章はもはや文学のためのものではありません。わたしたちにとっての文章術は、文学の名文を書くためではなく、より良きコミュニケーションをとるためのツールとして考えられるべきなのです。


静的な名文ではなく、動的なコミュニケーションのための文章。そういう考えかたが必要なのです。


本多勝一氏の「日本語の作文技術」に話を戻しましょう。この本は素晴らしく勉強になりますが、やはり静的な名文という価値に引きずられています。紙の新聞の時代のジャーナリズムの文体を追求しているのです。まるで壮大な教会建築を建てるように、構築的なルールで文章というものを考えているのです。


だから現代の日本人は、この本のルールをすべて修得しようとは考えなくてもいいでしょう。ただ「日本語の作文技術」には、SNS時代にも採り入れられそうなルールもいくつか書かれています。そこでここからは、それらのルールを抜き出して紹介しましょう。


まず、複数の修飾語をどういう順番で並べるかというルール。「日本語の作文技術」では以下のような例を挙げています。


「白い紙」

「横線の引かれた紙」

「厚手の紙」


これをひとつの文章にするには、どう並べれば良いか。そのままの順番だと「白い横線の引かれた厚手の紙」。これだと横線が白いと読めてしまうからNGです。じゃあひっくり返して「厚手の横線の引かれた白い紙」はどうか。これも、横線が厚手だと読めてしまう。ではどうすれば誤読されないように並べられるでしょうか。


「横線の引かれた白い厚手の紙」

「横線の引かれた厚手の白い紙」


このふたつは誤読される心配がなく、すっきり読めます。ではこれをルール化するとしたら、どういう説明になるでしょうか。



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