見出し画像

2chからmixi、Twitterと動いたネット史から学ぶクラブハウスの可能性 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.642

特集 2chからmixi、Twitterと動いたネット史から学ぶクラブハウスの可能性
〜〜クラブハウスと音声メディアの未来(第3回)

 雑談ができる音声SNSのClubhouse(クラブハウス)についての論考シリーズ、第3回です。これまでの2回で、音声SNSには雑談テクノロジーとしての大きな潜在可能性があること、しかし普及するためにはリアルタイムで集まる必要があるという「同期」の性質を乗り越え、非同期的な機能が求められるのではないかということを論じてきました。

 シリーズ第3回の今回は、クラブハウスがツイッターなどと比べてクローズ(閉鎖的)であり、親密な雰囲気を作り出しやすいという特徴について考えていきます。

 そもそもソーシャルメディアにはオープンなものとクローズなものがあり、それらが時系列に沿って交互に流行してきた。つまりオープンとクローズのあいだで揺れ動いてきたというのが、長年この世界をウォッチしてきた私の見立てです。このネットの歴史を振り返りつつ、クラ初ハウスがツイッターを代替しうるのかどうかというのが今回の主題です。

 さて、始まりは「古代」の話から。

 ネット上のコミュニティの最も古いものとしては、1980〜90年代のパソコン通信やニュースグループ「fj」にまで遡ることができるでしょう。まだネットに接続する人が少なかった時代で、これらのコミュニティはとても親密であり、閉鎖的でした。私はまだ大学生だった1986年、商用ではないパソコン通信の勃興期に「電子村」というコミュニティに参加していたことがあります。ネットワーク上でオータナティブな市民運動を盛り上げようという先進的な活動をしていたグループでした。

 この電子村は当時としては珍しく完全実名制で、アクティブに参加していた人も数十人ぐらいと少なく、ひんぱんに「オフ会」を行い、そこでも盛んに政治や社会についての議論を行っていました。参加していたのは新聞記者や国会議員の秘書、大学の先生、キリスト教の牧師、それに私のような大学生と多士済々でしたが、幾分スノッブで知的な雰囲気もあったと記憶しています。

 この時代のネットのコミュニティは電子村に限らず、人数が少ないせいもあって親密な雰囲気が濃厚でした。草の根パソコン通信時代のあとにやってきた商用パソコン通信の時代には富士通のNIFTY-Serve(ニフティサーブ)や日本電気などのPC-VANなどに人々が集まりましたが、親密で閉鎖的な雰囲気がそのまま持ち込まれます。

 ニフティは会議室別に掲示板がわかれており、会議室に入るのにはモデレーター(当時はシスオペと呼ばれてましたが)に申請が必要なところもありました。許可が出るとおそるおそる挨拶を書き込み、すると牢名主みたいな古参の参加者から「まあゆっくりしていきなさい」的な返信があり、さらには会議室ごとに細かいルールやマナーがたくさんあって、踏み外すと厳しく怒られ…とまあ、親密ないっぽうで非常に面倒くさいところではあったわけです。

 だからこの時代のネットコミュニティは、わりに面倒なところではあったのです。そして1995年になるとWindows 95が発売されて、特別な知識なしに電話回線経由でインターネットに接続できるようになり、ネットへの間口が広がっていきます。そんななかで登場してきたのが、1999年の2ちゃんねる。
 
 いまは「5ちゃんねる」になっているこの悪名高い巨大匿名掲示板は、さまざまな悪意、誹謗中傷、荒らしなどで埋め尽くされてきました。最初に問題が噴出したのは、2000年5月に起きた福岡の西鉄バスジャック事件でした。牛刀を持って高速バスを乗っ取り、3人を刺して1人を死亡させた17歳の少年が犯行直前、2ちゃんねるに犯行予告のような書き込みを行っていたのです。この異常な行動を「2ちゃんねる」の匿名性やアングラ的な性質と結びつけ、若者たちの犯罪を助長する存在として、新聞やテレビはたいへん厳しく批判しました。

 とはいえ、当時の2ちゃんねるは諸刃の刃だったとも言えるでしょう。荒らしなどが大量にあった一方で、企業の内部告発や、その業界にいなければわかりえない裏事情などがさかんに書き込まれて、日本社会のオープン化に寄与した部分もあったからです。つまり2ちゃんねるの隆盛の背景には、日本社会の閉鎖性に対するアンチテーゼとしての価値があったということなのです。

 1990年代後半は、日本社会の大いなる転換点でした。1995年に阪神大震災とオウム真理教事件があり、97年には金融危機で山一証券や北海道拓殖銀行などの大手金融機関が次々と破綻。「大企業でも潰れるのだ」という、昭和のころは予想さえしていなかった現実を突きつけられたのです。そして2000年代に入ると派遣法などの改正があり、非正規雇用が増えて終身雇用制が揺らぎ、さらに失われた平成という不況の期間が続きます。90年代から2000年代のあいだに、昭和のころとはまったく異なる社会へと日本は変貌したと言えるでしょう。

 この激変に最もとばっちりを食ったのが、1970年代生まれの世代です。団塊ジュニアやロスジェネ、デジタルネイティブ世代などさまざまに名付けられてきましたが、就職氷河期に直面して非正規雇用に陥る人が急増し、そして同時にネットを使いこなす最初の世代であったという特徴があります。ネットの普及と戦後社会の終焉が重なったのは単なる偶然でしかありませんが、その偶然が作用して、特異な文化的状況をネット上につくりあげたと言っていいでしょう。

 つまり2ちゃんねるという開放的でオープンだけれど、荒ぶる殺伐としたネットコミュニティを作り出したということです。そしてこの背景には古い昭和的な価値観、つまり閉鎖的な日本社会に対するアンチテーゼとしての2ちゃんねるの気持ちよさがあったのではないかと思うのです。

ちなみに2ちゃんねるの管理人だった西村博之(ひろゆき)さんは1976年生まれで、まさにロスジェネの中核世代。むかし彼に2ちゃんねる文化について聞いてみたことがありましたが、彼の説明はこうでした。

「2ちゃんねるには熱い人、一生懸命がんばっている人を馬鹿にし、足下をすくおうとする文化があるんです。正論が通らない。そもそも2ちゃんねるにいることはとても恥ずかしくて、その狭い世界の中で英雄視されることは、現実世界ではとても恥ずかしいことなんです。皆にそういう共通認識があると思います」

 このように2ちゃんねるはシニカル(冷笑的)な文化を持っていました。しかしネットの文化全体がこういう方向に流れてしまうと、逆に居心地が悪くなってきます。人は必ずしも、オープンなシニカルさだけを求めているわけではありません。建設的な意見も聞きたいし、親密な感じも味わいたい。

 そういうところに出てきたのが、SNSのミクシィでした。ローンチは2004年。創業者の笠原健治さんは1975年生まれで、ひろゆきさんと同じロスジェネ世代です。

 ミクシィは当初、当時アメリカで流行っていた最初期のSNSフレンドスターのようなものを作ろうという発想で考えられていたようです。しかし笠原さんはフレンドスターを実際に利用してみて、「ネットで知らない人とつながって、仕事の人脈を作っていこう」というアメリカ型のビジネス寄りのSNSは日本の文化には馴染まないとも考え、より日本に適合させるかたちでアーキテクチャを設計しました。

 それはつまり、友人同士が「つながる」ということを重要視したということです。だからリアルの友人たちと簡単につながれるインフラを目指し、人脈がオープンに広がっていく方向性ではなく、内輪の人間関係で互いに日記を交換し、その日記にお互いがコメントを付けられるサービスとして考えられました。

 さらにこの交換日記サービスを主軸として、友人や見知らぬ人が自分のページを訪れたとき、その記録が「足あと」として残される仕組みなどをうまく採用することによって、気持ちの良いまったりとしたコミュニケーションをネット上で実現することに成功したのです。ミクシィでの友人のことを「マイミク」と呼んでいましたが、このマイミク感が実に気持ちよかったのですね。

 ソーシャルキャピタル(社会関係資本)について論じたアメリカの社会学者ロバート・パットナムは、人と人の関係を構築するインフラには「結束型」と「橋渡し型」があると説明しています。結束型は、友愛にもとづいた緊密な関係でつながった人たちのネットワークをささえるインフラ。橋渡し型は、よりオープンな議論を行うため、異質な人たちとの間でコミュニケーションを成立させるためのインフラです。パットナムは、後者が存在しなければ民主主義はうまく動かないと考えました。

 パットナムの解釈に沿えば、ミクシィは明らかな結束型でした。アメリカで発展したSNSが「人脈を広げていこう」というオープン志向だったのに対し、ミクシィはひたすら閉ざされた暖かな空間を目指したのです。この背景には先ほども書いたように、2ちゃんねるというオープンだけど殺伐とした場へのうんざり感があったことも忘れてはなりません。

ここから先は

10,361字

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?