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川柳句会ビー面 2023年9月

匿名互評の川柳句会の選評と投句一覧。目次に無記名の句一覧があるため、無記名句一覧の仮想体験も可能。


街中にちらばる七味唐辛子

 ありがとう、川柳のテロリズム。川柳はテロの光景を描き出すことを得意としている。だけど、例えば「経済産業省へ実朝の首持参する/飯田良祐」はもっと過激。この街中の句は、ささやかに攻めている。何か不可解なことが起きている。春樹の『海辺のカフカ』で雑魚が空から降ってくるあの感じともまた違う。この句は、実際にギリギリ起きそうなことを描いている。背筋の『近畿地方のある場所について』の街中に怖いシールが貼られまくるあのホラーともまた違う味、そう、辛い。だがそれほど辛くない。それが七味。ふざけている!!!──ササキリ ユウイチ
 辛そう。でも考えてみたら街中のご飯屋さんには大体置いてありそうなので、点在はしてるかも知れない。七味唐辛子同士でテレパシ飛ばし合ってたら面白い。──城崎ララ
 七味唐辛子とは七つの薬味をひとまとまりに調合したものを指す。それが散らばったのであれば、あるひとつの薬味一粒一粒に戻る。七味唐辛子が街中にちらばるとき、どれほど密集すれば七味唐辛子であり、またどれほど散逸すれば七味唐辛子でなくなるのだろうか。──南雲ゆゆ
 七尾旅人さん"夜、光る。"のロマン(東京全域に夜光塗料が散布され……)を、怒りでもって唐辛子に味変。諧謔でもあるしやけくそでもある。その内訳を読み取る材料は足りてないけど、ぎりぎりコミュニケーションが成立しそうなところに惹かれます。ちらばる状態のみ描かれた句なのに、怒りをうっすら感じられたあたり、字面に現れないなにかがありそう。一味じゃなくて七味なところの複雑さに、その辺がこもっているのかな。ちなみに七味=唐辛子・陳皮・胡麻・麻種・紫蘇・山椒・生姜(以上、八幡屋磯五郎HPより)。あでもこれ、七味の瓶がちらばってる読みもあるのか。それもシュールでいいです。ハプニングアートみたい。何を言いたいのか読み取れなさがちょうどいい。──西脇祥貴
 スロットなのかなって思う。小さなものが街中で起こってて、それは誰かが靴を脱ぐ動作だったり、注がれる飲み物だったり、ちらばる七味唐辛子だったり。七味唐辛子はスロットの中では当たりだと思ったけど、当たりってわかる当たりだから、もしかしたら「辿り着けてしまう」当たりなのかもしれない。辿り着けないところに行きたい。──雨月茄子春

手も足も出ない?いらない!こけしの目

 何でか分からないですが「いらない!」の文字を読んだ瞬間、泣きそうになったんです。だから特選です。少女アニメみがあるのかなあ。こけしには手も足もない。でも出ないじゃなくていらない!と宣言する、こけしの目の強さ。あとこれはビー面の不思議さで、夏雲システムだと「!」が斜めに見えてるんですね。斜めの!だからこそ想像させる主体性、のようなものも含めて刺さりました。──南雲ゆゆ
 「目」に着地したのが眼目と思う。「出ない?いらない!」の畳みかけもソウルに響いてきて良い。──雨月茄子春

yo yo yo yo 祭りのあともトイレに行けない

 よよよよ……と泣いている感じ。ローマ字にするとご機嫌になる。祭りのあと→トイレ行けない、は身も蓋もないというか、近い気がしてしまう。──雨月茄子春
 あとの祭り、的な文脈を添えろということ……? いや、一大事なんですけど、yo yo yo yoがあまり切実さを感じさせないというか、いや、もっと怖ろしい圧迫の句なのか……? それによってやけになっているという。祭りのあとも以降が7・8と、なんとか十四字定型で読めなくもないつくり上、いやに目立つyo yo yo yo。これ汎用性高いですけど、いったいどういう効果をもたらすんでしょう。……「yo yo yo yo かけがえのないみりんだったね」(暮田さんごめんなさい)……どうなった、え、どう見える?? 勢いは間違いなくついたけど……あー、しかし、別の、何か別の親しみやすさが生まれてはいる、独特の、あの、田舎イキり風の……。それはつまりしょうがないなあ的かわいさ=後輩感。だとするならこれもひとつのポップ、なのか?? あともう一手、祭りがもともと異性間の出会い✩まぐわいの場だったことを思い合わせれば、トイレに行く暇もないほどお盛ん、という読みもでき、これだと田舎フィールはばっちりはまるとも言えます。だとしたら、ビー面もここまで来たんだね、って感じ。呑み込め「伝統」川柳!!!──西脇祥貴
 トイレに行けない、という地味にいやだけど週に1回の頻度で体験する営みの川柳化だけでも成功しています。成功しているが、これは即興なんですよ、というエクスキュースがある。フリースタイルで最初の1小節がそれかよ、と笑った。──ササキリ ユウイチ
 ラップです──小野寺里穂

家の光線、寝台めった刺され

 単位が来る、くらいの発見を、語調で優に持っていく、みたいな力技はおもしろい。寝台って腹パンされてくの字になってる様子が似合う。この寝台はそうなってる。ありがたいです。──雨月茄子春
 「刺され」の受け身がいい。──小野寺里穂
 めった刺され(て)、と続く感じなのか、めった刺されという状態なのか。。。──西脇祥貴

客室にもちこむ金魚は二匹まで

 ひたすらに良い句。ホテルの客室を想定した。客なのにオーナーから要求される状況は「注文の多い料理店」のオマージュだろう。この客は夏祭り会場近くにホテルを予約していたのだろうか。金魚すくいで三匹以上とれれば多いほうで、きっと楽しく過ごせただろう。お祭り気分の余韻に浸るその手には金魚が泳ぐビニール袋。そこに水をさすホテルマンの眼差しの奥にはどこまでも暗闇だ。ところで、客室にもちこまれなかったほうの金魚たちはどうなったのだろう。ホテル側の要求に思考を深めていたら、客室前の廊下から抜け出せなくなっている。──南雲ゆゆ
 客室と金魚の入っている袋の入れ子構造なんだと思った。ということで客室に入るのもふたり。金魚が最大数持ち込まれるとしてペアが二組客室に入ることになる。短い言葉でこれだけ情景が広がる。良い。──スズキ皐月
 おもしろい、んだけど、おもしろいことを理でやれすぎている気がする。笑わんぞ、となってしまう。あたしはおもしろいって差し出されたものを食べて、「おもしろい」以外の、作り手の手の外にある何かを見つけたいから、この句はそのあそびがちょっと少ないように感じる。──雨月茄子春
 落ち着きがいいんですけど中八が気になって(よくない癖)、必然であればもちろん許容できるんですけど、これはどうにかできそうな気もします。内容としては、「二匹」へ重心を置いて引っかからせる流れがわかりやすいながら、もちこむ、で切って、いろいろな持ち込み品のある中金魚は二匹までですよ、と読むのがスムーズかなと思いました。このディテールで生きている句。──西脇祥貴

寂しさのなかで泡立っている

 寂しさという普遍的な感情に対して、泡立つという表現は非常にフィットしている。泡立って上下左右が不覚になっていく状態、自分自身が気泡になって消えかける感覚がわたしの身にもリアルだ。──小野寺里穂
 ぷくぷく……──雨月茄子春
 第3回海馬万句合、題「小町が行く僕は一本の泡立つナイフ」への投句候補? 直球なので折に触れ思い出しそうだし、窮地には隣にいてくれそうです。ただどうしても、上下の句と比べてみると弱く見えちゃいますし、既出かも、という気もしてきます……もう一声。──西脇祥貴

ずいしょーずいしょーしよー良い鳥はくるよ

 しょーこーしょーこーを自分以外にも彷彿とした人がいるならそういう磁場がこの句にはあるということになります。──雨月茄子春
 瑞祥ね。名前に祥の字あるからその変換は早くしてしまって、でもそれでいいのかと思いました。知らないまま読んで、鳴き声とかそっちに取る面白さをナマで味わいたかった……。そのうえでなお「ずいしょーしよー」はキャッチ―だし、「良い鳥」は「いいとり」なのか「よいとり」なのか悩ましいです。たぶんしよーよ、だから「よいとり」?──西脇祥貴

息切らし火炎木へと辿り着く

 "カエンボク 、学名 Spathodea campanulata は、ノウゼンカズラ科に分類される花木。ジャカランダ、ホウオウボクとあわせ世界三大花木と称される。" なるほど。息を切らせて自然物に寄る、という動きはそれ自体がポエティックなのでかなり警戒したいところだけど、火炎木の「火炎」がこの句の色調を作っていて工夫がなされてるなと思う。──雨月茄子春
 実在する木だとは。火炎木が季語の俳句にも見えるのにそうではない(実際は季語じゃないそう、もし季語だったらごめんなさい)。そう見せる川柳にすることで、火炎木から引き出せるものや思念の幅・深さを広げようとしているようにも思えます。季語でないことで、季語のことを考えさせられるというある種ひねった句。──西脇祥貴
 こういう川柳も結局好き。火炎に生命を吹き込む仕方って色々あると思うんだけど、詩として、胸がきゅんとした。──ササキリ ユウイチ

晴れた日に干すためだけの羽

 過剰な、無意味さを強調する限定の仕方なのだと思う。ハ音についてことさら取り上げるつもりはないけれど、気が抜けていて、かつ緊張感があって、(この緊張感は乾くことの物質的な硬さにあると思う)いいんじゃないかと思う。──雨月茄子春
 羽毛布団だ。と思ったし、花手水の花みたい。──城崎ララ
 簡単に5・7・5にもできる(「羽がある」にするだけで5音になる)中でこの形にしたのはこだわりを感じる。初読では「晴れた日に/干すためだけの/羽」で読んだのだが、最後に羽の2音が残ることでたくさんの羽ではなく、片翼だけぽつんと干してあるのではと感じた。なんのために干すのかわからないが、よその家の洗濯物ってそんなもんかもしれない。──スズキ皐月
 羽のミニマムな機能の提示。過不足ない詩性。──小野寺里穂
 青鷺が干してたんですよ、微動だにせず。このためだけの羽なら人間も持てないかなあ、と思って。飛ぶ? 飛べるわけないじゃん人間が。──西脇祥貴

晩年にとろみがついた子どもたち

 この「子どもたち」、現実的には年取らないんじゃないかな。なんとなくそんな印象。永遠に子どもなんだけど、そんな子どもたちにも晩年はいずれやってきて、良い感じのとろみがつくのではないかな。とろみがつくことが善いことか悪いことかはわからないけど。──太代祐一
 人生の晩年という受け取り方もあるんだろうけど、ぼくは子ども時代の晩年として受け取った。子どもはよく言われる可能性の塊で可変的だったり液体みたいな存在である。そしてこの句の世界ではおそらく大人、さらに老人になるにつれて固体的になる。となると大人になる手前、子ども時代の晩年は液体と固体の中間、とろみがついた状態なのかもしれない。みたいな解釈ができるのが面白い。──スズキ皐月
 言葉としても画としても面白い。──小野寺里穂
 結句の子どもたちはおもしろくなる、それはOK。あとは大喜利。晩年、とろみ、それは辿り着けると思う。同じレイヤーの脳で。脳のレイヤーをねじれさせるには……難しい。──雨月茄子春
 「に」、でいいのかどうか……。理屈が通ってないとまでは言えないのですが、なんだか引っかかってしまいました。「に」であるために、「晩年にとろみがついた」が現在おこった変化であるように見え、なのに晩年? いや、晩年を時間のことばとしてでなく、別の概念として読めば……とも思ったのですが、子どもとの対比といい、この句の使われ方ではちょっと無理があるかも、と感じました。たとえば「の」にして一回切ったらどうか、とかいろいろ考えましたが、それもそれでむずかしかったです。──西脇祥貴

マルフォイは実はMac派 だからスリザリン

 でまかせから史実に回帰させる、という変な試みがあると思う。結果が合ってるので過程は無視される、みたいな、数字が合ってれば計算式は問わない、みたいな。この方向性おもしろいかもしれない。──雨月茄子春
 「実は」を抜くと十七音になり、しかも元の発想も死なない→あえて「実は」を入れていると。口語調を確保するためでしょうか? その効果やいかに……。念押しされることで、なに言ってんの感は強まるかも。──西脇祥貴

アポイントみたいに「いつ?」と聞かれて 邪

 じゃ! 音数的によこしま、ではないんじゃないかと。しかし汎用性高いですね、邪。声に出したらおもしろそうな句。それでは、のじゃ、とも響きます。ただあまりの汎用性の高さに、邪以前にどんなエピソードが入っても収まりそう。句末邪縛りで句会までできそうです。邪句会(よこしまくかい)。可能性。──西脇祥貴
 「いつ?」なんて聞き方は、確かにアポイントを取るというよりは、むしろこちらの私的時間を当然割いてもらえるはずだという傲慢さの表れに思える。アポイントを取るのは対等な関係での単なる予定のすり合わせという感じがするのに対して。だけど向こうはアポイントを取ってきているつもりなのだ。悪意はないだろうが、舐められているとは思う。その辟易感を思い出す。──南雲ゆゆ
 自分とのことを仕事にされたら嫌、ですよね。──雨月茄子春

冷肉の沼にいってかえったあと、

 れいにく? ひやにく?? いったん通り過ぎた後、?と折り返しちゃう不思議単語「冷肉」。しかも「沼」。地形としての沼もあればもちろん趣味の方の沼もあり、ただしはまるわけでではなく「いってかえ」る。このあたりの書きようの雑さ、この句では瑕じゃなくて魅力になっている不思議。もはや固有名詞じみる「冷肉の沼」のウェイトが対比でそうさせるのかな。ひらがなで「かえったあと」なのも、ワンダーを殺さない配慮のように思えます。そして、で続く。前にササキリさんがビー面に出された句「寒い丘。帰りはなにかそっけない、」と同じ説話上にあるよう=同じ連作内の句のよう。つくりが一緒なだけじゃん、と言われればそれまでですが。いやそれまでじゃないよ。たしかに多分にササキリみがあることは認めますが、寒い丘句から進んでいるところはあって、ひとつには先に挙げた「冷肉の沼」の固有名詞としての作り込みよう。これは思ったより手間がかかっていると見た。見たい。物語を含んでいますよアピールが強い本当に不思議な命名で、下手すれば持て余すような強さなのに、句が潰れてない。それはもうひとつの進んだところ、「いってかえったあと、」受けの力。どんなワンダーだろうと日常の中にたたき落とす。ありがたがらない。その態度に並選です。──西脇祥貴
 、いらないわ。やっぱ──公共プール

安、全、な語り手だけがいる島なんて

 選してる時点の自分は今、限定の用法がおもしろいのかもしれない。「安、全、」には切実さがあって、ただの限定遊びにしていない。何かが伝わってくる。川柳の強ボタン技ってこの切実さ由来の「凄み」なのかも。──雨月茄子春
 「信用できない語り手」のことを言っているんだと思うのですが、すでにこの句の語りが信用できないこわさがあります。なぜ「安全な」というだけの単語をわざわざ「安、全、な」と分けているのか。おそるおそる言っているのか、一字ごとの意味を噛み締めているのか? そうして言いおおせた後、それだけためらっていたはずなのに、どうしてことの範囲を島まで大きくしているのか? さらに「なんて」終わりにより、つづくことばとして「ありえない」のようなアンチのことばが想起されますが、ではこの句の語り手はどうなのか? といぶかるに至って、この句の語りが信用できなくなってきます。どこまでいっても不安定。その不安定さが、「島」ということばが出ていることによって、自分の足元にまで移っていきます。ぐらぐら。その状態でもう一度この句を声に出そうとすると、あ、「安全な」って、すっと言えない……。今この島で「語る」ことについての、日常目を背けているうしろぐらさを、読み手に体感させようとする句。一度不安になるとすがるように言うしかなくなります、安、全……。──西脇祥貴
 「安全第一」「安全と安心」工事現場にも公共施設のポスターにも安全というスローガン氾濫している。安全の過剰さが「安、全、」という表記による強調により示されている。安全さを強調されすぎてるこの語り手はおそらくミステリでいう「信頼できない語り手」だ。──南雲ゆゆ

随意に詰る明白な配送の列

 葬送の列、に見えるのは、「随意に詰る明白な」が「葬送」と同じ次元にある言葉だから(あるいは、「配送」よりも高い次元にある言葉だから)だと思う。これが成功している(他の評者からも同様の意見が出ている)なら、【言葉の位相をずらした幻視】が可能ということになるかもしれない。可能性がある一句と思った。──雨月茄子春
 いまだに頭でっかちの七七五韻律探していてごめん、と思っています。──ササキリ ユウイチ

銀座の便座の色 ホワイッ

 あー、白(white)となぜ(why)、か……。泥酔後のかぎりなく哲学に近い与太話の勢いにシャッター切って、成功した方の句だと思いました。あるいは「銀座 便座」というジョイマンさんのラップの、細部を書き込んだようでもある。セイッ、て言うし。ソフィスティケイテッド・ジョイマン……?──西脇祥貴
 色に着目すると、「銀座」が分解されて「銀」の「星座」に見えてくる。語彙単位で、どうしても便座に気持ちが乗らず、また、後半のノリにもちょっと高まれなかった。──雨月茄子春

指への意識は要りませんのよ

 今回こけしの句があって、そこと響き合うような読み方をしてしまった句でした。体の中でも手先、とくに指を使った操作や動作が多い時代だし、それを「要りませんのよ」なんて丁寧に否定されてしまったら戸惑ってしまう。必要の要で表される要る、要らないには圧も感じますね。──城崎ララ

顛末の平均点を冒険す

 平均、という語のおもしろさに、「似たものが複数あることを前提とする」というものがあると思う。ここでは顛末が複数あることが示されている。さまざまな物語の顛末があり、それらを時空移動するように闊歩する。楽しげな雰囲気が魅力的だった。──雨月茄子春
 顛末のe、平均点のへーのe&点のe、冒険のぼーの長音と険のe、で、声に出して読むのにおいしい流れがつくられています。内容は手堅い印象ですが、平均点と冒険が逆すぎて近いかも。──西脇祥貴

鈍感力で契れる苺

 鈍感力と苺という取り合わせ、契れるという言い回し、字面の割りにファンシーな世界観、七七句よいです。──小野寺里穂
 うん、うん、よい……。七七の下の句4・3がそんなに気にならないのは、上が6・1しかも6がほぼ固有名詞という速さのためでしょうか。七七の下4・3が嫌われるのって、心地よすぎるから(奴隷の韻律!)だと思うんですけど、上でここまで振りきれば使えるんだなあ、というのは発見でした。あと「苺」一文字で終わるのも言い切る感じがあって、心地よさを断ち切っているようです。縦書きにすると苺、いい重しになるし。内容にしても、結局一粒の苺(品種として、というより一粒が見えるのも、「苺」一字のおかげ?)に収れんするので手触りがあって散らないし、それがどんな苺→「鈍感力で契れる」苺、ってなにも明らかにしてやんないひねくれぶり。だからといってなんだか無視できないワード「鈍感力」が使われているあたり、もぞもぞさせられます。なにか未知の読み筋があるのでは……? と延々引っ張られちゃう。でも浮かぶのはただ苺。ポップな罠。──西脇祥貴
 鈍感力があれば、はっきりいってなんでもできる。契るな。──ササキリ ユウイチ

膝から先で喋りすぎかも

 そのまま慣用句になりそうな整い方が気持ちいい。そして「すぎ」があることで「膝から先で喋る」がネガティブな意味合いだと伝わる。そして感覚としては焦っている感じで受け取ったのだが、それは「勇み足」とか「膝がふるえる」みたいな言葉からのイメージだろうか。わかりそうでわからないが面白い。──スズキ皐月
 七七句に口語の「かも」って実は(?)高い親和性があると考えている。それは定型、特に575の終わりとしての77に訴求するからなんだと思う。──ササキリ ユウイチ
 そうかも。いやまじでときどきそうかも。脚部の話をしているのに、細っていく様子、ぶらぶらする様子がすっと口調につながる不思議。もうちょっとお腹でしゃべりたいなと反省する日々。──西脇祥貴
 身体の任意の場所に目や口があるつもりで演じるという演劇のワークをやったことがあって、それを思い出した。しかし、川柳は演劇のようなフィクションを挟まずに、文字通り真面目にその言葉を引き受けるからこそ面白いということも知っている。翻って、歩き方、足捌きって多弁的ですよね。──小野寺里穂

野焼きのウインク、見ていましたか

 爆ぜる音のパチパチ。これがウインク。あるいは、野焼き前と後の地表、そのさらに後の地表(野焼き前に戻る)という、大きな時間軸の中のウインク。それを「見ていましたか」と尋ねる。静かに、おおらかに訊いてくる。何か崇高なものに語り掛けられたような、妙な重みのある句だと思う。──雨月茄子春
 ええ、見ていました。わたしの地元では時季がくればあちらこちらで野焼きがおこります。野焼きって一応禁止されていて、黙認されているだけらしいですね。そんなの間違いなくウインクしてるでしょう。違法性を認識しながら野焼きを無言で見つめるとき、私たちはいつだって野焼きのウインクを目撃しています。野焼きのウインクを黙認する私たちは、野焼きと共犯関係を結ぶのです。──南雲ゆゆ
 野焼きの(ときの)ウインク、と取るか、野焼き(の炎の)ウインク、と取るか。見ていましたか、という展開をかんがみるに、せっかくなので後の方で取りたいところです。自然現象のウインク、という大きさ、神秘とともに、見ていましたか、と念押しされる=見てなさいよという第三者からの圧力が感じられ、読み手は野焼きに対してなにか呵責のようなものを抱かされます。だとすれば重要なのは、何が焼かれているのか。何が、焼かれたうえでウインクしたのか。。。怪奇現象と棚上げするには妙に距離の近いできごとのようで、ないはずの罪科を探してしまいます。──西脇祥貴

卒業式 シークバーに手を伸ばす

 卒業式って、立ち上がったり座ったり、来賓の名前を延々と読み上げたり、やたらに長く感じる。後年になって卒業式の映像をみているという読みよりも、今まさに卒業式の最中で、現実そのものにシークバーが存在していて、この人がそれに手を伸ばしている、そんな指先を想像した(見逃した瞬間まで戻すとか、退屈だから飛ばすとか)。──太代祐一
 操作する、ではなく、手を伸ばす、か……気持ち、なんですかね。〜したい、の気持ち、なのかな。──雨月茄子春

かわいくて仕方なかった女の子

 ビー面の場にこの句があることで立ちあがる不穏さ、というものは認めるとして、しかしあまりに内容がそのまま、なような……。なにか読みそびれてるのか……?──西脇祥貴
 今回は全体的に軽い句が多いと感じたが、この句も会話の一部を切り取ったような簡潔さがある。物足りないからこそ後を引く。──小野寺里穂
 あーーー、これ、これを逆にちゃんと味わいたい。って思いました。これはまだ「作れる」と思うけど、この抜き方で、「作れない」になる何かを。──雨月茄子春
 「彼女をもっと支配したい気持ちとむちゃくちゃに壊したい衝動が激しく混ざり合う。この、相手を摑んで握りつぶしたくなるような欲を、男の子たちがいままで”かわいい”という言葉に変換して私に浴びせてきたのだとしたら、私はその言葉を、まったく別なものとしてひどく勘違いしていたことになる。」綿矢りさ『ひらいて』より引用。──太代祐一

炉のクリームの(それともお湯の品名かしら)自慢ばかりが

あやとりも過疎に向かっていくんだよ

 あやとりってもう既に、どちらかというと過疎の側にあるものじゃない? とも思ったけど、この作者にとっては違うみたい。自分にとって親密だったものが、ゆっくりとでも着実に過疎へと向かってゆく、やわらかな諦めをこの句からは感じられて、なんだかさびしい。そのさびしさを語尾が強調していて効果的。──太代祐一
 あやとり人口の減少=過疎、という言い方!──西脇祥貴

燃え方が悪くて不埒だとされる

 たしかに情念の火力が低いとそう言われ評価されるが、何もかも燃やす高火力だと周囲のそういう野次馬も焼尽しちゃうので、ずっと遠くの星の輝きとして気高く美しいものになる。警句として愛唱したい句──公共プール
 不埒と言われても仕方ない燃え方とはどんなものなのか、気になる。──小野寺里穂

円周率拾遺

 9音一本勝負……やっぱりまだまだ短律にははーっ、とさせられます。いいの、いいの?? という。なにがだめなん、と問い返されて初めてあ、だめじゃないわ……となるという。自分でやることを考えると、川柳側からの「いいの、いいの??」へ自信を持って「いいの!」と言わなきゃならないプレッシャーがあるのも知ってますし。だからこそこうして出て来て、しかもいいと、はーっとなります。にしても漢字五文字。ただ漢字五文字のみのかたまり(まとまりが良すぎてもはや文字列と呼ぶのも違う気がする)に、これほど惹きつけられるとは。拾遺、というからには本伝があるわけで、それが円周率。永遠に終わらない数列、しかも循環しないやつ。そこに実は物語があった! という逆転看破。いったいどんな物語だろう……と数列をえんえんたどりたい欲にかられる、とこの発想だけでも声が出るくらいすごいのに、この句はさらにその「拾遺」があるんだ、ということについての句になっています。それがさらに「円周率」という物語の底上げをしている事実(例:宇治拾遺物語は、散逸してしまった宇治大納言物語の一部分である、ということから想像される宇治大納言物語の大きさ……)。これだけ短い中に無限の物語が詰まっていると思わせてくれるわくわく感。短いゆえのパワー炸裂。特選です。──西脇祥貴
 かっこいい。私は作らないし私には作れない。終わりがないとおもったら、終わりがあったししかも漏れていたものを見つけて補ってるなんて物語だ。これを川柳一句といえるのは作者の心意気だけだと思うし、それを買いたい。──公共プール

地層になっても見てるよ、その悪手

 気になって仕方のない句。地層になるほどの時間が過ぎても見ている、見られている悪手とはいったいどんな行いか。時間と規模のスケールが「地層」によってぐんと大きく膨らんで、同時に個人からも離れていく。悪手ではあるのにすでに許されているような、放任されているような落ち着かなさがある。──城崎ララ
 許さないという意地は累々なんだから、人生は闘いだ。相手は過去からやってくることもあるし、油断ならない──公共プール
 ちょっと「見てるよ」に粘着質の感覚があるのはなんでだろう。カラッとしてなくて、ねっとりしてる。視線?地層、だから、自然界の大きいイメージが来て、「大きなものに呼びかけられたみたいな」的な感覚になりそうだけど、なんでだろう。人っぽい。──雨月茄子春
 最近は川柳がキャッチコピー化しています──小野寺里穂

尾の丸い犬を崇める 神の裔

 この位置でよかったと思った。──西脇祥貴


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