川柳句会ビー面 7月号


ファイヴ・ミニ、シックス・ヘヴィ、セヴン・ゆらゆる虎鋏

定形外の川柳、自由律を川柳たらしめるものってなんなのだろうという疑問をまだ持っています。五・七・七・五(五・七・五・七?)という定形外の律動を捏造しているのが面白いなと思いました。定型を外れているけれど、なんでもありではなく、別の律動を提案しているような感じが良いなと。ファイブ、シックス、セブン…ミニ、ヘヴィ、ゆらゆる…ちいさい、重い、緩む、虎鋏… 説明的に読むと、小動物が罠から逃げられたと読めなくもないですが、だから何という気がするので、感覚的に味わうのが正解なのかなと。ファイブ、シックス、セブン…といえばチアなのかもしれないけど違う気がする。「ファイヴ・ミニ」から来ていることはわかりますが…
──────────下刃屋子芥子

鈍色の霧が乳首の色になる

なんで変わるのだろう。誰の乳首の色なのだろう。わからない。でもちょっとした奇跡を見ているのではという気分にさせる不思議な句。
──────────スズキ皐月
ほのえろ、ですな……。とはいえ乳首の色も十人十色。その幅を持たせているのがおもしろいところです。乳首というからほのえろですが、要するに肉の色。それにその色になったらどうなのか? という。物によっては鈍色からさほど雰囲気が変わらなさそうです。依然暗澹。でも暗澹を乳首の色でたとえるのは川柳っぽいです。
──────────西脇祥貴

茶柱が立つ洗脳の小休止

五・七・五だけれど七・七的に読んでしまう句。洗脳に小休止があるのか。茶柱=ラッキーではなく、ふいに訪れた茶柱が立つ瞬間、何か理性を超え(理性を呼び戻す?)インスピレーションがあるのかもしれない。洗脳が急に解けることはないだろうが、小休止、というのは言い得て妙な気がしてきました。意識が何かにとらわれている最中、ふと目が覚める瞬間がある、過ぎ去った後のゼロコンマ1秒後に気が付く…ちょっと違う。そのようなスピード感ではなく、茶柱が立つことによって主観がそこにフォーカスし、世界に対するアングルが変わるような、もっとゆったりと、時間が止まるような小休止。
──────────下刃屋子芥子
茶柱が立つ、と洗脳、のほどよい火花の散り方……。ううむ、しかしこのほど良さ、この半年ビー面の川柳を浴びてきた今考えると、いいのか、悪いのか。「心地よい飛躍の幅」、みたいのが決まってきてないか? と自戒も含めて思うこの頃です。であればことばを掘り下げたくて、この句なら「洗脳」でしょう。折しもカルト教団と政権与党の(ああ書いててもいやになる、これが自分の国のことだなんて)のれそれが話題になっている(本当になってるんですよね? エコーチェンバーじゃないですよね??)いま、手触りさえわかりそうなほど不穏なことばです。この洗脳はしかし、教団に限ったことではない、洗脳と明らかに指摘しえない洗脳のことを指しているように思えます。なにものかに、呼吸と同時にされているような洗脳。五感すべてを埋め尽くすせいで、洗脳されているとも思えないうちに進められる、洗脳――茶柱が立つ、という小さなハレを、マイナスからのゼロととらえる穿ち。うん、飛躍というよりこっちでとらえて、「今」の句と見たほうが良さそうです。はやくこの句が古くなるよう願われるような、時代をつかまえた句になっていると思います。……いや、ならないか。悲しいけど。鶴彬さんの仕事に連なる句だと言っていいのではないでしょうか。
──────────西脇祥貴
洗脳にも小休止があれば。その隙に洗脳がとけたら良いのにな。そしたら、茶柱も立った甲斐があったかも。
──────────佐々木ふく

遠くからみたらパトカーみたいな痣

パトカーって遠くにあってほしいですよね。パトカーが近い暮らしは嫌だな。
痣の赤とパトカーのランプの赤が〜と言うのは野暮かもしれない。とはいえそういう色覚的なつながりがやんわりとある。しかもただの赤じゃなくてドス黒い赤。夜のパトカー。「からみたらパトカーみたいな」の音が軽やかで、だからこそ「痣」、びっくり。
──────────雨月茄子春
パトカーみたいな痣、いいなと思いました。パトカーのパトカーっぽさってカラーリングが大きいかなと思うのですが、この痣もしかして白黒?それとも、赤色灯付き?痣そのものに寄っていっても面白いし、「遠くからみたら」もすごく好きです。遠くから見えるところにある痣……とここまで考えて、べつに生きものの痣じゃなくてもいいよなと考え直しました。建物の壁でもいいし、地層とか、葉っぱとか、そういう自然のなかにあるものや不動のものでもいいなと思って。みる対象が距離をとれるもの、定点におけるものだと仮定するとかえってそちらの方がしっくりくる気もします。そう思っているうちにどんどんそっちだったらいいな〜と思い始めて、今はなんとなく明るい廃墟みたいなイメージで読んでいます。好きな句です。
──────────城崎ララ
「遠くからみたらパトカー」まで読んだ際に想像していた距離が、「痣」まで読むと急に近くなる。この距離感の混乱が面白く、「パトカーみたいな痣」という表現も想像をかきたてられて面白い。
──────────二三川練
 遠くから他人の痣を見つめているという仕草が映画的だと思いました。
──────────小野寺里穂
幼稚園児ホイホイ! 発見者も幼稚園児かも。いや、幼稚園児ならすぐ隣に座ってないと発見できないか、これたぶん膝とかにできてるもんな。遠くから見つけられるなんて、これは幼稚園児の目と心を持った大人の所業。でもきっと、幼稚園児も大歓喜です!!!……と、ここまでは無垢な大人の世界。実際のところ、痣とパトカー、不穏でしかありません。痣はどうしてできたのか? あるいはそこに不穏が無くても、浮き上がった痣がパトカーの形だと、なにか外部の力がそこにかかっている気配がしてきます。自分の防衛反応のはずなのに。管理社会がもう、肉体の中からも始まっていることを告発するような句。そうか、外からより中からの方が、何倍も怖いですね。。。
──────────西脇祥貴

星空が猪苗代湖を孕ませる

一見すっと読めるんです。主語、目的語に違和感はあっても、文法に破綻がない。いわゆる飛躍の現代川柳のお手本みたいな句。でもどうしても引っかかる、「孕ませる」。ここにぎゅっと詰め込まれた暴力性が、素通りを許しません。なら順に戻っていきましょう。孕ませられたのは「猪苗代湖」。福島県の淡水湖で、かの会津磐梯山や、『智恵子抄』でおなじみ安達太良山の麓に位置する……ということより先に思い出したのが、猪苗代湖ズでした。そしてそれはそのまま、あの大震災に直結します。いや、直結というほど濃くはない、けど目が合ってしまった以上背けられない、という程度には感じられます。そうして「孕ませる」はじわじわ、その闇を広げていきます。
そしてもうひとつ戻るとそこにいるのが、「星空」。闇だ。果てのない闇。星を浮かべてはいるけれど、あれは実質巨大な闇なのだと、ここまで戻ることで思い知らされます。夜の猪苗代湖はきっと、星空をまんまんとたたえて揺れていることでしょう。それはほんとうに、猪苗代湖が星空をたたえているのか? 猪苗代湖が、星空に孕ませられてしまった姿ではないのか? 言うまでもなく、宇宙空間は放射線まみれの、死の空間です。……はあ。絵解きはここまで。我妻俊樹さんが、川柳は通り抜けのできる詩型だ、とおっしゃってみえましたが、ここに通り抜けを許さず、引き戻させる川柳が生まれましたよ。それもおそらく、短歌の戻り方とは性質が違う、戻され方、とでも言うような、句の力のはたらきが満ち満ちています。でもこれは怖ろしい空想ではなく、いま、です。その迫力に特選です。
──────────西脇祥貴
ちょっとぎょっとする表現ですけど。たとえば、VOCALOIDとともに「歌い手」が盛り上がった最初のころ、「耳が妊娠した」というコメントがよく流れていました。これは当時結構物議を醸していて、嫌悪感を覚える人が少なからずいるはずです。あるいは、現在だと日本語ラップの即興性のなかに似た表現が出てくる場合があるかもしれません。
そもそも、この性行為に関する喩えは、古い歴史があって、星々と受胎にも多くの歴史がありそうです。でも、猪苗代湖と575におさめられたこの関係は、一瞬美しいと思わせる権利があるように思えます。
──────────ササキリ ユウイチ
 スケール感の違いと「孕ませる」という言葉の強さが目を引きました。
──────────小野寺里穂

かゆさとは停止だももは撤回だ

それがなくても意味は伝わる単語を使うと、必然性が問題になることがありますが(575の数合わせになっていないか等)、この句は「だ」があってこそ完成すると思います。「かゆさとは停止ももは撤回」ではやはり物足りないですね。「だ」で語調を整えるからこそ強く印象を残します。
──────────南雲ゆゆ

脊髄を剣にしたのは資本主義

田中脊髄剣、ですか。『チェンソーマン』読んでないので、単なるその筋に沿った解釈なのか、読み手の方の解釈なのかが分からず……。ひとまず、田中脊髄剣はわすれて読んでみます(てゆうか田中脊髄剣、ってものすごいユーモアですよねえ……)。ああーしかし、脊髄を剣に、が田中脊髄剣に結びつきすぎててわすれられません。これは強すぎる。むりやりわすれようとしてみても、今度は必然性が、なすぎる。想像にかなりのステップが要る……剣、かな? 剣、がだいぶ遊離しているような。そこで引っかかって資本主義にたどり着けない。。。ああもういいや。田中脊髄剣の句として読もう。負けました。そうしたら資本主義までたどり着けます。あの発想そのものについて言った句だとするなら、資本主義の影響力のあまねくはたらいている恐ろしさの句、とは読めます。が、やっぱり『チェンソーマン』知識が要りそうな……。
──────────西脇祥貴

秋までつづく蛇口のささやき

蛇口の水は夏の生ぬるいやつよりも秋のややキリリと冷えたやつのほうが嬉しくて、みんな生ぬるい水を出さないから夏は蛇口が暇をしてささやき始めちゃったりするんだろうなって思った!
──────────雨月茄子春
ビー面にしてはさらっとした句で、田中脊髄剣からささやきまで、ってこの幅に、ものすごく場が愛しくなります。。。こういう句もあってくれるのがうれしい。自分はどちらかというと、田中脊髄剣寄りのことをしている自覚があるので……。つづく以上、蛇口のささやく内容によって趣が変わってきそうです。ただしささやく中身については触れていないのが、想像の余地を残してやさしいでしね。蛇口、よくよく聴くと、しーー……って音がしていることがあるので、実景も想像に味方してくれます。夏に出た句なので、じゃあ冬になったらだまるのかな? 凍るから? とか想像してしまう。宿り木のような一句です。
──────────西脇祥貴

KAWAIIだ鮒になってもKAWAIIだよ

「KAWAIIだ」「KAWAIIだよ」という言い方が、フィリピーナ(あえて断定しています)のカタコトの日本語のようで愛らしい。「KAWAII」は名詞なのかもしれないけれど。鮒はもともとかわいいですが、ちょっとくさいので、鮒になってもKAWAIIだよ、には説得力がある。
──────────下刃屋子芥子
 片言っぽさが目を引くうえに、KAWAIIの強さ。今や世界共通語のKAWAII。一時期のポジティヴな響きをもう超えて、最近ではその暴力性にも目が向けられるようになってきているのではないでしょうか。グロテスクをもとから孕むことばに、笑えない暴力性がまといつく、笑えなさ。それを二回も繰り返しています。ひとえに人間の業の強さなのか、それともまだまだむじゃきな賛辞なのか……。いまだにむじゃきなのはもう罪では? と思いつつ、しかしそれが心からのものなら(ものであるほど)暴力がうしろにむらむらにおいます。あと言うまでもなく、鮒になってもが強い。来世まで捕まえて離さないむじゃきさ……ああ、もうこれは暴力でしょう。無自覚の暴力。KAWAIIによる塗り潰し。ポップに見せた、冷静な告発。この言いぶり・穿ちぶりは、狙ってやっているならポスト暮田さんの一形態なのでは。
──────────西脇祥貴
 「KAWAIIだよ」って断言の仕方がKAWAIIだよ。シンプルだからこその力強さとかわいいをアルファベットで表記するのも「かわいい」の最上級っぽさがあって良い。
──────────スズキ皐月
 カワツー。カワツーじゃん。
──────────ササキリ ユウイチ
 可愛いではなく、かわいい、カワイイ、Kawaiiでもなく、KAWAII。KAWAIIからは、圧を感じます。鮒が可愛いかどうかは主観ですが、おそらく作者にとってはべつに可愛くはなくて、でもKAWAIIって2回も断定するほどの思いがある。その勢いに惹かれました。最後の「だよ」という語尾もKAWAIIだよ。
──────────佐々木ふく

エリンは光、、ギは虫・毒タイプ

獣の奏者エリンの功績はあると思う。光のイメージ。で、読むとエリンギ。脱力感。ギ、確かに虫・毒タイプだ。ギ、ゴギガ・ガガギゴ、ギギギアル、モンスターっぽい。サクッと読めるリーダビリティを用意しつつ、数回読み直させる謎解き要素というか、適度なクイズ感もあって楽しい句です。
──────────雨月茄子春
「エリン」って言葉はたしかに光っぽいし、「ギ」は虫・毒タイプっぽい。ポケモンのタイプで言うところの…って話かと思ったけど、ポケモンに光タイプはないから微妙にズレのある話をしているのかもしれない。エリンギの音に注目してイメージを広げていくのは非常に面白い。
──────────スズキ皐月
 エリンギを「エリン」と「ギ」に分ける発想はなかったです。でも確かに、言われてみればここで分けられるよなぁという説得力。「エリン」は光に、「ギ」は虫(しかも毒タイプ)に属していて、一見正反対のような二つだけど、合わさると「エリンギ」になるのかぁ…と思いました。そう思ってエリンギを見ると、形や質感もなんかそれっぽいです。
──────────佐々木ふく

ゆっくりと呼吸が止まる蜃気楼

ゆっくりと呼吸が止まるのは、瞬間で呼吸が止まるよりも苦しいだろう。呼吸が止まるのが先か、心臓が止まるのが先か、意識がなくなるのが先か… 「蜃気楼」という語をおくと、地平線の先が淡くぼやけ、意識がなくなるのが先のような情景が浮かぶ。なぜか苦しくなさそうだ。
──────────下刃屋子芥子

各地から以心伝心する西瓜

西瓜の切り身はトランシーバーのような形をしている。また、西瓜の縞模様は電波のようにも見える。各地の西瓜は電波を飛ばしてコミュニケーションを取っていると言われても納得してしまうかもしれない。「各地から以心伝心する」という微妙な文法のゆらぎが、説明に陥らない断定に留めているとも感じた。
──────────二三川練
エフエムEGAOの題詠「以心伝心」が今年あったようです。ぜひご覧ください。
──────────ササキリ ユウイチ
 西瓜の大きな丸は、言われてみれば以心伝心しやすそう。各地から転がりながら集まってきて、以心伝心している西瓜を想像しました。
──────────佐々木ふく

左にもみぎも上もしたもいるのぜんぶわたしだから

エモさ。まぎれもないエモ。取らざるを得ません。わたしの強度。この牽引力の強さ。川柳の通り抜けの速度を、「わたし」と頭からの畳みかけでどこまでも上げきった一句です。気になるのは、左だけ「にも」なのと、みぎ、とした、だけひらがななこと。左がベースで、その中に、みぎも上もしたもいる、ということ? そう読むと、左翼の左、も浮かび上がってきますね。その発想で行くなら、確かに右と下を漢字で書くと強くなりすぎる……のかな。それともたんなる見た目のバランス? 妙に気になります。でもそんなのはたぶん本当はどうでもいい。要するにぜんぶわたしだということを、最高速度で言ったまでのこと。そしてそれすなわち、ロックンロールだと言うこと。精神はロックンロール。やりようはポストパンク。榊陽子さん言われるところの、ジャンクです。好き。
──────────西脇祥貴
 わからせてくる腕力があると思う。リズム感もよくて、ちゃんと短詩系を内面化しているのが伝わってくる。わからせられちゃった。
──────────雨月茄子春
 左、みぎ、上、した。揺らいでいる感じがしました。揺らいでいるけど、ぜんぶわたし。そう言えるなら、大丈夫そう。
──────────佐々木ふく

気がつくと違う風景にいる小指

なんというか、人生っていうのは実は小指を違う風景のもとに移動させることを言うのかな、とか考える。小指にフォーカスを絞ったことで、小指の奥の風景がボケて(F値を絞ったカメラみたいに)、でもなんだか菜の花畑とか綺麗な風景である感じは伝わってきて、それは小指が素敵な言葉だからなんじゃないかっていう発見もあった。小指は春とか夏の気持ちのいい季節っぽいイメージを連れてくるのかもしれない。この句、黄色いお花畑の景や、移り変わる綺麗目な草花の風景が見えませんか??
──────────雨月茄子春
 濃い。一見して濃い、ってどういうことなんでしょう。言葉遣いかな。あまり飛ばずに一句ができていて、ビー面の並びではこれも異質と言えるかも(それはとてもいいことです)。その分、句の中にずぼっと引き込まれます。違う風景、だけで想像される風景は万人万別でしょう。どんな風景でしたか、って聞いて回りたい。そしてなぜ小指だけが、その違う風景にいるのか。小指の持つ意味合いをいろいろ考えてしまいます。一番細くて短い指、約束をする指、切って送る指……。なにか五本の中では、いちばん多様な思いを背負わされる指であるように思えます。それだけが、気がつくと違う風景にいる。指だけが。静かなのですが、その小指になにが載っているかを思うと、風景の奥行きが一気に深まります。短編小説みたい。あ、小指を見るとき、そこに載った違う風景が、小指から立ちあがってくる、ということかな。そんな媒介に小指がなるなんて、発見です……!
──────────西脇祥貴
 小指はどこかひっかかる。5本の指の中では心許なさを感じる。今キーボードを打ってこの選評を書いていますが、小指だけ手持ち無沙汰になっている。小指だけは肉体の一部ではなく、どこかへ遊びにいってしまいそうな雰囲気がある。小指だけには人格や意識があるような。
──────────下刃屋子芥子

のさ。なのに。ひるがえっていて白波

言葉を分子構造まで分解していくような実験的な使い方だなと思いました。分解されても詩性が残る語。のさ。なのに。そこからのダイナミックな動きに様式美を感じました。
──────────下刃屋子芥子
 会話のかけら、会話の肉片がぱっと散らされて、そこへひるがえっていて~がつながれている印象です。十七音ですし、安定感もあります。のさ。はたぶん、なんらかの肯定文のしっぽ。なのに。はたぶん、いいことを呼ばない事実の頭。苦々しさやせつなさが、ぐつぐつ中身を記述するよりも凝縮されて表われています。ここだけでぐっと来る、来てしまうところ、それが弱みにならないように接続される「ひるがえっていて白波」。ものがひるがえる、というだけでなく、意見や思想がひるがえる、の意味もあると思うと、定まらない自分のこころ、あるいはおんなじ世代のこころたちの、ままならずくるくるひるがえる様が俯瞰で浮かび上がってきます。それを白波で着地することで、そっと海辺の実景を添わせてくれる。概念句に落ちず、たしかに読み手に添ってくれる、青春(!)の一句になっています。ぼくは夜明け間近の砂浜を想像しました。わかる。わかるよ。でも、ひるがえりつづけようね。
──────────西脇祥貴
何かを話している人がいる。…のさ。…なのに。私に向かって話しているけど、言葉は白波と一緒に、ひらひらひるがえって、語尾だけしか聞こえない。
…心ここに在らずな感じを想像しました。語尾が「…なのに」ばっかりの人はちょっとしんどいかなぁ。
──────────佐々木ふく

残薬や母のシフトを盗み見る

 この「や」がうまく消化しきれず…、皆さんはどうでしょうか。
──────────ササキリ ユウイチ
 いらぬドラマを想像してしまいそう。
──────────佐々木ふく

爆弾に生える産毛はやわらかい

爆弾には産毛が生えている。しかもやわらかい。そうなのかもしれないと思う説得力がありました。その爆弾はもしかすると生き物なのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。けど、やわらかい産毛を持ちながら、ほかのやわらかい産毛をもつものや持たないものを爆破したり(ときどきはしなかったり)するのは、やっぱり、けっこうしんどいことだなと思いました。
──────────佐々木ふく
産毛はやわらかい=自明では? と思いながら、あ、そうか、爆弾に生えている産毛なんて見たことないから、やわらかいことがそもそも衝撃なんだ、と気づくまでちょっと時間がかかっちゃいました。ただごと句……ちがうか、爆弾に産毛はないもんな。いや、じつはこの爆弾、爆弾じゃないのかも。それこそ、赤ん坊とかなのかも、赤ん坊のかたちをした爆弾、なのかも。。。いずれにしても、もう死は近いです。爆弾との距離を考えると、逃げようがない。そんな極限の、末期の感覚でとらえてしまった、やわらかい。ポップなはずの触感を真逆の凄まじさに叩き落とす、ダークでサイケな悪夢の句です。
──────────西脇祥貴

_ この世の塩が足りてない

_ この記号は海でしょうか。夜の海に向き合って座り、その静寂に苦悩を浸しているような印象を受けました。_という記号を使ったところが発明ですね。停止した心電図のようにも見えてきます。視覚性と多義性に富むところが記号の特徴なんですね。Emojiと記号の違いについても考えさせられました。視覚性という観点から見れば、Emojiはアニメーションで記号はコミックに対応していると考えています。優劣のつくものではないので、表現したいことに沿って選択していくべきだと思いました。私が「夜の海」や「静寂」を連想したのも、記号のモノクロさ・シンプルさゆえだと思います。記号を用いた川柳をもっと見てみたいです。
──────────南雲ゆゆ
音にすると「あんだーばー このよの~」と読んだ。何らかのファイル名の末尾のような感じもするが、「この世の塩が足りてない」という言葉は末尾にするには重すぎる話題。少しSFっぽさも感じる不思議な一句。
──────────スズキ皐月
 _のマジック。もうその上に盛り塩したい気持ちになります。昔話のご飯的に盛り盛りの盛り塩を。きれいな平らはまるで地平線にも似て、ああこの世の塩、足りてないよな……なんて奇妙な同調までしてしまう。好きな句です。
──────────城崎ララ
アンダーバー、と読むと案外定型の音数なのが、見た目のわりに落ち着いてよめる秘訣でしょうか。でなくともジュニークではありますね。_という記号の性質上、横書きでのみ成立する句ではあります(縦書きならーとかになる? それだと少しわかりにくいか)。で、このアンダーバーの意味。この配置で見るとカーソルのようで、「この世の」以前の部分が消えたまたは消した、消されたかのように見えます。末尾のない、からどちらかというとディストピアな空気を感じつつ、今度は塩。saltはもちろん、~の塩、という並びから、地の塩、ということばが思い出されます。「神を信じる者は、腐敗を防ぐ塩のように、社会・人心の純化の模範であれとの意。模範や手本のたとえ。」(デジタル大辞泉)。この意味を孕みつつ、saltの塩を置くことで、視覚的な川柳になっています。もしくはアンダーバーに図像的な意味があるのか、ですが、これはちょっと分からないので保留。
──────────西脇祥貴
 自句の「ああ、全然いいよ。」と同じようなものを感じました。
──────────ササキリ ユウイチ
 _に入るものは何か。めだまやき?おつけもの?この世には塩以外にも色々と足りてないものがあるのでしょうが、でも塩も足りてないのか。そうなのか。毎日暑いし、足りていないと困りますね。
──────────佐々木ふく

ポモドーロテクニック電気椅子執行

なにがびっくりしたって、こうして並んだとき思いがけず平凡な「電気椅子執行」のたたずまいです。怖ろしいことばなのに、なんだか見慣れてしまっている、それ自体が怖ろしい……けれどこれはこの句の狙ったところではないでしょうね。ポモドーロテクニック=効率的な時間管理法と電気椅子執行が並ぶのは、管理・効率社会の縮図のようで皮肉ですが、どちらも長いことばかつ先に出したテーマで括れば案外近いので、並列に見えすぎますね。。。強いて当てはめれば、電気通す→休む→電気通す→休む、のループに現状をなぞらえているのかな、と言えなくもないですが……どうなんでしょう。
──────────西脇祥貴
 敬老の日にいただいた電気椅子/丸山進
一読して面白いとは思ったけど、とれませんでした。なんでだろうと考えていたけど、「執行」だとかは余計だなと思ったりしたのかもしれません。電気椅子と言い切るだけで、成り立っただろうな、と。破調の気持ちよさにのれなかったということなのかも。
──────────ササキリ ユウイチ

途上国途中国途下国許可局

読んだ瞬間特選でした。やられたッ!ストレートに面白いです。「途上国」「途中国」と来て、なるほど風刺のスパイスが効いておりますなぁと最初は紳士然として味わっていました。しかし「途下国」から様子がおかしくなります。途、途下国……?上中下で合わせているのは分かるのですが、途上国と途中国にはないものを感じさせます。tojokokutochukokutogekokukyokakyokuの音を見れば分かる通り、t k o uばかりの中でgeの出現は、喉元に刺さった「棘」のように違和感を抱かせます。紳士はここで気がつくのですよね。本当の食材は自分自身であったことに。銀匙に映る己の顔はぐにゃりと歪んでいます。そして明かされる「許可局」!!!まさか早口言葉の世界だったとは!!!最初と最後で見方が180度変わる句って憧れます。こういう句を作ってみたいものです。
──────────南雲ゆゆ
 「途上国」の対義語は「先進国」とされているが、それを「途中国」「途下国」と言葉遊びで繋ぎ、「途下国」の韻から「許可局」へ繋げる流れは非常に鮮やか。全体が漢字表記であり、言葉遊びや早口言葉のなかに、「途上国」や「先進国」は誰の許可で認定されるのだ、という皮肉も込められている。「途下」は造語のようだが、「先進」とは全く相容れないような雰囲気を感じる。もはや先進国などどこにもないのかもしれない。
──────────二三川練
 途上国が上中下のパターンで並ぶ、規則性によって元々のワードの意味が一旦バラされていること。同時に途上国というワードそのものへの烏滸がましさの風刺も感じます。そこに許可局がつくことで早口言葉の文脈が急に近づいてきたりして。それでいて、許可局という許しに関するものが出てきたりするのでまたこれも風刺の片棒を担ぐものなのかなあ。いろんな要素を組み合わせながら刺したりところを刺す、テクニカルな句だなと思いました。
──────────城崎ララ
最後にちゃんと落ちてておもしろい
──────────公共プール
 「許可局」で早口言葉みたいに収まったけど「途中国」とか「途下国」というワードには強い風刺を感じる。
──────────スズキ皐月

糸切ってばら、ばらになる重さたち

糸を切ってばらばらになるものを、ものとしてではなくさらにぼんやりと「重さ」としてのみとらえている、その視点が、もうものには執着のないこころを反映しているようです。それは凄惨なこころなのか、はたまた解脱の末なのか。そもそも何に、なんのために縫い付けられていた糸だったんでしょう?  切っていい糸だったのか……。ばら、を薔薇と読んで、重さが薔薇になるという象徴の句か、とも思いました。そう読むと、重さは質量だけでなく、重々しさ、といった雰囲気を表すことばのようにも思えてきます。本来重々しいものが薔薇になってしまう、されてしまう。それもこれも糸を切ったせい……もしかして糸って、歴史の糸? 過去が接続されないことで、重々しさがばらけてしまう、ということでしょうか。切ったのは誰だ、と考えるとき、そこに自分も自然に含まれてくる、含むよう仕向けられるのが、川柳形式の力です。概念的すぎるのだけが玉に瑕ですが、ばら、に薔薇、が響いてくるのがいまいち捨てられず(かといって言い切れもしない)、並選です。
──────────西脇祥貴

たましいになって見つめる扇風機

これを読んだとき、扇風機は夏だけのものではなくて、秋や冬も消えてなくなるわけではなくて仕舞いこんでいるだけで、部屋の片隅や倉庫の中にたたずんでいるよな、とも思い、このとき扇風機のオバケみたいなものを感じて、なんか可哀そうだし、そういうものに見つめられたいのかもしれない。(私が)たましいになって、扇風機を見つめる、とは読みたくなかったのはなんでだろう。「たましい」の存在感の薄さが、扇風機にまでかかわって、動いていない扇風機の印象が勝ったのかもしれないし、別に付喪神とか的なことではなくて、川柳を読むコードが身に付いたということかもしれない(「家具でも分かる手品」)。この句で確かなのは「見つめる」というまなざしだけ、という感じ方は川柳に出会う前の私にもできただろうけれど。たましいも扇風機も川柳以外の詩歌では当然のように過剰に期待された意味付けがなされてしまうのに、川柳だとそのままでいていいから、扇風機のオバケという奇妙な回路を迂回して、自分が見られてしまって、なんかこわくなった。自分も平等になんともない物と思わされる。
──────────公共プール
扇風機に向かい合うときの気持ちがすごく真っ直ぐに捉えられていると思った。風とたましいの取り合わせもよいですね。「扇風機」の共感性の高さ(誰もが日常的に接するもので、かつ体験したことのあるもの)が読み手をしっかりと掴んでくる。
──────────雨月茄子春
 お盆らしい句なのかなと感じました。
──────────下刃屋子芥子
 幽霊は夏の季語、という話があるように夏と心霊は相性が良い。暑い夏、死してなお扇風機を見つめて涼むというのは諧謔があるし、生きていてもボーッと扇風機を見つめている時間は「たましいになって」いるとも言える。皆さまぜひ冷房をつけて、熱中症に気をつけて今夏を乗りきってください。
──────────二三川練
集中の極限でしょうね、レベルを合わせる、共振の究極。ものにはたましいはありますから。そうして見つめるとき、扇風機はどう見えるのか? あるいは扇風機から見つめられている、の方なのかな。ちょっとこの辺確定できないのは、ゆるすぎるかも。扇風機、も動かないとは言えませんし。あ、お盆? たましい、だから。いやちょっとそこまでは言えないか。。。あるいはこの行動のみの句から、そのときの主体の心情を想像する読みもあるかも知れません。扇風機にレベルを合わせるときの心持ちとは。それを背景に、扇風機と見つめ合う画を思うと、なるほどシンプルゆえにどんな状況にも合いそうです。夏、ですしね。
──────────西脇祥貴

レッドカーペットの一塁線

特に細々とした評はなく、景も韻律も楽しめました。端的にいいな、です。
──────────ササキリ ユウイチ
ということは、レッドカーペットの三塁線、レッドカーペットの二遊間、レッドカーぺットのピッチャーマウンド、レッドカーペットのアルプススタンドも存在するのでしょうか。一塁線の必然性……。出塁の始め、前向きの直線……いや、これはたぶん野暮で、この字の並びがただおもしろい、でいい句な気がします。ながめてよう。あ、いまの入ってない?蛇足ですが、野球=資本主義国のスポーツ、レッドカーペット=資本主義世界の祝祭の必需品、と思うと、わりとレッドカーペットと野球は近い気がしますね。
──────────西脇祥貴

朝の多い順に並んでください。

明けない夜はない。よくある励ましの言葉です。朝のように明るい未来は必ず来るからそれまで耐え抜けという意味ですね。朝は全ての人に平等に訪れるものだから、苦しいあなたもいつかは朝を迎えることが出来るのです。しかし本句の世界では、朝の多い者と少ない者がいる。平等なはずの朝にも格差が存在しているわけで、さらに並ばせようと指示している(それも丁寧な口調で)ところもあいまって理不尽さを感じました。
──────────南雲ゆゆ
575! と今回字数数えていちばんびっくりしたのがこちらの句です。あんまり語調が自然すぎて。でもそんなに自然なのに、しっかり意味がこわれているのがキャッチーです。だって朝が多いって、何? 朝は地球上どこでも均一なはずで、数の多い少ないがあるとしたら、どこかで朝が奪われてしまっていることになります。と思ったとき、ぴんとくるものがあります。夜勤。三交代。交戦状態……。ある、朝の不平等。そこで句の厚みが増します。シンプルなだけの句じゃないぞ、と。更に言えば、なんのために並ばされるのか? 単なる調査か、それとも、銃殺刑なのか。句点が妙に全体をドライにしていて、異論を挟ませてくれない窮屈さをにじませます。有無を言わせない命令。朝、のポップさを真逆に突き落す怖さが、読後を支配します。なんかこういう恐い句多いですね、今回。時勢かな。
──────────西脇祥貴
背の順や名前順、色々な並び方がありますが、朝の多い順に並んだことはなかったし、並ぼうと思ったこともなかった。朝が多いと、なんとなくさわやかな印象がありますね。実際はもちろん、気候の良い、さわやかな朝ばかりとは限りませんが。それでも。これまで迎えた朝の数が多い順、だと例えば年齢順になるのかもしれませんが、シンプルに「朝の多い順」なのが良いです。朝が多いってどういうことなのかはっきりとはわからないし、〇〇順に並べと言われるのは気持ち良いことばかりではないですが、「朝の多い順」ならまぁ悪くないかなと思いました。
──────────佐々木ふく

時間に立って眺めてみると

時間に立って、眺めているのである、我々は。
──────────ササキリ ユウイチ
 言いかけのことばとして、見晴らしがいいなと思いました。その後にことばが続いていくことが前提とされている構えもいい。
──────────小野寺里穂
時間、と言っているのに、助詞「に」のはたらきで場所扱いになっているのがおもしろいです。この転倒一本勝負で七七にした潔さはあっぱれ。欲を言えば、すごくいい発想なので、もう一声ほしかったです。ごめんね欲張りで……m(_ _)m
──────────西脇祥貴

ああ、全然いいよ。イデオロギッシュに寝て待つね。

イデオロギッシュって言うのかな、と思って調べると、ドイツ語ではそう言うようですね。そのカタカナ表記でしょうか。なんて調べなくても見当はつくのですが、念のため……。そんなことより問題は、イデオロギッシュに寝る、とは? ということ。ここの想像できなさがツボです。イデオロギッシュと寝る、真逆ですし。もうこの組み合わせだけで立っていると言う意味では、現代川柳かくあるべし、みたいなありようです。暮田さんが作っても不思議がなさそう=作者が誰であるかを気にさせない句です。ああでも、暮田さんなら全然いいよ、から始めるかなあ、なんてむりくり区別を探してみたりして。
──────────西脇祥貴
 定型から外れ、句を川柳たらしめる柱はどこにあるのか、まだ自分にはわからないと思っていたのですが。「イデオロギッシュに寝て待つ」という表現は川柳的だと感じました。定型ではないところの川柳性を柱にしている、ということで良いのでしょうか。短歌を通ってきた人にはわかりやすいのかな…と思ったり。
──────────下刃屋子芥子
 イデオロギッシュ。一目で惹かれてしまったのですが、前半だけならすごいかろやかな果報は寝て待てなんですが、イデオロギッシュに寝て待つね、のためにひとつの社会的な態度になっているのが面白い。応答の形をとっているのもすごくて、これ、なんて言われたら「イデオロギッシュに寝て待つね」なんて返せるんでしょうか……!
──────────城崎ララ
ああ、全然いいよと言いながら、本当は良くないのか、本当に良いのか。イデオロギッシュに寝て待つって、新しい皮肉だなと思いました。
──────────佐々木ふく

椅子は秘技 信じて その友情は武器

音の運びがとても好き。「秘技」と「武器」の音の合わせ方とか「信じて」での間のとり方がすごく良い。意味は簡単には取れないけど「その友情は武器」のキャッチーさも印象的。
──────────スズキ皐月
「信じて」という懇願は、総じて叶いません。うさんくさいというのは、この句では褒め言葉です
──────────公共プール
 ずいぶんぶん回した句ですね……。というのも、うしろ(その友情は武器)はもうよくあり過ぎるコピーのようなのに、前(椅子は秘技)がそれに比べてなさ過ぎて、句全体が信用ならんつくりになっているからです。この作者、おれをどうしたいんだ、という……。重いことばのはずなのに、接続詞に堕とされている信じて、も見所です。こんなわけわからん前後を「信じて」でつなぐことで、びっくりするほどの逆効果を生んでいます。あまりに信用ならんので、宗教の勧誘みたいですらあります。でもこの団体なら一回は行くかも、椅子は秘技、の真意を確かめに。セミナーに入る前に帰りますけど!
──────────西脇祥貴
 五・七・五の定型を守っているけれど、読み方は定型を破っている。中に「信じて」の四字を、一字空けで置くことで語に力強さが宿っている。「椅子は秘儀」も気になり面白かったのですが、言いたいことがわかりませんでした。「信じて」と「友情は武器」のつらなりは個人的には重さを感じてしまいましたが、思いは伝わってくる句だと思いました。そういう形式が面白かったです。
──────────下刃屋子芥子

秘書たちの相撲大会 屋上の部

最高。ひろがりを感じます。ああ、そうか、そういうやり方があるのか!と膝を打ちました。
──────────ササキリ ユウイチ
秘書たちの相撲大会だけでも面白いのに、まさかの屋上の部でずっこけました!じゃあ地下の部やアドバルーンの部もあるんですか!?エネルギッシュでパワフル。熱い死闘が繰り広げられる少年漫画を読んでいたら、実は第一部で、さらなる強者が現れ第二部に突入したときのような高揚感を覚えます。この会社の屋上は天下一武道会のような会場になっていてほしいですね。観覧券はおいくらでしょうか?
──────────南雲ゆゆ
ということは、地下の部とか、非常階段の部とか、給湯室の部とか、喫煙所の部とか、ビルの裏口のへこんでいるところの部、とかいろいろありそう。
──────────公共プール

警ら中ネオンの龍を鎮めたの

これ、現代の日本の詳らかにされたなにかのひとつなんだ、と思った。期待を込めて一番でとります。
──────────ササキリ ユウイチ
ネオンの龍、いいですね。あざといくらいの詩性がいいです。でもこれが強すぎて、これだけで十分すぎるほど立っているので、できれば「警ら」をわずかにでも落ち着かせてほしかったです……。ほんとにいいです、ネオンの龍。読み解けなさがいい。そもそも龍ですし。これをどうとらえるかが鍵ですよね。参考として、サイモンとガーファンクル"Sound of Silence"の歌詞中に出てくる the neon god(ネオンの神)を思い出しました。歌詞中これは、人々が作った神様の謂として出てきます。本当の神ではないもののようです。龍もそうでしょうか。人間に作られて、暴れたいのに、鎮められてしまうのでしょうか。暴れるのが本性の龍なようにも思えてしまい、そうなるとせつなさが湧いてきます……。そのせつなさに、鎮圧にたずさわって、直面したときの句でしょうか。だからちょっと幼い末尾。世に、素朴に抱いた疑問の句。大事にしたいです。
──────────西脇祥貴

一刷も二刷も同じ神の棄児

自分には絶対にできないと思う言葉の取り合わせの句がいつもビー面には並んでいるのですが、まさしくこれがそうでした。「一刷も二刷も」の後の跳躍が気持ちよかったです。
──────────小野寺里穂

つかまり立ちで留守番電話

つかまり立ちって、なんかちょっと一所懸命な感じがしますね。そんなに一所懸命に、わざわざ、留守番電話。入れるのか、聞くのか。でも、留守番電話は入れる(話す)のも、聞くのもちょっと面倒で、えいってつかまり立ちをする気分かもなと思いました。
──────────佐々木ふく
立てないものに立とうとするよりも(これは代表的にそう言っているだけ)、立つことそれ自体はそのままにしておいておこうとする。のであれば、留守番電話でコケるかっていうとコケないかな、というところ。
──────────ササキリ ユウイチ


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