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川柳句会ビー面 2023年8月






置き配の玉手箱からいいにおい

 竜宮城の駅弁という感じがした。そうなら、煙で魚介や肉を熟成させる調理法を玉手箱型の弁当箱でやってのけるというのは大したものである。酸化カルシウムと水が化学反応を起こして発熱させるお弁当があるが、煙で食材をエイジングさせる弁当箱はその上位種という感じだ。魚介類は新鮮なものが美味しいというのは間違いではないが、〆てから数日寝かせて旨味を増すように下ごしらえする方が個人的には好きだ。それに白身魚は昆布締めにしたら最高。煙というと燻製も想像できるが、匂いが漏れているというのはいただけない。包装がどこかダメだから、そのまま返品してもいいんじゃないか。そもそも弁当販売をしているということは竜宮城も俗世然としてきたことが察せられる。それにこれが駅弁とかではなく、乙姫の残り香とかだったらそういうグッズ展開をしているのも竜宮城の凋落の証左である。いずれにせよ扱いとして匂いが成功するのは皿に載った状態で給仕されるときと、対峙したり身に纏うときなど、身近であること以外にない。置き配のいい匂いはいろいろ残念なことだよ。────────公共プール
 いいにおい、が文字通りgoodなのかどうかが揺れそうです。腐敗と発酵の差とは。────────西脇祥貴
 置き配の玉手箱、あるようでなかった発想ですね。「浦島太郎」が住人とするか配達員とするかで違う物語が生まれそう。日常の空隙をつく良い怪異だと思います。────────南雲ゆゆ
 昔浦島太郎のラストを読んだ時どうしてそんなひどいことを……と思った気持ちの川柳────────城崎ララ

季節を書こうとすれば肘の色

 ?となった句。試しにものを書く姿勢をとってみた。誰かに手紙を書くとなったとき、確かに肘をつかなければ筆を運ぶことはできない。文面に集中していると視野に肘は入らないが、ふと気が緩むと肘に目が行ったりする。そのときどき、季節ごとに着ている服は異なるだろう。その季節感をさりげなく表現した、無理をしていない句と思った。────────太代祐一
 音数が不思議です。16音。でも違和感がなく、声に出して読むほど内容に合った音数だという気がしてきます。季節の意味が広いのと、肘の色の主眼が肘なのか色なのかが決めにくかったのが難点でした。個人的には色の方で読みました。────────西脇祥貴

わをん体毛わをん逆光

 面白すぎる。ワオン(犬)→WAON(イオン)→わをん(わ行)。この転換の意外性と納得感。七七句なのもいい、勢いがあって。わ行を発音する時の「わをん」とイオンで「WAONで」っていうときの「WAON」ではアクセントが異なるにも関わらず、なぜWAONのほうだとわかるのかと言うと、定型が読みを決定づけているのだと推測する。上から三番目にえるのもずるい、というか「もってる」句。犬という語は登場しないけど、体毛と逆光は犬のことなんだろうなと分かる。夜の散歩中に「わをん!」と鳴き声が聞こえて振り向いたら犬がいた、みたいな。体毛は漫画のふぎだしの叫んでるやつ🗯みたいに逆立ってそう。なぜかポメラニアンでした。────────南雲ゆゆ
 そういえば「WAONカード」のわをんって何なんだろう。「カード」と「体毛」と「逆光」のあたまに付けられる「わをん」。一句での意味こそよくつかめないけど、つながりようのない事物につながりを作るというやり方はなんだかおもしろい気がして気になる句だった。────────スズキ皐月
 なんでか惹かれました……。声に出して読むとたのしいし、たのしいけどまったく意味不明だし。この「まったく」がいいです。もうわずかでも文脈が読み取れてしまうと、ここまで惹かれなかったと思います。だから七七なのも〇。わをんは「和音」でもあるし五十音の最後=宇宙の終わりへのアプローチでもある。そういうエネルギーの流れを感じながらの「体毛」=卑近なもの/「逆光」=ずっと遠いもの。この対比がイメージをばん、ばん、とぶつけるだけぶつけて余白を作って、あとはこっち次第になるのが西脇は好みでした。具体的に何を呼び起こすか――体毛→トイプードル、逆光→影のプードル、みたいな。口に出しやすいので呪文みもあるかも。音の向こうにさらなる意味が……はちょっと期待しすぎか。────────西脇祥貴

領域やけん食べきらんのよ

 広島弁! 弁の切実さ。────────西脇祥貴
 「わをん体毛わをん逆光」の次だから一緒に「ん」で押韻したみたいになってて笑う。────────南雲ゆゆ

天罰のため走順をかき混ぜる

 「走順をかき混ぜる」はドラフトみたいに箱に番号の紙が入っているイメージ。でも「天罰のために」かき混ぜるのはだいぶ嫌そう。引き手に選ばれるのも罰みたいですよね────────城崎ララ
 天罰にしては手ぬるい気がするが、世界トップレベルのリレー選手だとすれば罰として成り立つのかもしれない。走順という本来走る者の意志で決められるものが神仏により翻弄される。しかしその悲劇でさえ、天罰を担う者が川柳の主体として設定されることにより演出され、滑稽さと変わり果ててしまう。────────南雲ゆゆ

その国の喧噪に澄む金魚鉢

 洒脱で美しいと思った。それに風刺のようなものも感じさせる。あくまで金魚鉢であって、金魚はいるのかもしれないし、いないのかもしれない。だが、澄むとわざわざ言っているということは、水だけで金魚はいないこと、もしくは水も入っておらずガラスのなかの虚空を、それらを書かないことで活写していると読むこともできそうだ。そして、国とこの句の語り手との距離感は「その」と語られて近くもなければ遠くもない。ただ、語り手には国のなかで響く何かの騒がしさはよく聞こえている。そんな中に一点の小さな空白と無音を金魚鉢に見いだす。国の騒がしさから透明な金魚鉢に、その焦点をしぼる速さと乱暴さ、読後の静かさと寒々しさがとても上手い。国という大きな範囲とそこに満たされた騒がしく意味も掬いとれないような音と振動から、両手で抱えられるくらい小さなガラス製品の金魚鉢に景が動いていく。これはその国の破滅が澄んだ金魚鉢から始まって行くようにも暗示させるし、もしかしたら、その国にはにんげんももういないのかもしれないな。こういうふうに大きな視点を持つことや、読後の余韻を持たせることも見習いたいし、金魚鉢というちょっとレトロで詩情を誘う言葉えらびもあって、いかにも川柳という感じの句でおもしろい。最後に悔し紛れの小言を言わせてもらうなら、この「澄む」の語順で音読したら国に引っ張られて「住む」を連想してしまったから、ひらいて「すむ」の掛詞にするか、ちゃんと述べて「金魚鉢の澄む」としちゃって557に私ならしちゃうと思いました。────────公共プール
 近代フランス文学みたい。5・7までの状況に対して金魚鉢の詩的アイテムぶりが冴えています。ただちょっとだけ理屈が通りすぎるかな、と思いました。────────西脇祥貴

昏睡の件折り返し願います

仰向けに眠る背中が蝉になる

 畳に何も敷かずに寝っ転がったときの感覚が巧みに表現されていて、そういう上手く言う系の川柳としてはなかなかいいのではないでしょうか。────────雨月茄子春
  羽化のため割れている背中だと思いました。が、仰向けに寝ていたら背中って見えないんじゃないか……? というところで引っかかりました。それがいいんじゃないかとは思うのですが(見えないところで見えない部位が変化していく)、眠る、と背中、の間で切れすぎるのでは、というので気になってしまいました。────────西脇祥貴
 おそろっち────────城崎ララ

ウォールストリートダンクも2点だピョン

 ウォールストリートダンクが造語らしいので、「も」もなにも元がなんだか突き止められないのですが、ついなるほどピョン! と返しそうになる勢いがあります。────────西脇祥貴

切り取って窓 爆風の残り香

 どうしても社会性を孕むことばを、どうやって「それっぽい」以上に生かせるか。個人的にその鍵はディテールにあると思っていますが、それでいくともう少し説明してもよかったかも。爆風があんがい大きいです。────────西脇祥貴

不燃物、置き手に勝る問いであり

 職場の廊下を歩いていたら突然リズムが降ってきたんですね、職場の廊下なので不燃物のゴミ箱が視界に移りまして、「ああ、『不燃物、置き手に勝る問いであり』であることだなあ。」と思い投句しました。────────南雲ゆゆ

ウチくる?地球儀あるけどウチくる?

 「思わず笑っちゃった。こう誘われても行かないけど、嫌いにはならないよね。地球儀ってところがさ。」────────南雲ゆゆ
 『君たちは…』川柳? ひさびさにウチくる? って聞きました。────────西脇祥貴

かわるがわる声は橋に置いていく

 橋の特色がよく出ていると思った。これだけではよく人の通る橋なのか割と静かな橋なのかはわからないが、土地的なものに履歴を見出すという発想は好みで楽しく読めた。しかも残し方が声を置くというのは淡い良さがある。────────スズキ皐月
 死の予感に満ちた子供の臭いがするのは私だけでしょうか。────────南雲ゆゆ
 6・3・3・5の17音。おもしろ。────────西脇祥貴
 「は」にどうしても疑問が残ってしまった。────────雨月茄子春
 「かわるがわる」という設定、「は」という限定が効いている。────────小野寺里穂

電柱のてっぺんにいる虞美人草

 虞美人、ってわりに重みのある単語だと思うんですけど、この句での軽い使われ方はいいかんじです。いる、というかもう絵としては生えてる。それも電柱の「てっぺん」なのでよく見えないし、夜になったとしても、電灯より上にいるから暗い。虞美人草だかどうだかわからないはずのものを、「虞美人草」と言い切れる視点=神の視点、ってやつでしょうか。それをさりげなく句の芯に仕込んである、そのさりげなさ、というかそんな視点なんてとっくに使い倒されてるでしょ、といわんばかりのど直球描写がはまりました。そして大きさの対比は本来ないはずなのに、言い切りのど直球加減からか、毬瀬りなさんの、東京駅に青い葱を挿す句を思い出しました。毬瀬さんおげんきかな。────────西脇祥貴

憶えてヒモとかれた好きピは

公園になって尻尾に触れてみる

 犬とかが遊具に尻尾をこすりつけてるんじゃなくて、公園が触りに行っているんだ。おもしろい把握の転換。世界が私たちに触れたがっている。────────雨月茄子春
 いろいろな幻覚が混線してて、三十代にもなるとその純っぷりに心配になっちゃう。────────西脇祥貴
 尻尾さわりの試行錯誤の選択肢に公園への変身があるなら、確かにしてみたい。ただ、本当に公園でいいのか、もう少し考えてみたほうがいいと思う。最近の公園の息苦しい使用ルールもあるし、他にも尻尾の場所はあるかもしれないぞ────────公共プール

裏を返せば牛の筆箱

 牛の含意一点に賭けたその意気やよし、うんぬん以前に笑っちゃいました。────────西脇祥貴
 講義でグループワークをした畜産学科の人が裏返したら牛のプリントがある筆箱を見せてくれました。────────雨月茄子春

一撃をオススメされる後頭部

蝉だ、目を閉じてやれる目蓋がない

 目蓋がないとなると見ている方も蝉なのかもしれないと初読で思った。同種を見る時に目を閉じたくなるシチュエーションはいくつか思いつくけど「閉じてやれる」の憐れみのこもった言い方からすると死んだ蝉なのかもしれない。意外と普遍的なことを蝉に仮託している気がする。────────スズキ皐月
 3・2・6・4・2の17音。声に出すとけっこう動きがあって、2から6へ伸びるところや、最後2でぱっと締めるところなどきっぱりしたところに、句意のうちのなにかが出ているように思えました。ぱっと見17よりも長く感じるのに、と思うほど意識される17音の恩寵。ふしぎですね。そして中身。「目を閉じてやれる目蓋」という、微妙にねじれたことば遣いの後味が濃いです。目蓋の過剰説明。べつに目蓋は他人に閉じてもらうためにあるわけではないのに。それも「やれる」なんて上から言われるためになんて、なおさら。そのあたりに主体の現在位置がうっすら感じられるのも魅力です。その立場からみる蝉――死んでいるんでしょうね。そんな季節に入ってきました。上から、とはいったものの、この季節道じゅうに落っこちているだろう蝉の、目蓋を閉じてやろうなんて思っている点、寄りそう心はあるようです。足下の小さいものの、さらに小さな部分への気づき。今度道に蝉が落ちていたら、目の大きさちゃんと確かめよう、と思いました。「昆虫はあんなに小さいのに、生き物として必要な部分をひとつも省くことなく完成している」とは、甲本ヒロトさんの至言。────────西脇祥貴
 蝉だ、閉じてやる目蓋がないでもよかったけど、わざわざ目を閉じてやれるという厚かましさを採用した句────────城崎ララ

自閉に飽きて配剤と名乗る

 「自閉に飽きる」ことと、「配剤と名乗る」ことの、言ってる内容は遠いけどメンタリティのレイヤーが同一である点に惹かれました。────────雨月茄子春
 いい緩急。────────小野寺里穂
 最初廃材でした。でも配剤の変換が出て、こっちだなと思い変更。────────西脇祥貴

すべて遊び まさにCECIL McBEE

 これから出るであろう現代川柳入門の、言い切りの力の項で絶対引用してほしいし、引用していない入門は信じられない、と言っていいくらいに言い切りのパワーで振り抜いた一句。まさにて。そして例によってCECIL McBEEを検索してみると、え、CECIL McBEEってもう実店舗ないんですか……。しかも外国人実習生の不当労働問題まで起こしてるし。ウィキペディアの記事下部、CECIL McBEEの公式サイトへのリンクを踏むと開くなにもない真っ白なページ、90~00年代の跡地みたいなかんじがして、一応その端っこを生きてきた身としてはちょっとぞっとしました。でもこうなってしまったの、CECIL McBEEだけじゃないんだろうな、という予測が立つと、句の説得力はさらに強まります。こういう盛衰をたどったものの代表としてのCECIL McBEE。ほとんど平家物語。ほんと、公式サイト跡地の凄まじさったらないので、ぜひみなさんこの句を機に(?)一度見に行ってみてください(http://cecilmcbee.jp/)。これを塗り重ねて隠した上に、いまの生活があるんですね。……今気づきました。遊びとMcBEEで、踏んでる……!────────西脇祥貴
 「まさに」で持っていかれた川柳。格好いい。こういう決め方してみたい。────────城崎ララ
 ビー面だけにビーで押韻────────南雲ゆゆ
dodo - prize をサンプリングしました。
https://www.youtube.com/watch?v=zsZCwc7bBqk────────雨月茄子春

仰向けの死はどこで習ったのだっけ

 自明のことを疑いにかかるのが川柳。仰向けで死ぬこと、仰向けが死ぬこと。────────小野寺里穂
 怖い思考回路!────────西脇祥貴
 世界を視界にとらえながら死んでいく身体。「〜ったのだっけ」という語から主体の諦念が感じられると同時に、こちらに問いが放り投げられる感じがして、非常に余韻のある句です。────────南雲ゆゆ
 今回は玉手箱以外蝉シリーズ────────城崎ララ

もういない他人ばかりを思い出す

 思い出すとき、それは故人であることが多い。生きている人だと、思い浮かぶのほうが出てくるから。生きていくとそういう人ばかり増えてしまう。寂しくて良い句だと思います。────────城崎ララ
 上五で切る道があるなあ、と思うと。────────西脇祥貴

折れて死ぬ夏の子どもでいたかった

 できないことを願望するエモの文体だと思った。エモの文体はいいものと思います。────────雨月茄子春
 自転車通勤なんですけど、陽炎立つ道を笑いながらはしゃいでる子どもが遠くに見えて、あー、あの子らは死ぬとしたらばきっ、と折れて死ぬな、となんとなく思い、もう折れられないや、とも思ったためこんなことに。いたかった、かどうかはあやしいです。────────西脇祥貴

十三にルビを振るのは断った

 何故、十七や十四であって、十三でないのか。何故、十字架であって、十三字架でないのか。とはいえ、なにも十三を迫真の顔面で打ち立てるわけではない。ただなんとなく十三がそこにあり、それ以上は勘弁してくれというわけである。現代川柳のど真ん中へこの否定と肯定が刺さる。────────ササキリ ユウイチ
 伊丹の?────────西脇祥貴

直属の脳天を呼び握り寿司

 見たことのない語の組み合わせによって読み手を納得させるのが川柳。────────小野寺里穂
 脊髄反射ではなく、一旦脳天を直属の部下のように呼び出してからコンセンサスを取ったのち、握り寿司に至るのが、この人の律儀さを表している。またはこの人が直属の「部下」のことを「脳天」とみなしている世界観の表れか。だとしたらだいぶホラーでは。────────太代祐一

しめやかに悲喜交交のフラダンス

くちづけは蜻蛉とび交う夕まぐれ

 あらまあ、って句。────────西脇祥貴

暴君竜の古代拳法

 それを示されたからってどうしろと句。大きな名詞になってるからかな。音はちょっと似てる気がしますけど(ぼーくんりゅー≒ジークンドー)。────────西脇祥貴
 ボークンリューのジークンドー(ジークンドーの歴史は浅い)────────雨月茄子春

みんな死ね a.k.a くじけないで

 みんなの心に二面性。応援どうもありがとう。なんて柄にもないことを言いたくなる句。────────小野寺里穂
 二三川さんとやったこえのビー面談話室の影響多。でもみんな死ねはあんまりそのままなような気も。────────西脇祥貴

駐輪場には首相のカカシ

江ノ電におまえのヨガが立っている

 思わず足元を二度見しました。私のヨガ、いつのまに!?ヨガの意味はずらされているのが現代川柳的である一方で、江ノ電は伝統的な意味、表象の蓄積を継承したままで使われているように思われる。言語選択のバランス感覚により「おまえのヨガが立っている」が生きている。ここでは主体と「おまえ」の力関係が明確になっている。「お前はもう死んでいる。」を想起させる、決定的な断言。────────南雲ゆゆ
 ヨガがそれ自体ポーズを指すようなはらたきは、修辞としてはあり得る。しかしながら、おまえのヨガは、ないしこの川柳は、それを許さず、像を結ばないものが立っている情景、というよりもむしろ心象(心象風景から風景を減算したような心象)を与える。江ノ電まで与えるのに、この川柳が最後に与えるのは結局のところ心象なのだ。その心象は寂しい。不思議だ。不思議な上に寂しくさせられたのではなく、寂しいと思ったのが不思議だ。────────ササキリ ユウイチ
 どこ駅問題(『サーフ ブンガク カマクラ』!)────────西脇祥貴

(ゲバ棒-棒)/場+血=チゲ

 こういうの好きですよ。方程式として捉えると、分からない記号がゲバ、棒、場、血、チゲの5つあるので、この句だけでは求められない。もしかするとこれは連作の1句で、あと4句あって解ける構造になっていたりして。ああ……連立方程式って川柳の連作だったんだ。────────南雲ゆゆ
 「げばぼうひくぼうわるばたすちはちげ」で17音。ゲバ棒ー棒、からあとは流れでできました。横書き必須なのが弱みか。────────西脇祥貴

猫も好き めんどくさいな一年生

 武さんも好き。咲さんも好き。蓮も好き。永遠も好き。坂上田村麻呂も好き。アンディ・ウォーホルも好き。あ、犬も好き、そう、"猫も好き"。ってワケ?────────ササキリ ユウイチ
 「も」から投げやり。いい投げっぷり。────────西脇祥貴
 可愛い。猫は可愛い。一年生も可愛い。可愛いと可愛いを足すと可愛い。可愛いのカツカレー。────────南雲ゆゆ
 「響け!ユーフォニアム」で黄前さんが一年生のことめんどくさいなーって言ってました。────────雨月茄子春

EXPOの形で豆板醤の恋

 祝発行!────────西脇祥貴

寝苦しい岬岬はもういらん

 岬という通称のある岬、ということにしてみると、なぞの日本語岬岬。電気グルーヴの『ツアーツアー』を思い出しました。────────西脇祥貴

わたしメリーさん、かつおぶしが踊っているの

 (謝らなきゃいけないくらい過去一長くなりました、と先に謝っておきます……)初見で特選入れました。それだけつかまれる力と速さがすごかった、とかんがえながら、どうしてそうだったかともう少し掘っていくと、構造がなんとも"サーテ、諸君 胃のない猿に雪がふるよ/中村冨二"に、見た目も耳で聴いても似ているからだとわかりました。だからって、ただ好き句に似ているからいいと思ったわけじゃないこと、ちゃんと説明します。とりあえず似ているところから。まず呼びかけスタート。サーテ、に比べると長い「わたしメリーさん」ですが、超有名な怪談のパンチラインとして浸透しているので、目に入る→理解までの速度はそう変らないでしょう。そして声に出してみると、メリーさん、の読点の位置が、ほぼ"サーテ、諸君"のあとの空白(間)の位置に来ます。この拍の揃う感じで、だいぶ似ているように感じさせます。そのあともとても似ていて、散文的なことばの固まりをぼこっと入れて(かつおぶしが踊っている/胃のない猿に雪がふる……いずれも12音!)+語尾でわずかに語り口を示している(踊っている"の"/雪がふる"よ")。構造だけでここまで似ているのに主体の数まで重なっていて、この句ではわたし=メリーさんとかつおぶし。そして冨二さん句ではサーテ、と呼びかける主体と胃のない猿(これらは=とも考えられますが、とりあえず数えてみると、という意味で)。どちらもふたつ。主体の移動があることも似ていれば、主体同士の距離感もほぼ近い。で! ここからが差で! 胃のない猿句は、ご自身胃癌をわずらっておられたという話もあるとおり、収めどころがせつないです。胃の「ない」、とか「猿(いまさらですけどこの猿、小さなお猿をほぼ自動的に想像させるのすごい)」とか「雪がふる」とか。心許なくなるような道具立てが並び、どちらかといえば寒い、でもだからこそ身の内の熱が意識される句として西脇はショックを受けたわけです。ひるがえってメリーさん句。すごいのはそのせつなさを、主体をメリーさんにすることで早々にやってのけてしまっていること。怪談って、死者あるいは異形が人間に呼びかけることで怪異が動き始めるパターンがあると思うのですが、つまりメリーさんは、メリーさんである時点で、もう他者に呼びかける存在であるということ。そしてなんで他者に呼びかけるか、って、他者がいることを信じているから。メリーさんの怪談はしかし、そうやって他者に迫っていくことが、他者にとっては追い詰められることになってしまう悲劇とも言えます。求めているだけで追い詰めてしまう、このジレンマから永遠に逃れられない地獄に、メリーさんは、メリーさんの怪談が語られる限り、閉じ籠められることになります。もう書いててつらい。でもここまでのつらさを持った主体=メリーさんを、この句はなんと、その無間地獄から一瞬解放しようとします――メリーさんにまったくかかわりない散文を後につなぐことによって。メリーさんのかなしみは、自分で口にできることばが自分の位置情報しかない、ということにもあります。これは語り継いだ人間たちの責任で、そういう怪異だ、ということに世間が仕立て上げたがために、メリーさんはもうその枠を出ることができなくなっている。雑談ができないんです。怪異は怪異としてそれを観察する他者に受容される=信じられることがなければ成立しません。集団信仰だと考えればわかりやすいですが、怪異としての純粋性が失われたとたん、怪異はふやふやにぼやけて散ってしまうでしょう(メリーさんが雑談をしたとたん、話がぼやけてしまう……「それ怖いか?」)。そして語られなくなれば、怪異=メリーさんはもうこの世にいられない。二番目の死を迎えるわけです。それだけのリスクを負っての、「かつおぶしが踊っているの」。雑談も雑談、そしてなにより温かい雑談……メリーさんの無間地獄と対比した時、おうどんのうえのかつおぶしのゆるやかな舞とそのあたたかさの、なんてしみることか……やっとできた雑談で言いたかったことが、かつおぶしって! メリーさん、少女の人形であることが多いとすれば、主体の精神もおそらくは幼い子供。その純な発見は同時に、それを共有できる他者を持たなかったという事実によって、底なしの地獄を露呈します。おうどんが冷めるまでの≒この句が読まれる間だけの楽園が成り立つ、という、どこまでもリアルに立った意識での句。こういうふうにしか楽園なんてありえない。でもないよりよかった。ほんとうによかった。特選です。────────西脇祥貴

体言止めしかできない仔犬よ

 さびしい句でした。仔犬にできる唯一のことが体言止めだったんだな……口調が諭すような、どこか距離を保つような感じで、その冷やかさもよかったです。冷やかなんだけど慈しんでる。────────雨月茄子春
 8・8という。いいの……? という気になってしまったあたり、よくないな、染まってきちゃってるなと反省しました。確信があればなんだってしていいんだ。それに読むうえでは4・4・4・4でみごとに四拍子で読めるから、冗長にも感じません。で、仔犬。「子」犬じゃないから飼われている犬。だから体言止めも仕込まれたのかな。しか、って言いますけど、唯一のスキルとしての「体言止め」って、むしろ習得は大変だったのでは……ていうかそれだけの苦労をしたなら、じつは他にもいろんなことができるのでは……? という気さえしてしまいます。であればこそ「体言止め」をピックアップしたのが良い仕事で、穴埋め問題としてとらえたとき、これ以上だからどうなるっていうんだ感を出せる単語ってないんじゃないかと思わされます。しかも体言止めってことは、体言がどれだか分かるわけで、たとえば絵としては「単語の書かれたカードが散らばっていて、そこから選んで文章をつくる、という作業をしている仔犬が、文末に必ず体言を選ぶ」とか、「ぽつぽつことばを喋るようになったものの、体言をぶつ切れで続けるのがせいぜいの仔犬」とかがイメージできます。そのキュートさはぜったい、魅力の一つになっている。そして体言しかうまく使えないたどたどしさは、そのまま仔犬の切実さにもつながる。この切実なありように、捕まって放してもらえないような読後感です。いっそこれ以上のことはできるようにならないでほしい。────────西脇祥貴
 仔犬はよい。仔犬のいない世界は暗澹として生きるに値しない。仔犬が世界平和に寄与していることは周知の事実であるが、その仔犬のなかには体言止めを使える仔犬も存在することは、犬と友情をはぐくんできた人類史上初めてこの句で見出されたことになる。そして、その小さきの犬どもに語りかけるこの句の発話者は、やけに修辞に口うるさい。得てして何かに厳しくなってしまうのは、自身もその何かに通じていて語ることができるということだし、その相手に関心があるということだ。もっといえば、同じ側の存在で同じ地平にいると認めるということになる。ここまで、文字通り仔犬を獣の犬と読んできたのは斎藤茂吉の晩年の歌「目のまへの売犬の小さきものどもよ生長ののちは賢くなれよ」を連想したからだけど、「仔犬」というのを詩人の初心者の比喩ととる読みもできるだろう。こういうと詩作や歌作、句作で体言止めを多用しがちというのも、耳が痛いことでもある。────────公共プール

花屋ごと棺桶とする火事かしら

 一読ですごいと思った。構造はシンプルだが、発想の面白さで燃え上がっている。────────小野寺里穂
 棺桶には遺体の周りに花が敷き詰められる。その棺桶を火葬するのであるが、ここでは花屋が炎に包まれる情景を、火葬に見立てている。情景が美しい。「かしら」に含まれる上品さと他人事感もいい。主体と花屋との関係は不明だが、この口調からは鑑賞者として距離を置きながら火事を見つめているようだ。「野次馬」ではなくあえて「鑑賞者」という語を使いたくなる。────────南雲ゆゆ
 花屋の火災によって死ぬにんげんがいることを魅力的に語っている。ただ、私だったら、音と字面からかたい印象を受ける棺桶と火事という言葉に、口語の「かしら」で締めくくるより、体現止めで「火事ひとつ」とか「火事のあと」とかにするほうが締まりと侘しさが際立つと思った。「ごと」「とする」が「かしら」との相性がよくないように個人的には感じるし、「火事かしら」では何かが爆発したり焼け落ちる音を聞いたり焦げ臭さを感じていても、炎も視界に入っておらず火の粉も煙もあびてないように感じる。ここまで読んで、なぜこの発話者が、「かしら」ととぼけながら、花屋が燃えていることを知っているのか、という疑問も浮かんできた。確信があるということは、この火事の黒幕はこの発話者ということになる。一応、こういう物語としての回りくどい深読みはできるけれど、私ならすぐに浮かぶ情景の美しさを優先すると思った。どちらをとるかは、それぞれのスタイル、文体だから優劣ではなく好き嫌いですね。────────公共プール
 おお、実景だ。燃える花屋。────────西脇祥貴

嘘つきは朝になってもぱちぱち光る

 この句で気になったのは時間の経過で、「朝になっても」だから、いつから光っているのか。ぱちぱちとあるのでいやな気配は薄いのですが、嘘つきがずっと光っているのは、明るい雰囲気ですが懲罰的ですね。────────城崎ララ
 ぱちぱちというオノマトペが何とも切ない。嘘は一度ついたらつきとおす覚悟が要る。光るのを休むことができない。遠目から見てもばっちり分かってしまう、不器用な人なんだと思う。────────太代祐一
 鼻が伸びるんじゃなくて。じゃあ正直者は夜じゅうに光が収まるんだ。────────西脇祥貴
 嘘っぱちってこと────────公共プール

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