見出し画像

川柳句会ビー面 2022年12月号


Abyssへ注ぐ光のスペクトル

メイドインアビスの句として読んだ。あの世界は穴の中のはずだけど確かに光が美しい。
──────────スズキ皐月
Abyss=地獄。混沌の底。『メイドインアビス』を引き合いに出すべきものかもわかりませんが、見てないので出せないのでことばだけ読むと、わりと、シンプルね……。でもなにかひっかかるので考えてみます。わざわざスペクトルに着目しているところからみると、「Abyssへ注ぐ光」とその他の光はちがうらしい。ちがうから、そのスペクトルのことを切り出して句にしているんだろうな、と思いつつ何度も読むうち、次はAbyssが気になってくる。ここだけなぜアルファベット? カタカナ表記のアビス、の発音ではあらわせないものが、Abyssにあるということ? 発音記号的にカタカナとの差違は、最初の母音Aと最後のssの無声化にあらわれそうですが、何度も何度も発音してみると、英語の方が母音で塗り込めない分、反響するような深さと底知れなさを感じます。そのイメージを十分持ったうえで、Abyssへ注ぐ光のスペクトルを思うと、ほう、知ってる分光となにか違う気がするぞ……? 絵には描けない、でもあの、プリズムを通して七色に分かれるスペクトルとは規模のちがう色合いと射程の長さが、Abyssの深い闇と共に想起されます。色を描いた句だったのか。それが知らない色っぽかったから、気になったのか……。ターナーの絵みたいですね。
──────────西脇祥貴

えきまえのえのきをわきまえて

「えきまえの」と上五で読んでしまいがちですが、ここは一つ、一息で読んではいかがでしょうか。リズムを取るタイミングは「えきま/えのえの/きをわきまえて」にするとhappyです。
──────────南雲ゆゆ
「えのきをわきまえて」略して「えきまえ」。「き」の音の気持ち良さもあり、印象に残りました。
──────────スズキ皐月
音数だけいえば七七。ただ、えきまえのえの/きをわきまえて、とへんなところで切れちゃうので、意味でいくと最後三音が落ちたようにも読めます。ちょっと置いてかれるような感じ。えのき、榎、ですよね? 最初はつい榎茸を想像しちゃったんですけど、えきまえだもんな。乳房榎の榎。それを「わきまえ」る。目的語がぶっ壊れてて没交渉です。そこが川柳。映画『家族ゲーム』で夕焼け夕焼け、ってノートに書きまくって、「先生、夕焼けを把握しました」っつった宮川一朗太さんが、松田優作さんにぶん殴られるシーンを思い出しました。
──────────西脇祥貴

(同時に、ベンチの上で鴎は畳まれる)

川柳は短詩で、短詩がずらっと並んでいると、時としてその姿は文章か、あるいは詩のように見えることがあります。この句は、その姿で以つて、並んだ前後の句を引き込み、まるで一編の詩にしてしまったようでした。唐突な記号で挿入されるのは、前後を架け橋のようにつなぐ「同時に、」(おまけに句読点があることで、よりいっそうこの句は文章の一部であるように誤認させます)。そして差し出される場は「ベンチの上で」、何があったかといえば、「鴎は畳まれる」。決まりです。ここはどこか海にほど近い街の、路上のベンチ。寒々しい風に髪を揺らされながら、さて、鴎を畳まなければならないのですが、鴎を畳むとは?想像力が間に合わないので仕方がありません、鴎には翼を畳んで、お利口にサンドイッチでも食べてもらうことにしましょう。オーケー、これで準備は整いました。あとはそう、「同時に、」これをクリアしなくては。ひとつ上の句はえきまえの〜ですから、誰か今すぐ駅前にお願いできますか。挿入される時勢、記号によって場が一気に文脈として構築される面白さをみました。たいへん楽しかったです。
──────────城崎ララ
気になる句でした。鴎も含めて鳥ってどこかにとまって休むとき確かに羽を畳むんですよね。でもこの句では「畳まれる」。誰かの手で羽とか、もしかしたら他の部分も畳まれている。それも他の動作と「同時に」。括弧で囲んであることもあって小説の地の文なのではという印象を受けました。それも現実の論理だけでは読み解けない小説かも。一句から色々と想起できて楽しいです。
──────────スズキ皐月
鴎が畳まれるだけでもだいぶ不穏なのに、それは何かと同時に行われていて、しかも括弧書きされる程度の内容だと想像できる。その感じが怖いと思いました。
──────────佐々木ふく
前提となる記述があっての( )書き。なにと同時になのかな。とはいえ前提を受けなくともいい句です。ベンチという場所の指定、鷗を畳むという視覚的にもおいしい動作。ころす感じはないです。ただくにっ、と畳む感じ。行為に意味は生じなそうですが、不可欠という切実さはにじんできます。
──────────西脇祥貴

花吹雪に醤油をまぜてくるとはな

シンプルに、川柳的なよさが凝縮されているところが好きでした。
──────────松尾優汰
いやわかるわ流石に〜!もしかして醤油ジュレとかにした?
──────────城崎ララ
思わず笑ってしまう。それは確かに「とはな」ってなります。ちょっと困惑なんだと思います。と笑いもありつつ白っぽい花吹雪のなか黒い醤油が少し混じっていると綺麗かもしれない。
──────────スズキ皐月
花吹雪があって思い浮かべた遠景が醤油でお刺身めいてくるとき、それは読んでいる自分が質感の変化を進行形で見ている状態なんですけど、同時に醤油だってわかっているわけで、匂いや視覚で把握できるところまで距離も詰められているな、もある。要素の見た目が変わらないときの視点の変化と、花吹雪自体の、要素自体の変化がそれぞれ別であって、チェンジングカード......!? になった。文字であることがすごく念頭に置かれると思う。
──────────工藤吹
しょっぺえや。
──────────西脇祥貴

んはじめて痛むとこそこもわたしか

清水将吾「身体感覚は身体を空間に位置づける力をもつか」を思い出しました。「こそ」という強調が文法の外で潜ませてあったりするのが面白い。「ん」が認識するときの速度をかえってうまく表している。気づきのより写実的な描写。あと、「か」で締めるのに、っぽさみたいなものが表出している。
──────────ササキリ ユウイチ
ん、始まり……! 川柳しりとりはこれで無限の可能性を獲得しました。しかしこの読点のなさ。思考の流れをそのまま起こしてきたようでつらつらっと読めるのですが、「はじめて痛むとこ」「そこもわたしか」と、気づきのデプスがえげつないのでつらつらっとしてられず、すぐ頭に戻ってしまいます。それでふたたび効く、今度こそしっかり効く、「ん」。語り始めの始め方って、だいじだなあ……と切に思わされます。ん、といえば。
きかんこんなんくいきのなかの「ん」/佐藤みさ子
ですね。いま改めて調べたら、『金曜日の川柳』にて、樋口由紀子さんがこのように書かれていました。以下長めに引用します。「『ん』があろうとなかろうと実はどうでもいいのかもしれない。ただそう言って、きょとんとさせ、まぜっかえすことで『きかんこんなんくいき』が『在ること』を確認し、露わにしていくことが作者の願い(狙い)だったように思う。それは原発事故は何だったのかという問いかけであり、怒りである。」(ウラハイ = 裏「週刊俳句」2017年8月25日『金曜日の川柳』よりhttps://hw02.blogspot.com/2017/08/blog-post_25.html)
佐藤さんの句は、ん終わり。しかもん、で暴いて、放り投げて(だれに? なにを?)、ぶつ切れます。そしてこの句は、ん始まり。主体がいくつにも広がりますね。痛みに気づいてしまうこと(そしてそれが自分の一部にあるとも気づいてしまうこと)はよろこばしいことではないかもしれないけど、暴かれたものを、はあっと息吐いて、引き受けることでもある。こういう力の入ることを、読点なしの川柳でやる。すごいことだと思う。さらに言うなら、この「はじめて痛むとこ」、どこか自分のからだの外のような印象を受けます。からだの外をさえ、「痛」みを通じて「わたし」と引き受ける。知っている(けど知らないことにしてきた)痛みも、知らなかった(けど気づいてはいた)痛みも。ひょっとしたら、この一句のうちでしか引き受けることはできないかもしれない、離れた瞬間、あまりの負荷に立ち上がれなくなるかも知れない。それでもこの一句といる間だけは、軽やかに痛みに気づくことができる。そしてその痛みと、いることができる。そんな時間をこの世に一瞬でも、ほんとにat a glanceの間だけでもこじ開けた、それも軽々と……。ああ、もうそろそろことばが追いつきません。やめておきます。……もちろん、原発事故にだけ引き寄せることではない覚悟の風景です。けどせっかく川柳句会ですし、一案として。いろいろあったけど、こんなにかっこいいものに出遭って一年が終えられる。ありがたいです。特選です。
──────────西脇祥貴
一音足りない気がするけれど、句を見てから長い間気になり続けていたので並選入れました。やっぱり一音足りない気がする。んはじめて/痛むとこそこも/わたしか○。んー。初句がリズムでやっていくぞ感あるので余計気になるのかも。もしリズムがあっての作句だったら見抜けずすみません。
──────────雨月茄子春

パンダパンダパンダこちらは右ですか

「パンダ」はパトカーで「右」は右翼なんてのは読みすぎですかね
──────────二三川練
好きでした。《パンダパンダパンダ》に《こちらは右ですか》がつづくというこの手法を、現行の現代川柳シーンではあまり見かけない気がします。
──────────松尾優汰
ぼくの人生最高バンドのひと組にディアフーフ(Deerhoof、鹿のひづめの意)というバンドがいて、代表曲にまさに"Panda Panda Panda"というのがあります(https://www.youtube.com/watch?v=5cQ9kUPoaqI)。この句、その曲にじつに雰囲気が近い。つくりの単純な曲で、大半パンダパンダパンダ~、と歌いつつ合いの手のように短いことばを挟むのですが(チャイナ! とかバンブー! とか。ほらもう聴いてみたくなるでしょ)、「こちらは右ですか」も、音数は多いけど内容的には短い。でもパンダ→中国→左、に対しての右、と取ることもできますし、単に曲がり角を尋ねているとも取れる。この多層性でおもしろくなっている句だと思います。パンダに聞いてるのかな。あまりそうは思えなくて、不安なときのおまじないのように見えてきます。みんなで唱えよう、パンダパンダパンダ~♪

飽くなき予報あれは遺伝の水 轍

歌人でいうと服部真里子とか井上法子の雰囲気があってかっこよかった! 意味はわからんくてもスピードとエネルギー量でぶっ飛ばしてくれたなーって感じがあって、それはとても嬉しいことだと思います。予報っていうのは過去を引き継いで今から未来を見ることで、遺伝の水ともどことなくリンクしているし、轍っていう締めでその直線の動きがより加速して前に景色が広がるところ、良いと思いました。
──────────雨月茄子春
意味を読もうとするとすぐに混乱するのだけど、空気と存在感と詩情が乗っていて心に強く残る。笑いの無いただの不条理だと言ってしまえばそうなのかもしれないけれど。現代川柳が短歌や俳句を差し置いて「詩情」を謳うのならやっぱりこういう作品を評価したいと思うし、ここから始めていきたい、とも思う。
──────────二三川練
かっちり決めてきてますね。音数的には十七でも十四でも十二でもなく、十九。不安定なようで、でもこれは言いたいことが、並べたい言葉があっての必然かもという気がしました。姿勢からなのかな。ただあえてなのか、読んでいったところで、なにごとをか言おうとしているのか、はっきりしません。飽くなきは予報にどうかかるのか、それはなんの予報なのか、その予報の中に現れる(?)「遺伝の水」とはなんなのか、そして一文字空けての轍は、なんの轍なのか……。あまりに読み取れない。こうなったとき、それを見事な読み取れなさ、と評価すべきなのか、まとまりがないとなおこじつけてみるのか、判断が分かれるところでしょうが、個々のつながりがなにかを言わんとしているこの文字列を、まとまりがないと言うのは違う気がしました。だからといって、それ以上のフォローはできない。ごめんなさい。せめて並選にさせてもらうことにします。
──────────西脇祥貴

枯野ゆく大江健三郎音頭

ついでに古井由吉サンバとかも作って豪雪の金沢の除雪もしてあげよう
──────────公共プール
そう、予選なんですよ。なんでか? 上五がふつうすぎるからですよ!!!! 七五は西脇的今年度トップクラスのキラーワードだったのに(だれかこれで韻踏んでほしい)、枯野ゆくは、さすがに、置きにいってませんか……? たとえぼくの気づかない大江さんとのリンクがあったにしても、これは、あまりに……絶対いい句になる保証が七五にあるから、上五だけどうにかしてほしいです。ねんのために言っておくなら、枯野ゆく、でも悪くはないんですよ。大江文学って枯野ゆくところありますし。でもほらもうここじゃない、もう近いじゃない。こういうことにしても単位は出ると思うんですけど、これはもっとすごい境地を狙えるはず。もったいないので並選にはしません。
──────────西脇祥貴

Pop Vulture(原題:「猿は手を見ない」)

ほんの少し、ほんの少しだけ枠の外にでて、かつ効果的な句があって、それがビー面において提出されることが喜ばしく思います。原題とあるのだから、邦題が原題で、英訳されたと読んでいいでしょうか。訳が大きく変わるからには、中身にそれだけの根拠があるような場合で、その遠さと近さが、微妙な言葉の選択によって喚起されています。
──────────ササキリ ユウイチ
か、かっけ〜〜〜〜〜。「猿」に漂うハードボイルドな感じが良いです。自分じゃ絶対できないかっこよさがあって憧れてしまう。最初は完全に星野源「Pop Virus」のオマージュとして読んでいたんですが、よくよく調べるとVultureの意味はハゲタカで、財産を食い物にする人という隠喩もあるらしいですね。ハゲタカから猿に飛躍するまでの英語?→日本語の翻訳の飛躍を想像してしまいます。Sister act→天使にラブソングを、的な感じなのだろうか。うっすら滲む動物的なモノへの嫌悪感に川柳っぽい色があって良いと思います。『Pop Vulture(原題:「猿は手を見ない」)』が仮にアニマルライツとか尊重する気がまるでなさそうなクリエイターが集まって作った映画のタイトルだったとして、実際にそういう映画があると「うわぁ…」という気持ちになるけれど、川柳という磁場でやっていると不思議と「ふーん、かっけーじゃん」みたいな、嫌悪感を放置していてもそこまで露悪的にならない謎のフラットさが生まれるような気がします。この句は川柳のそういう部分にうまく乗っかることができている句なのかなあと思いました。
──────────毱瀬りな

どの茄子を裂いたとしても神託に……

亀甲占いとかのタイプ。茄子なら焼いたあと美味しく食べられる。しかし裂くがやや不穏です。柔らかいものを裂くこと、おまけに茄子自体にはこだわりはなさそう。神託のように、仰々しい理由づけで許される行いというのは往々にエスカレートしがちなので、このまま焼き茄子に味噌とか乗っかる方向に進んでいってほしい句。
──────────城崎ララ
永遠に鴫焼きの食えない呪い。神殺しの初手は、あんがいこういうところからなのかもですね。だいたい押しつけがましいんですよ。(茄子が神託になる読み)永遠に鴫焼きの食えない呪い。神殺しの初手は、あんがいこういうところからなのかもですね。だいたい押しつけがましいんですよ。(茄子を裂くであろう、との神託が出た読み)
──────────西脇祥貴

恋愛ツイート恋ツイのそれからツイが目的に

初読のときに本能で最悪だと思って、かなりよかったと思う ツイートをしているだけだからツイッターのメタにしかならない・可動域に狭さがある・いけすかね〜〜〜
──────────工藤吹

揺れてるねそのなかいとかちぜんぶ

これもひらがなへ開く系の一句。ただしこれは他の句と比べて単語を汲み取りにくく(個人差かも)、効果としては一段ゆるいように思えました。どうにか拾ってみると、名、中、甲斐、仲居、胃、カイト、価値、血、くらいかなあ。ただしあえての五・七・四になにかを感じる……けれど、今回は読み切れませんでしたm(_ _)m
──────────西脇祥貴
気になりました。ひらがな表記をどんな漢字に変換して読むかは読み手に委ねられているのだと思います。私は「そのなか胃とか血ぜんぶ」と読みました。詠まれている感じは面白いなと思ったのですが、私が読み取った内容と、ひらがな表記と字余りの感じがいまいちしっくりこず…
全然違う意図だったらすみません。
──────────佐々木ふく

王道の位置はもう幾許か北

南北のイメージって平面上の上下だと思っているんですけど、王道を道としてイメージしたときって縦線だなと思いました。道って言われたら正面を向いて一人称視点で思い浮かべるか鳥瞰したときの縦線で思い浮かべると思う。王道の位置の話をされるとき、そこには立っていないわけで、そうなると急に道が向きを変えて横線になる感じがする。けど、北でうっすら縦線のイメージが残っていて、句自体が長くて変に曲がっている道っぽいなと思った。でも王道って直線だろうからやっぱり道だったとしてもここは王道じゃないですね、確信の気持ちがあります。
──────────工藤吹
「北」というのが良いです。東西南北での表し方により王道のスケールまで喚起されました。
──────────スズキ皐月

左右から織り交ぜられる雪と雪

綺麗~~~!!と心からニコニコになりました。「左右から織り交ぜられる」という語から、着物の図案やテキスタイルのような視覚的に美しい世界が広がる句だと思います。
──────────南雲ゆゆ
吹雪も誰かの作為のようで美しい。好きです
──────────城崎ララ

ふくらはぎに映る明日の十二月

ふくらはぎ、なのがいいですね。映る実感がありますし、見てるこちらの位置がなんだかえろくて。ふくらはぎに映る、だけでその位置・関係性まで想像させてくれるのがすごいです。で、映ったものが「明日の十二月」。ぼんやりしているのですが、ふくらはぎの実感のおかげでバランス良くなっています。日にちの連続としてではなく、月単位での大きな把握の中に今日、そして明日があるばかり。そういうぼんやりした状態(恍惚?)にあるのかもしれませんが、この言い方はスマートです。できすぎている感じがしたので予選にしておきますが、並選に近いです。
──────────西脇祥貴

犬のこころはたいて大そうじょうのこころ

読む時に詰まった個所が二か所あって、ひとつあるだけならどうしようもなかった読みづらさなのかなと思うんですが、二か所となるとこれは狙った読みづらさなのではと思いました。ひらがなに開いているのもその意図があってでしょう。詰まった個所というのは一つ目は「犬のこころはたいて」の部分で正しくはおそらく「犬のこころ/はたいて」なんですが初読では「犬のこころは/」で切りたくなります。二つ目は「大そうじょう」の部分で「大そうじ」と読みたくなります。意味の面でも「こころ」の比較も面白いしよく練られた句だと思い驚きました。今回のトリッキーな句の中では一番驚きです。
──────────スズキ皐月
なぞなぞみたい。ほんとにわからんのがすてき。犬のこころって、大の字の上の点(`)だったんだ。しかもそれがはたかれて落ちたら、とたんに大そうじょう。なんのこっちゃ! といいつつ、くずし字で書かれた古文書の一節にありそうでもあり、人類滅亡後の居酒屋の朽ちた壁に残る訓示のようでもあり。キャッチーなんでしょうな……。気になるのは、そうじょうがひらがななこと。大僧正、ってたしかに字が重たいし、犬→大の変化が目立たなくなるのでひらがなにするのは納得なんですけど、僧正くらい意味のかっちりしたものがひらかれると、なにかこう、同音別生物のようなおもむきが、でてきませんか……? まあ、そもそも僧正、ばけものだしな。
──────────西脇祥貴

肛門のデザイン終えた室外機

室外機の模様と肛門の類似を見つけた面白い句で、単に似ているのではなく室外機の回転を「肛門のデザイン」と称するのが面白い。言葉自体も面白い。情報量、笑い、ウィット、言い回し、どれをとっても完璧だと思います。
──────────二三川練

流刑地の流刑うどんと流刑そば

流刑地からの展開がないのがおもしろかったです。展開がない、というのはイコール人がいないってことなのかな。人の気配がなくて、でも流刑地だから人がいる場所ではあるんですよね。うどんもそばも土地性のある食べ物だと思うし、地がうどんとそばにスライドしているのもなんとなく連関が見えておもしろく思える。
──────────雨月茄子春
かつて流刑地だった地方自治体が町おこしの目玉として売り出したのが流刑うどんと流刑そばだった……と考えると、「あるある」的な笑いを生み出す句ですね。町おこしはどこも真剣に取り組んでいるのですが、それだけに「本当にそれで行くの!?」とツッコみたくなるような時もあります。流刑地というのは不名誉な称号でもあるのですが、それを逆手にとって町おこしにしていく地方自治体の商魂たくましさ。同時に、そうでもしなければ生き残っていけない地方の世知辛さというアイロニーも感じられます。字面のインパクトと社会への接続との両面で諧謔性に満ち溢れた良い句だと思いました。
P.S. 流刑うどんと流刑そば、ふるさと納税の対象になっていそう。
──────────南雲ゆゆ
流刑地は流刑地なりに栄えていこうという負け犬根性の面白さ。とりあえず「うどん」と「そば」から始めていくのもリアルだし、流刑地だけに良い水が取れるのだろう。あまりにも流刑に処された人が多いために逆に栄えることになったのかもしれない。
──────────二三川練
こういうの本当にありそうで食べた感想は、素朴な味ですね、とか。ただ、四国だったらうどんは美味しいだろうし、東北だったらそばは美味しそう。両方あるあたり、どっちも美味しくなさそうで不人気な土地という感じがしてくる。
──────────公共プール
流罪になってしまってもいつかは割り切って生活しないといけないわけで、その中でうどんやそばを流刑うどんや流刑そばと呼ぶ文化ができることもあるのかも。おかしみと奥深さを感じます。
──────────スズキ皐月
流刑地でさえ商魂逞しいひとの性。いや、かつての流刑地もいまは観光地というやつでしょうか。歴史を下敷きにしながら今を生きていく、人間は逞しいですねとしみじみ。
──────────城崎ララ
「流刑地」の不穏さに対して、「うどん」「そば」の脱力感がたまりませんでした。おいしいかどうかわからないけど、温かそう。
──────────佐々木ふく

いつかことわざになる川柳

うまいこと言ったなというシンプルさが気持ちいい。きっと現実になると思う。
──────────小野寺里穂
「ことわざになる」ということは、川柳にとってはあまり名誉なことではないような気がします。本意ではないのに、ことわざになってしまう感じは、それはそれでおもしろいなと思いました。
──────────佐々木ふく
それいいのかな、わるいのかな。いちおう七七ですけど。でもそうなるだろう川柳の例そのものを出すんじゃなくて、そういう川柳、って概念だけ放りだしたのは川柳っぽいです。
──────────西脇祥貴

もちまえのもちのきもちももえちまえ

「えきまえのえのきをわきまえて」の句より徹底したひらがな連打。なので切実さはこちらの方が強いです。いくつかに切れる、という指摘はきっとどなたかがするでしょうけど野暮ながらしておきますと、
もちまえの/もちの/きもちも/もえちまえ(持ち前の餅の気持ちも燃えちまえ、など)
もち/まえのもちの/きもちも/もえちまえ(餅(、)前の餅の気持ちも燃えちまえ、など)
もちまえの/もちのき/もちも/もえちまえ(餅前のモチノキ餅も燃えちまえ、など)
くらいかなあ。まだある気もしますし、もちを望としたり、もえちまえを萌えちまえとすることもできそうです。単語単位で隠れているのはもっとあるな、餅間、絵の餅、野茂、血の樹、血の気持ち、桃、百恵(山口?)……えのきとかちまきとかももちとかえっちとかも見える気がしますけど、これはぼくの目があれなせいか。なんにせよ、本来軸になるはずの句意を横においといて、句の字面だけ(音だけ?)をならべてみて、できるだけたくさんのものを取り出せるようにする、という実験エンタメ句なのがおもしろいです。探しちゃうもん何が隠れてるか。ちょっとしたブームになっている「○○の××の部分」の発想を、川柳にねじ込んだ感じ。あとは今回「もえちまえ」に感じた、ちょっとぎくっとするようなショックが煮詰められ、狙い澄まされると、もっとすごいものになりそうな予感。
──────────西脇祥貴
「も」がたくさん並んでいるという句自体の容貌ももちろんですが、それだけでなく《きもちももえちまえ》という言葉のチョイスが素敵だと思いました。
──────────松尾優汰

歳末を狂えざいやの! アンパンマン

ちょっとついていけないノリが存在している。ついていけないノリは、単にごく個人的な語法のみならず、さらに勢いが加わったもので、この句は「狂え」という呼びかけ、それからざいやの!が勢いをあからさまに表している。表現する言葉が、それなりに計算された句で、面白いと思います。コロケーション的につながらない言葉の組み合わせをいくつ持ってくるかで上がる難易度があって、これは難易度高めなのでは、とも。
──────────ササキリ ユウイチ

炒飯に木村拓哉を混ぜるべからず

「木村拓哉」は現代日本、とりわけインターネットネイティブと呼んで差し支えない世代の人間にとって万能調味料のような言葉だと思っています。振るだけで決まる。ちょっとズルすぎる。しかもこの「振るだけでずるい」感を逆手にとって最早調味料として木村拓哉を使いこなしている…。言葉としての「木村拓哉」が持つパワーを分かりやすく伝えてくれるお手本のような句なのではないでしょうか。(追伸:皆さんが思う他の万能調味料ワードも知りたいので、ぜひ評の公開後にツイッターや談話室で教えていただきたいです。)
──────────毱瀬りな

家柄のわるいセーター忍ばせる

なんてチャーミングな句!下妻物語のことなどを思い出しました。家柄「が」ではなく「の」の真意を測りかねていて、でもこの「の」が一読してあれっと思わせるいい意味での違和感のフックになっていて素敵です。セーターにウィンクされたような気がしました。
──────────毱瀬りな
家柄のわるいセータ―というパワーワード。セーターの柄って質の良し悪しに如実に左右される気がします。
──────────南雲ゆゆ

絶交も援交もして青い空

公園なんだろうなって思いました。どの地域にも絶交と援交をするための公園がある。
──────────雨月茄子春
「絶交」と「援交」という言葉遊びが非常に面白いのだけど、「青い空」と締めたのはきれいすぎるんじゃないだろうか。せっかく面白い言葉遊びなのだからもっと俗っぽく落として最後まで笑いたかった。
──────────二三川練
「青い空」で締めるには前の部分が重すぎてうまく呑み込めなかった。特に「援交」には重みがありすぎて、軽さであったり他の性質に転じさせる難しさを感じました。
──────────スズキ皐月

まあ冬が足りてないから光るんよ

「冬が足りてない」って何?と思いますが、読み手が、そういうこともあるのかなと思えたら、この川柳の勝ちですね。「足りてない」はネガティブですが、最終的に「光る」のであれば、そんなに悪いことでもないのかも。口語が効いていると思います。
──────────佐々木ふく
おっけ!じゃあおれも冬になって混ざるわ!って言いたい句。光っとるの何?冬が足りない時に光って冬になってくれるの、イルミネーションってそういうやつだったのか。やさしさ。
──────────城崎ララ
イルミネーションに対する揶揄なのかなと思いましたが、「まあ~んよ」の口語の中でも特に軽い形のおかげであまり執着を感じない気持ちの良さがある句でした。
──────────スズキ皐月

彗星の枝毛になる まってる

物理的に奥行きを感じる句が好きで、これもそうだなあと感じたので選びました。
川柳の物理的な奥行きってなんやねんという話なのですが、韻律や様々な要因から、読み上げると言葉の奥に空間が広がっているような心地に至った句を個人的にそう呼んでいます。この句の場合は彗星はとても遠くからやってくる星であるという事前知識(了解)と、一字空けからの「まってる」というシンプルで、でも決意を感じさせる宣言がそうさせたのだと思います。「まってる」ことによって、ここでは「まつ」主体と「またれる」客体という二つオブジェクト同士の距離を定めるための始点が決まっています。しかし、客体の場所は定められていないからその距離は読み手からすると永遠に分からずじまいで閉じることなく広がっていく。さらにそこに彗星という星の概念がやってくることによって、わたしたちは始点=視聴を開始する点を定めた状態で宇宙的な奥行きをこの句から感じることができるようになったのだと思います。
もう一つ好きなのは、「彗星の枝毛になる」と「まってる」の関係性が全然わからないことです。主格をあえて省略することによって「わからない」の幅を広げることは川柳の常套手段ですが(マイ・川柳・好きポイントの一つです)、この句にもそんな川柳らしさがふんだんに盛り込まれています。何も分からないけれど一つの語りがそこにあり、空間だけが存在しているという確信はわたしにとってとても居心地が良いものでした。彗星のあのしゃばしゃばしているところを枝毛と表現するのも好きです。
好き好きしか言ってない気がするのですが、とてもいい句だなあと嬉しくなりました。ありがとうございます。
──────────毱瀬りな
彗星の尾の一本の枝毛、というのは謙虚とか卑屈なようでそうではなく、ロマンを全然すててないのが好感。単に彗星の飛来をまっているのかもしれないし、まったく別のなにかしら退屈さを一時でも忘れさせるようなきらめくものと自分を接続させたいということ。そう言うなら、いっそ恒星のキューティクルにもなりたいよな
──────────公共プール
絵とかであらわされる彗星は言われてみれば線の束のようにも見えて、さらにそれの枝毛とまで踏み込むのは綺麗な発想で印象に残りました。
──────────スズキ皐月
川柳句会ビー面の文脈で、この句は嘔吐彗星さんの弟子になるという宣言として読んでしまったが、それは作者の本意ではないのかもしれない。彗星は「尾」を持つ天体だが、その枝毛というのはさらに細く、彗星にかろうじて付随している取るに足らないものだろうか。一字あけの「まってる」は枝毛になることを待っているとも読めるし、前半とは関係なく誰にも届かない祈りのような呟きにも読める。ロマンチックにも、現実的にも受け止められる句だった。
──────────小野寺里穂
彗星の分岐が一度の切り取りでは生じないときの、まてないの意味の隔絶が長さがある
──────────工藤吹

生活のいつからが焼き海苔

川柳では変容がえがかれることが多多ありますが、変容の過程がえががれることは少ないように感じています。
──────────松尾優汰

遠く浜暫定的な胸襟の

おお、胸襟って襟のことなのかと思ったら、胸の内のことだったんですね……。でもこの襟の視覚イメージが強くて、海岸線のカーヴがそのまま大きな襟になっていく幻が見えました。しかも暫定的なので、まだそれは浜かもしれない。胸に有りながら浜。胸ヶ浜(言いたかっただけ)。
胸の内、という意味だと全体がちょっとボケすぎてしまい(遠く、のボケ×暫定的のボケ×胸の内のボケ)、胸襟より浜が印象づけられるのですが、こっちの意味を背景、というか空気感として敷き詰めつつ、視覚にうったえるほうで読むのがいいかなあと思いました。そうすると、大きな襟越しに胸の内が透けて見えて(暫定的なので)、カーヴから浜がよみがえってくる。そういう意味では、行って戻る句であると言えるかも知れません(浜→暫定的な胸襟→胸の内→暫定的な胸襟→浜)。
だから浜の数だけ、浜に近くすむひとの数だけ、ちがう景色や胸の内を呼び起こしてくれる句なのでしょうね。ぼくの住んでいる市の沿岸は、コンビナートで埋まっています。それはそれなりに見えるものがある、コンビナートには暫定的な感じがありますし。あなたの浜を通すとどんな句になるか、ぜひおしえてほしいです。
──────────西脇祥貴

うすぐもり色の紙せっけん吹いた

心が空っぽな感じがよかったです。うすぐもり、とせっけんを吹く→シャボン玉の、でも紙せっけんだからカサカサしてそうなところ。
──────────雨月茄子春
きれいですねえ。だいすきなだいすきなだいすきな高野文子さんの漫画「病気になったトモコさん」(『棒がいっぽん』収録)に、風が吹いて病室の窓からオブラートがつぎつぎ飛んでっちゃうシーンがあって、それぞれぐにゃぐにゃにゆがんだ円が、町の空へするる……とすべっていく絵は、「そんなことって絵にできるんや……」という衝撃とともに刻み込まれてるのですが、まさにそれを思い出しました。長い説明だな。
色も良ければ紙せっけんというものもすてき。久しぶりに聞きました。掌サイズの透き通った四角形、っていうだけでもうものとしてのすてき度が高い。そのうえど日用品なので、使ったらなくなる。透き通りもあいまってはかなさ標準装備。
実際のものとしては、吹いたくらいではどうもならないはずなのですが(たぶん舞ったりはしない、んじゃないか……)、それを吹いて、紙せっけんが空に舞ってった結果のうすぐもり、という捉え方も見えて、うれしいです。吹いた、と行為の記述でそっけなく終わってるのも、あとをこちらに任せてくれていてうれしさ上乗せ。これで年越しまでのうすぐもりは耐えられそうです。
──────────西脇祥貴

フリルに乗ってもぐれる記憶

いけにえにフリルがあって恥ずかしい 暮田真名
をすぐさま思い出したが、フリルを乗り物として捉え、さらに向かう先が記憶というこの句はかなり新しいのではないか。フリルの襞の形状が記憶にもぐるのに適しているのだろうか。「もぐれる」という可能態も文体として面白い。
──────────小野寺里穂

口がついたままの課税対象者

怖い。怖さでいえば今回の投句で抜群でないでしょうか。ついたまま、ってことはついてないのが本来、ってことですもんね。課税対象者はしゃべらないし、その必要もないものという前提が、どこかにある。しかも「まま」、元々あるものを削いで、その前提に立つことになっている……怖い。あながち遠い話とも思えないのが怖い。では、非課税世帯には口が残されているのかな。と思いながらすぐあー、となりました。これを言っている人の視界に、非課税世帯は入る余地もないですね。いようがいまいが変わりない存在にされている。醜い。いうまでもなく作者さんがこう思っているわけではなく、こう書くことで、こう思っている主体がいる、という事実を暴いているわけですが、そういう整理が追い付かなくなりそうなくらい、恐ろしい告発です。「残酷は願うものなり伝言ゲーム(榊陽子さん)」。この前提に連なる願いとはなんだったのか、そう願ったなかに、自分は立っていなかったか……。そう思えども、気が付いたときにはもう発信できなくなっているかもしれない。この口は、削がれてしまったあとなんじゃないか? とつい口の周りを撫でずにはいられない、肉感もともなう一句です。「課税対象者」というくくりの、あまりの無機質さ……!
──────────西脇祥貴
「口がついたまま」が不穏です。本当は、その「口」をなくしてしまいたい感じ。黙って税金おさめておけよという感じ。
──────────佐々木ふく

手が出ない日々のうるさく喋る石

「の」の不安定な安定感に手を出している。法外な言葉つくりが、うまく成功している。奇妙のような気もするし、そうでもない気がする。そういう納得感。
──────────ササキリ ユウイチ
ゴシップストーンのほうのシーカーストーンだ と思ったので、手が出ないと言いつつ完全に外部からの介入の受け皿になった状態でいる気がしている。「日々」の冗長さもそれを後押しして、長時間にわたる手が出ない(これは出せないではない)状態と喋るという介入の態度との緩急をつけているように思った。日々とうるさくが連続したところにちょっと過剰に緩急を押し出すような体感がした。ちっちゃい転換というよりかは回収先がみえている......透けている......伏線みたいな、感じがある。
──────────工藤吹

ぶつ/かる/いし/のない交差点

自分が川柳を読んでいるときに一番テンションが上がるのは、単純だが掛詞だということに最近気づいた。今回の場合は平仮名にスラッシュを入れることで、読みの多義性を示しているが、その行為に反して言葉自体が示しているものは「無」である。そのギャップがこの句の肝だ。「〜のない交差点」という文の「〜」の部分には何だって当てはめることができそうだ。「いし」には様々な漢字が考えられるし、半角スラッシュ「/」の連なりは、視覚的に横断歩道に見えないこともない。それらの様々な可能性は「〜のない交差点」とまとめられることで、どこにでもある特異性のない交差点に収斂する。言葉を尽くすこと、それを裏切り空虚だけが残ること、この二面性が川柳の醍醐味であり、この句のよさであると言えると思う。
──────────小野寺里穂

息を止めて引き止めてモン・サン・ミシェル

モン・サン・ミシェルを見るたび(写真ですが)に息をのむような感動があるので、それを思い出しました。ここでは自然に息が止まるというより意識的に止めているのかな。美しいものを見る時に適した姿勢かもしれません。
──────────スズキ皐月

雪を目指し昇っていけば星やんな

初句のもったり加減はあまり好みではないのだけど、ただごと風の、理よりも理、な句だったので採りました。
──────────雨月茄子春
とても寒い夜の式だったのでしょうか。星になったらもう振ってはこないから、寂しいけれど、ずっと空にあるものですからかえって笑いたくなるほど清々しい気配。煙も高いところが好きだというし、満足しているんじゃないかなと思います。
──────────城崎ララ
「雪」「星」というロマンチックな言葉に対して、一瞬意味がよくわからない感じが楽しいです。雪山で遭難して星になる…という身も蓋もないストーリーを想像してしまって反省しました。関西弁が良いですね。
──────────佐々木ふく

奥の手は六十人の勇み足

いくら六十人いても「勇み足」なので、全然奥の手にならなさそう。いや、六十人いたら、それなりの振動になるのかな。「手」と「足」の対比は好みが別れるかなと思いました。私はもう少しズレていた方が好きですが、これはこれでありなのだと思います。
──────────佐々木ふく
奥の手と勇み足でひとつの点から前後にベクトルが伸びているときの、多分ある程度引っ張る力と進む力が相殺してぴたっと止まっているんだけど、それがなんか良かった。予感と字義で釣り合わせている感じ。まんなかにある程度大きい数字を置くと、数はやっぱりつよいですよねーと思わせられるし、それが勇み足にかかっている重心をうまく奥の手側に寄せて均衡を保っている気がしている。私は手と足の対比を考えないほうがおもしろく読めた。
──────────工藤吹

電話機の親は定型、子は破調

ツッコミをさせられました。すごくツッコミ待ちの句なんだけど、ここまで身も蓋もなく言われると嫌味もなくて素直に受け取れる。
──────────雨月茄子春
定型に収めるには親は定型、子は破調なのだろうけど、親の破調から逆算して形成される子の定型に興味が沸きました。
──────────毱瀬りな

おねえちゃんが根差したリミックス

おねえちゃん、と聴いていやらしい話に取るのは、ぼくの世代で終わりにしましょうね。終わりにするからぼくまではそう取らせてくれ。夜とそのせつなさ(刹那さ/切なさ)が根差したリミックス、と考えると、クレイジーケンバンド界隈ではじじつありそうなリミックス名です。そもそもなにをリミックスするのかもわかりませんが(曲? 小説? 映画?)、その解体・変容・再構築の軸として「おねえちゃん」。解釈の広がる幅としてはかなりいいチョイスでないでしょうか。
もちろん、きょうだい関係のおねえちゃんで取っても十分おもしろいです。なにがおもしろいって、いやお前のねえちゃんとか知らねえよ! ってすぐに思えるところ。つかみのこの速さ。笑えます。しかも家庭ごとさまざまなねえちゃんがいる、って想像が細かく広がりますし。何番目のねえちゃんかにもよるし、きょうだいの男女構成にも依るからな……。そういう、私的(詩的?)怨恨さえしみつく響きがあります。いいリミックスだろうな。ちなみに、これまでに見たリミックスの名前でいちばん印象に残っているのは、電気グルーヴさん"ノイ ノイ ノイ (先日のみちのくグルメツアーの件、御予算の都合上、ソフトボール大会とさせていただきますmix) "です。これに比しても善戦だと思います、この句。
──────────西脇祥貴

田中家に居座りすぎた網走市

網走市と田中家の大きさのズレ。最初は狙いすぎかな?と思ったのですが、網走市が北海道を追われて、めっちゃ小さくなって田中家に逃げこんで、居座ってしまった、みたいな様子を想像したら、ちょっと楽しくなりました。おしゃれすぎない名前だから良いのだとおもいます(田中さん、すみません)
──────────佐々木ふく

ぼくらなんていないよぼくがいるだけだ

たぶん(と予防線を張りつつ)人間は関係の薄い人間を見るときはカテゴライズをよくするわけで、そういった視点に立つと大抵の人間は「~ら」にまとめられてしまう。でも「ぼくら」の中のひとりからするとまとめられるほどそこにいる人々は画一性はないし何かにカテゴライズしていい存在ではない。そう伝えたいんだと読み、ストレートではあるけど、ひらがなでの記述も効いているのか、印象に残るので特選にしました。
──────────スズキ皐月

夜更けに拭うりんごの水滴

詩があると思います。
──────────佐々木ふく

冬のうどんはややおせっかい

寒い冬に、ちょっとしたあたたかさをくれるうどん。その瞬間はからだも温まって、鼻水とか出てきたりして。それくらいの「やや」な「おせっかい」は、「おせっかい」だけどあんまり嫌じゃないんだろうなあと思います。うどん食べたい。
──────────佐々木ふく
うどんは自分のおせっかいさに気づいてなさそうで笑ってしまう。
──────────スズキ皐月

tele-なすがまま沈黙しじまのそとに書き損じ

接頭語のそういう使い方があったとは……!
──────────南雲ゆゆ

献立を輪唱しているくだんたち

きっと、重要な予言をするとにんげんたちに取り囲まれて過剰な期待をかけられて逃げてきた件たち。他の件と出会って、互いに傷つけないように気をつけながらできる交流として、提供され得る食事を歌うというのはとても悲しい一場面だ。内田百閒の短編のなかでも特に好きな小説が「件」なので、また別のラストシーンを見せてもらえたようでありがたかったです。それで、余計なこともぼんやり思ったのだけど、今も続く疫病の流行に伴って生じたアマビエのイラストについて、件も同じような伝承があるらしいけれど、どうしてこの違いがでたんだろう。人面牛のイラストを掲げて疫病退散を祈願したということは寡聞にして知らない。アマビエブームのきっかけは妖怪掛け軸専門店が宣伝したことがきっかけとするネット記事を見かけたが、やっぱりアマビエと件のビジュアルを比べると、マスコットキャラクター然とした前者とは違って、件はにんげんの顔と牛に過ぎず多くのにんげんにSNSで受け入れられるとはかぎらなかったろうし、異形の牛でもあり異形のにんげんでもあるのだから、それを目にすることは自身も同じようになるかもしれないという恐怖ともいうことはできるだろうか。アマビエは言いたいことを言ったら、海に帰っていけばいい。この島国のにんげんたちの海に対する甘えは昔から大きいから、汚いものや怖いものが海に沈んでいくことを当然だと思い、浄化されるともおもっている。翻って、家畜のようでもある件が数頭群れて、歌を歌っている様子というのは、どん詰まりの最期の瞬く安楽のようでもあって、この句の景を思えば思うほどやるせない。もう件という字に出くわすたびにこの妖怪のことを思い出さざるを得なくなる。
──────────公共プール
ホラー!献立という語から小学校の給食を思い浮かべました。災害や疫病を予言するといわれる件、その件が献立を輪唱している……一体何が待ち受けているのか。それを知らない子供たち。背筋がぞわぞわします。ちなみに、件が複数出現するパターンははじめて見ました。その点も怖いですね。(献立も輪唱も何回も続ける語である点が隙が無くていいな~と思いました)
──────────南雲ゆゆ

ふたたび眼裏で血を浴びるくまモン

象徴的スプラッタ。しかも「ふたたび」だから、くまモン眼裏にて血を浴びるの図、を、初回はどういう経緯で見たのかひたすら気になります。なにがこの人に、そんな凄惨なんだかファンシーなんだかわからない画を植え付けたのか……。まずこの画がキャッチーすぎて止まるのですが、そこから効いてくるのが「ふたたび」。キャッチーな画の中の凄惨さやかなしさを、この「ふたたび」がより深めています……というこの効果、どこかで見たなと思ったら、ジョイ・ディヴィジョンですね。"Love will tear us apart"。サビで繰り返される歌詞は、Love will tear us apart, "again". タイトルにはないこのagainが、Loveへの底深い絶望と荒れ野のごとき諦念をいちどに噴出させる、というものでした(こちらの場合、多分にイアン・カーティスの歌い方に拠るところが大きいですが……)。いずれにしても、トラウマのにおう句です。くまモンがいるから余計その狂気がきわだちますし、でも一方で、くまモンのようなすがる対象を置かないといけなかったことを思うと、主体の傷の深さが思われます。その切実さで並選です。
──────────西脇祥貴

まだ欲しいやまとくにばら肉に人も

強欲な句。「まだ」の強調で足らずに「やまとくにばら(大和国原)」の名を出し、あまつさえそれを「ばら肉」とかけたうえで、「肉に人も」とほしがる。
やっぱこの、ばら肉ですね。すごみのみなもと。やまとくにばらから、ばら肉呼んでくるって……聖と俗の接着、それもあまりにも雑で、暴力的な。2歳児の工作みたい。3歳児にはもうつくれない粗暴さ。こういう暴力を掘り出すには川柳が向いている気がしますし、なんだろう、雑すぎて、見とれてしまう。雑な暴力も受けとめて、しかも見とれるようなうつくしさを引き出してしまう詩型……。素朴な欲のつぶやきから始まって、やまとくにばらで景はいっきに広がる(高速ズームアウト、アウトアウトアウト……)。広げるだけ広がったやまとくにばらは、しかし一瞬で(文字通り一瞬で!)ばら肉と化す。骨までむき出しの肉の固まり。このねじれ。そう、人「も」なんですよね、人なんかついで。「口がついたままの課税対象者」の句に怖い、という感想を付けましたが、あれは理屈で解ける怖さでした。この句の怖さは、理屈を受け付けません。本能が怖さを覚えてしかもひとつも説明できない。思えばこれまで見てきたどの怖い川柳も、まだ怖さを説明できました。2歳児の、こういう怖ささえ表現できる。まだまだ落ちる鱗がある……すごい。特選です。
──────────西脇祥貴
感覚的によいと思った。
山/大和/と/特に/倭国/ばら/薔薇/ばら肉/肉/に/人も が混在していて、連続して言葉を詰めているな〜のときの膨張の感じ、が、まだ欲しいでとまらなくなる、がある。ずっと膨らんでる。
「人も」で語の取り方の分岐がスッと減ることや「も」の含みが、欲しいものとして何か列挙するときに適度に間隔をあけてくれると思う。
──────────工藤吹
なんだこれ、わからなすぎる。リズムも意味も全く入ってこなくてすごい。
──────────ササキリ ユウ

ナナチにはにくきゅうがある明日もある

ウオオオメイドインアビス川柳!!!!メイドインアビス川柳だ!!!!自分の話をしてしまい申し訳ないのですが、メイドインアビス川柳を作りたいな〜とTwitterでボヤきつつ先例も勇気もなくて作れねえな〜とぼんやりしている間に先例ができてしまって「嬉しいけど悔しい!!」の気持ちになりました。わたしも作りたいです。二次創作短詩の醍醐味って文脈が分からなくても歌/句として面白く読めて、さらに原作を履修していると「そうそう!そうなんだよ〜!」という「分かり手」的楽しみも二重に楽しめるところだと思います。そしてこの句はメイドインアビスを読んでいるか否かによって「明日もある」の重みが全く違うものになってくるのではないでしょうか。また、キャラクターとしてのナナチのことを知らなくても彼(彼女)のもふもふなビジュアルと「明日もある」という牧歌的な言い切りのバランスには魅力を覚える人もたくさんいると思います。二次創作らしい二重構造を楽しむことができました。
──────────毱瀬りな
『メイドインアビス』のナナチ好きとしては気になって仕方ない句。ナナチの人生(?)を考えると、「明日もある」という明るい言葉で締められていることがうれしい。
──────────小野寺里穂
まさかのメイドインアビス被り
──────────雨月茄子春
言ってたらでてきた『メイドインアビス』ネタ。知らなすぎて調べちゃったので作者さんの思うつぼです。でも知らなくてもいい句だな。七五のジュニークだけでも十分いいもの。明日もあるもの大喜利の答えとして、「にくきゅう」の得点は高い。もちろん、ひらがな。ナナチをほかのなにかに変えたらもっと広く伝わりそうですけど、たぶんこれは野暮な指摘。あとは『メイドインアビス』見た方のコメントにゆずります。
──────────西脇祥貴

かにぱんが握りしめてるぼくの影

ただ言葉の衝突に意外性があるだけではなくて、そこでえがきだされた情景に寂寞な情緒がにじんでいるような気がして、好きでした。
──────────松尾優汰
声色がよかったです。かにぱん、と、ぼく。アニメっぽい雰囲気。
──────────雨月茄子春
かにと思いきやぱんだし、ぱんと思いきや握りしめてるし、握りしめてるのはぼくと思いきや影のほうだし、解釈しようと伸ばした手から、延々と言葉が逃げていく。他の句にはない鑑賞体験が楽しかったです、
──────────南雲ゆゆ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?