川柳句会ビー面 11月号


問い続けて、風に答えてもらおう

さわやかな一句。川柳というにはすがすがしすぎる、抜けの良すぎる句というかんじはどうしても受けますが、へんにうがつのもいやですね。しかし"Blowin' in the wind"を連想すると、「答えは風の中」というかの歌の有名な一節を、煮詰めて煮詰めてこの句、という流れも見えてくるし、そう見るといや、むしろ純度の高いうがちじゃん! という発見もあります。もう人間どうし尋ねあったんでは答えは出ない。じゃあ、という投げ遣りなような、真剣に風を壁際に追い詰めて答えを出させてやろうじゃんか、という狂気でさえあるような。この放り投げているのに真剣、というありようのだぶつき、その響き合いが長い振動を生んで、気になってしまう句です。ただそう取るには、「問い続け」る、「風に答えてもら」う、という言い回しがあまりに青いので、川柳を読み慣れていない場合は、段階が必要になりそうです。うーん。別にうがちに気づかなくてもいいんでしょうけど、ビー面に出た句であるからにはこのうがちの魅力は生きてほしいです。
────────西脇祥貴
風との距離感がいいのと、問い「続けて」で時間の幅がたっぷりとあるのがいいです。風への信頼が下敷きにあって、問いかけを続ける。きっと応答があるという確信があるところ、ハートが強いと思う。堂々としてる。
────────雨月茄子春
「、」で分割される二つの韻律は、二つと捉えるには長すぎて、そうしてそれ以上に分割される韻律があることに(少なくとも定型詩に親しみがある人なら)直ちに気づくのだが、このキザさにどれだけついてこさせるか(立ち止まらせるか=風を感じさせるか)が肝だと思います。その点はもう少しだろうか、と。
────────ササキリ ユウイチ

透明な空の順番に並ぶ

順番というと序列をつけるということだが、「透明な空」に関して客観的な基準はあるのだろうか。いや、ないだろう。空が並ぶ光景を想像するという行為が詩的だった。
────────小野寺里穂
一字不足のみの十六字。もはやジュニークが浸透した現在にあって、十六字を短律と言えるのかという問題はありそうですが、言い切りの勢いがあるので短律に感じられます。「透明な空」と「順番に並ぶ」。つながり得ないふたつの断片を、なにげに「の」で接着して放り出した、そんな無骨さすら感じるつくり。でもその歪な接着からさえ詩は立ち上がってくる、いやそこにこそ詩がある、というのが川柳の言い分だとするなら、これほどナマの川柳もないのではないでしょうか。もちろんもろい部分もあります。が「順番に並ぶ」を選んだのがよかった。あとの部分を具体的に押さえることで、ねじれのエネルギーを散らさずにまとめています。あと読み手が出来ることと言えば、「透明な空の順番」なる想像し得ないことを想像しつづけて、ふわふわするだけ。この像の結ばなさも絶妙です。あらためて短律で正解。
────────西脇祥貴
白って200色あんねん、ってアンミカさんが言ってたけど、透明な空もたくさんあるのかもしれない。見えないものを見ようとするおれはバンプ世代。
────────公共プール
「透明」が歓喜させるイメージ、輪郭。「空」が歓喜させるイメージ、輪郭がないもの。並ぶは、具体的なイメージで、これらの像が結ばれないことに、乗れなかった。景として異常なものを句にするとき、どこまで結ばせてあげるか、というのはあると思う。並ぶって、列に(自分が)並ぶ視点と、物が並んでいるって説明するときの言葉でもあるから、こういう異常な景の句をやるときは扱いが難しい動詞かなという感想あります。
────────ササキリ ユウイチ

愛されは才能けれど沈む船

そうなのかもしれないと思う。一方でこれに気がつく人は「愛され」てる当人ではなく、それを傍から見ている人のような気もする。だとするとやっかみのような印象も出てきて味わいが深くなる。
────────スズキ皐月
まあなんて率直な。事実ではありましょうが、こんなこと言っちゃおしまいじゃなかろか。しかしこれ、作者は「愛され」という「才能」があるひとなのか、ないひとなのかによってだいぶ動きますね。あるひとなら自分への嘆きになるし、ない人なら憎しみ、あるいは悼むような気持ちも漂ってくる。
救いはそれを「船」に見立てたところにあって、「沈む」とは言っているものの、船が沈むまでにはそれなりの猶予がある。海面に見えているところからだんだん浸水、どの方向かに傾いて、ゆっくり、ゆっくり、海に呑み込まれる。この経過時間を加味して読むなら、あるひとなのかなあ、という感じは受けます。愛されそのものは海面上に見える船体、巨大かつ安泰なようでいて、その実小さな穴から水は漏れ入っている。その湿り気、冷たさ、重さを感じてはいるものの、沈むことから逃れることはできない。ただ受け止めて、沈んでいくばかり。その間の物考えの錯綜と皮膚感覚を合わせることで生きる句なんじゃないでしょうか。ここまで読む前、「愛され」は動くんじゃないかな、と思ってましたけど、動きませんね。しずかにひたひた、ひたひた迫る冷たい水の感触は、愛されの裏にしか感じられないと思う。「沈む船」を持ってきた覚悟を汲んで読みたい句です。
────────西脇祥貴
「だけど」ではなく「けれど」に一旦リズムの区切れがあるということを受け取った。じゃあ「されど」なら?、ううん。
────────ササキリ ユウイチ

ありったけの松ぼっくりをふきこぼす

秋ですね。子どもが拾うものの増える季節。言ってるうち冬ですけど。そんなのお構いなしに子どもは拾います。拾って、その一個一個違うよさにむちゃくちゃ喜ぶ。飛び跳ねて喜ぶ。あの声、あの顔、あのしぐさ。死ぬまでできるようにしておきたい。で、この句です。食べるのかな。調べると、シベリアではジャムにして食うそうです。すごい煮てる。だからふきこぼす、か。このシベリア、ミソなのかな。やっぱりちょっとかの地を思わせたい句なのかな。そう思うと、松ぼっくりにもいろんなものが乗って来ますね。難民、兵隊、銃弾、ミサイル、死体、瓦礫、地雷、核弾頭。まさに吹きこぼれている。吹きこぼれる鍋を横目に川柳しているわれわれも、当然ながら「ふきこぼ」させているひとり。なんならその鍋へ、「ありったけの」問題を継ぎ足しているひとり。ジャムになるのかな。なっていいものなのかな。ザ・イエローモンキーの歌にのっとって言うなら、それってもう……。ごめんなさい、やりすぎて軽みをころしちゃったかもしれません。ただ上の意図だとして、「松ぼっくりをふきこぼす」からかの地にたどり着かせるのは、ルートとして好きなんですけど何人ここへ入れるのか、という不安は残りました。余計なお世話でした。
────────西脇祥貴
容易に浮かぶ景に対して、いかなる事情/叙情を感じとればいいかわからなかった。ふきこぼす、という動詞の選択は些細なずれを生んでいるが。
────────ササキリ ユウイチ

ステークホルダーを前提にお付き合いしませんか

お付き合いの前に、まず利害関係やコンフリクトに準ずるようなことを確認するのはよくあることだ。この言い方は婚約のずらしなのだが、愛とエコノミーの関係のよくある類型で、「結婚」の置換の結果うまれた川柳として、パンチが微妙だったかと思う。
────────ササキリ ユウイチ
いわゆるスタート当初の"逃げ恥"的関係にして、昨今ようやく(ようやく!)当たり前になりつつある家父長制下の恋愛・婚姻とは無縁の関係へのお誘い、なんですけど、そうとらえると「ステークホルダー」のインパクトにくらべて、内容は、あれ、ふつーじゃん……と思わされるへんな肩すかし感。それを狙ってるのかな。仰々しい「ステークホルダー」による脱臼。態度の問題なのかな? いきなりこう言われるとたしかにえっ、とはなります。でも次は本質に続いてこの言い回しが一般的になる時代待ちなのかも。そして問われるべきは、きみが他人をステークホルダーと呼ぶとき想定される、利害の本質だ。ここか! ついて回るこの「利害」の不確定性が、この句のなんとなく不穏なのの正体か……。「お付き合い」にからまる情の部分を、結局それが関係性の邪魔になるなら、とはなから捨てちゃって、「ステークホルダー」としての「お付き合い」を求める……。それは、こわいか。情ってなんなんでしょう。ていうか、ステークホルダー同士になるならお付き合い、ってわざわざ言わなくてもいいのかも。それを言うあたり不器用っ! ってかわいがる道も……ないか。こわい。
────────西脇祥貴

プランク長も水くくるかも

プランク、ってから筋トレのあれかと思ったら、プランク長は別単語なんですね。しかも、むずかしい、ぞ……? なに、プランク単位って……。かんがえるのやめた。で知らなくて見るとこの単語の「長」、社長の「長」にも思えてきます。プランク長、って人みたい。その人が、「水くくるかも」。百人一首だ! ちはやふるかみよもきかすたつたかはからくれなゐにみつくくるとは……。紅葉した葉っぱが竜田川の川面いっぱいに散り敷いてキレイダナー、って意味でしたっけ。違ってたらすみません。そういうことだとしたら、川面いっぱいのプランク長であるよ……って増えた、プランク長。そういう長だとするとひとつ、なかなか拭えない連想があって、「長」も「くくる」→首を……? という不吉なにおいもします。いや、たんに長が川に手を突っ込んで、水を蝶結びにしてるだけかも知れませんが。とここまで考えて振れ幅が広すぎるか、とおもうと、やっぱりプランク単位のこと、考えなきゃいけないのかなあ、という気もします。でも改めて見直してもわからなかった。とすればこれ、考えちゃダメ句、か? にしては「プランク長」も「水くくるかも」もだいぶレートが高い(©穂村さん)単語になるから、読み手を選びそう。そこが狙いだったのかどうか、はたして……。
────────西脇祥貴
プランク長はメシアニズムっぽいし、俗的だから、あんまり良い句にはならないだろうって、古典を持ってくるところにちょっとずるさがある。
────────ササキリ ユウイチ

読点を置いてお茶でもしに行くか、

ああこの読点のあとで席を立って、ほんとにお茶でもしに行ったんだろうなあと心地よい区切り。本来はこの読点のあとで、まだ文章が続いて句点を打たなきゃならないのですが、この読点で終わる句はここで一区切りするか〜という気持ちが素直に表されている。ふっと何かの合間に挟みたくなる句です。
────────城崎ララ
これ、現実でやりたいけど、うまくできない。言葉だからできる。小説でも難しいだろうな。定型詩、というか川柳だからできる感じがする。
────────ササキリ ユウイチ
川柳と作り手がいる現実をつないでるのが面白い。これはそのまま作り手と読み手の世界もつないでいる感覚を覚えた。
────────スズキ皐月
末尾で読点がいてはぶられてる読点がかわいそうという読みと、気障なナンパという読みができるけど、どちらにせようまいとおもった
────────公共プール
句の試みとしてもおもしろいし、成功していると思いました。読点も、お茶でもしに行くことも、中断という意味で親和性があります。その親和性こそこの句を納得できるものにしているのかもしれません。
────────松尾優汰
置いた! となる読後感。この句のあと、お茶をしに行くようすが書かれていないのに続きます。句のあとの空間・時間を拡張させようという試み、は、いいんですけど、うーん、もう一声という気持ちになるのはなぜ。お茶しに、がイベントとして弱いのか? 置くもん読点しかないんかい、というのはおもしろいし、置いた人にとって読点がどういう意味合いのモノなのかなあ、という想像が膨らむのはいいんですけど……。これ句点(。)だったらどうだったのかな。
────────西脇祥貴

だだっ広いのだだは鬼の子

ダダはたしかに鬼の子だったかもしれない。「だだっ広い」という語から「だだ」を拾ってきたところが面白い。そして「子」であるゆえ「駄々っ子」とも繋がってくる。言葉遊びのなかに、ダダイズムの再評価がある。僕はシュルレアリスムよりダダイズムの方が川柳の道にふさわしいと直感するのだけど、それは余談。
────────二三川練
〜の××の部分、の発展で、その発想自体はこんにち的にも面白いとは思いつつ。
────────ササキリ ユウイチ
音から光景を思わせると言う意味で行けば、「だだ」じゃなくて「だだっ」までが一区切りかなあ、という気がします。そのうえで「だだ」のみを切り取る、というので、より手術み(なにそのみ)が強い句になってます。鬼の子なんだ。駄々~ダダイズムまでをいちどきに俯瞰、そこからなだれ込む「鬼の子」。鬼の子、あらためて引いてみると、なんか結構いろんな意味があるぞ。鬼の子だとみのむしの異名だそうで、鬼子だと、① 鬼に似て異様な容貌で生まれてきた子。多く歯、または髪が生えて生まれた子にいう。② 鬼のように荒々しく強い子供。③ 両親に似ていない子。比喩的にも用いる(以上、コトバンクより)。どれかなあ、と思うものの、たぶん鬼子の意味のほうに近いんじゃないでしょうか。「だだ」の使われ方や音感からこの意味につなぐのは分かる気がする。そうやって「だだっ広い」の既存の把握をずらしていく。
ところでこの「だだ」ってほかにも使われてるんでしょうか? だだくさのだだ? だだ茶豆のだだ? だだっ広いの一例しかないとすると、「鬼の子」といいきる根拠がうすいようにも思えました、が、そこじゃない気もする。でもせっかく言い切ったので、ほかの例も見たいです。
────────西脇祥貴

生き延びるたびに去っていく羽毛

のびのびの七七、という読み心地の句です。これはからだから抜けたのかな。それとも西部劇のタンブルウィードみたいに、生き延びた、という実感のたびにコロコロ……と固まりで去って行くのかな。せっかくなので抜けたんだと読みたいです。去る、には自分から、という起点がうっすら(しかもさみしげに)感じられるし、とすれば主体(……そもそも人間、なのか? 句をなしているから、という前提でことばをつかうもの=人間だと思っていますけど、それもどうなのやら)にはもともと羽毛が生えていることになるのは画としてもおもしろいです。あるいは概念としての羽毛(あたたかさ、やわらかさ、安心感エトセトラ)が失われるという暗喩なのかも知れないけれど、それ+実際に羽毛が抜ける光景を描けるから、川柳にしといて倍お得な一句。あと状態としての「生き延びる」を「たびに」とすることで、一回性の動作っぽく数えているのも目を引きます。いや、それだけたくさん生命の危機にさらされている、と読めなくもないですが、むりくりそんなダイ・ハードにしなくても、日常にそういう区切りを入れて把握してるんだ、そんなひとに羽毛が生えてるんだ、そしてそれは去ってしまうんだ、と思えるだけで十分詩的。……てか生き延びるたびに羽毛が抜ける……ダメージエフェクト? なんて、ここまで掘れるものが入っていたらもう大満足。
────────西脇祥貴
生き延びる、をたかだか羽毛が去る程度と読むべきだろうか。「そうじゃないだろう」、という皮肉さを読み取る証拠をどう集めていいか掴めず。
────────ササキリ ユウイチ
こちらも(「も」というのは、先に「ザ・ドラえもんズに会える風俗」の評を先に書いたからです…)ノスタルジーの句なのかなあと思いました。でも、こちらは「エモさ」に通じる懐かしさというよりももっと切実に映るものがあるような気がします。自分の身体を守る毛は、死への距離が近づくほどに役目を終えたとばかりに抜け落ちていく。極めてスタンダードな死へのプロセスなのですが、死からの距離ではなく生からの距離を取り上げているのがいいと思います。それでいて生き延びることをそんなにポジティブだと思っていない感じも。去っていく羽毛でできた道筋をなぞりたいと思いました。
────────毱瀬りな

LaQの 誰とも繋がらないパーツ

あったなあLaQ……。平たいプラのパーツをくっつけて造形するおもちゃ……。レゴと違って、平面に段差なく組み上げられるんですよね。それで中空の立体がつくれるという。レゴだとパーツの下にしかほかのパーツがつなげられないところ、LaQは横へ横へ、複数の方向につなげられる。そのぶん、広がりという意味ではレゴ以上のものがあるおもちゃのはずなので、「誰とも繋がらない」が効いてきます。一字開けがあじわいぶかいです。ためらいなのか、「誰とも繋がらない」を思っていても言いたくないのか。これはなにのことを言ってるんでしょう。自分なのかな、それともほかのなにかを喩えて……? なにを喩えたか、に意識を置きつつ読むと、どんどん見逃せなくなる句です。ほんとになんだろう(ちなみにばっちり十七音)。
────────西脇祥貴
哀愁を感じるなあ……というのが第一印象です。ぼっちのパーツがおぱんちゅうさぎみたいで可哀想に!という同情心が湧きました。次に、謎の語句LaQをググりました。どうやら子供の知育玩具らしいですね。その上で句に立ち返ると、全く違う情景が浮かび上がります。私は、本句は保護者目線の句ではないかと推測します。LaQで遊ぶ子供が、何故か1つのパーツだけ離れて置いている。忘れているのかと思いきや、どうやら子供なりに意味があるらしい。そんな子供の不可解さと愛おしさが感じられる句だと思いました。
────────南雲ゆゆ
パズルと言わず、LEGOとも言わず、LaQである文脈がわからなかったのと、一字開けもわからなかった。フェミ系の文脈で読む確信を持てず。
────────ササキリ ユウイチ

まゆげには花野と水辺だけです

「生き延びるたびに去っていく羽毛」と音数は同じなのですが、こちらはつくり上七七とは取りにくいです。じゃあ、と五七五で読むと、さいごがぷっつり切れてしまう。これが狙ってなのなら、どちらかというと牧歌的な句の内容をすとーん、と切って落とすような効果でもって、不穏さをまといつかせられます。が、ねらったのか……? ねらったにしては、句部分がわりとのんびりしゃべっているように見える(まゆげ、花野、水辺、というチョイスの効果あり)+です終わりなのでとりあえず文として完結している=ぷっつり感がうすいように思えます。あと一音いかようにも調整できそうなものを、欠いたままにした意図は気になります。内容はいかにものどか。唾つけたりしちゃうとこなんですけど、花野と水辺。まゆげをひらがなにしてあることで、なおのことのどかな空気です。と、こんな額面通りの読みでいいのか……? 気になるのですが、べつにあらゆる句にうがちを期待しなきゃいけないわけじゃなし、まゆげのアールを浜辺に見立てて、のんびりするための句、としてもよし。主体はまゆげに花野と水辺だけですが、ひるがえって自分は……? と思い返すも良し。にしても、誰に聞かれてこう答えてるんでしょうね。なにか隠してるのを疑われてるようでもあり……おお、出て来た、不穏さ。だとしたら、花野も水辺もその引き立て役になります。牧歌的な世界が尋問によりこわされんとするまさにその時を切り抜いた句。なんて、本当は読みたくない気もします。でも一度そう気づくと、いやでも目立ってくる「だけ」……。この花野と水辺は、どうにか死守されて欲しいです。
────────西脇祥貴
作品の名前すぐに提示できないですけど、例えば絵画・イラストでは、動物でも、人の顔でも、植物の集合体で描くことってありますよね。花とか草とかを花束みたいにする表現方法。それにつられてしまって、まゆげの部分はまあ花野と水辺かあ、くらいにしかとれなかったです。あとは、例えば「だけです」の4音よりも、「まゆげには花野と水辺」の5・7だけならもうちょっといいのかも、などと考えてしまう。
────────ササキリ ユウイチ

シケモクは標準語ではすまし汁

ぜんぜんそんなことはないし意味を取るのも難しいのだけど大事なことを言われてる気がして面白かった。「標準語」のところに政治性も感じられて気になって考え続けてしまう。
────────スズキ皐月
ぜったい違うのに、そうなんかな…と思ってしまう気持ち悪さ。標準語へのそこはかとない蔑視。すまし汁が絶妙です。
────────佐々木ふく
シケモクって俗な言葉ですよね。なので、方言(↔標準語)ではないかなという突っ込みがひとつ。すまし汁ではないでしょ、って突っ込みがふたつめ。ふたつめの突っ込みは川柳として面白いのだが、ひとつめを面白がれるかどうかというと微妙と感じました。俗語の対義語が雅語なので、だとすれば「標準語」には正しさのプレッシャーという文脈があって、ととれば、この句も少し読めてくるかもしれないですね。
────────ササキリ ユウイチ
問答体に触れるときの反応は大きく分けてふたつ、「うわっっっ!!!!!」か「そうか?」。AはB、と図式化するとして、経験上「うわっっっ!!!!!」のとき、AとBの踏み込み度合いの比は、A:B=2:8か3:7かなあ、と思っています(この比をあえて4:6、あるいは4.5:5.5にしておいて、さらに畳みかけることで異次元へかいな捻るのが、"妖精は酢豚に似ている絶対似ている"でしょう)。そして言うまでもなく飛躍そのものの構造である問答体は、AとBの二つがじかに衝突することによって、大きなエネルギーを生み出すもの。ふたつ、というのも大事だと思われます。そういうわけで、この句を最初見たときの反応は「そうか?」でした。A:B=4.5:5.5くらいだし、AはBでなく、AはCではB、の形。ひとつ迂回している。こんなに差が出るか……とあらためて問答体の切れ味、こわさを思い知らされました。とはいえこの形はないわけではない、というのも、シュルレアリスム永遠のキーフレーズ「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶然の出会い」が、まさにこの形にそっくりです(CでのAとBの出会い。……現代川柳にしこたま触れた今引用すると、物足りなさすら感じますが……)。とはいえこの歴史的フレーズが冴えているのは、圧倒的に明快な視覚イメージを呼ぶから。それとくらべると、この句は視覚的というより聴覚的なようです。しかもシケモクはある種の専門用語なので、その界隈のひとがこれを聞いたら効きそうですが、そうでもない人、端的に吸わない人が聞いてもおなじだけはまるかというとそうではなさそう。もう一声ほしくなってしまった……離れた語ではあると思うんですが……。
────────西脇祥貴

みをもちくずしたくずもちたちも悪

リズムに乗せると、かえって意味に注意が生きますね。構造的には「悪」という感じに目がいき、次に「みをもち」にいく。みをもちがくずもちのおかげで語の裸の意味にひっぱられることに成功しているので、むしろ「悪」で再度連れてかえってしまっているのがもったいなく感じられました。
────────ササキリ ユウイチ
早口ことばか! 「くずもち」を分析分析しつつ口に出してみてできたのかなあ、と思うとそのでき方も含めてたのしい句です。ぷるぷるでキュートなくずもちなのに、身を持ち崩すなんて。現代社会ハードすぎのスケッチみたいにも読めます。たったひとつ気になるとすれば、最後の「悪」。あく、かわる、どちらかの読みだと思うんですけど、ここだけ語呂がくずれていて、前のころころした音はこびがあんまりいいので余計気になってしまいました。しかもここだけ漢字。意味上の押さえは効いてると思いますが、余計に音のうえでのことが引っかかる。いいからこそ気になる。なにを入れたらいいかとっさに言えないですが、前の「たち」に合わせてai音、または「ちも」に合わせてio音の単語が入ると最後まで転がるのでは……ってそんな都合のいい単語、あるのか?
────────西脇祥貴

袖ぐりに括り付けてるミサンドリー

ミサンドリー=男性嫌悪。なるほど……たしかに服の装飾にありそうな語感です。『ソーイング・ビー』に出て来ててもおかしくない。こういう、意味を調べたらぐっ、となる単語を使う句、ビー面では何度か見かけた気がしますが、語感のありそうなところを狙ったのが、いろんないい効果を生んでいる気がします。まずするっと読める。ミサンドリーがなにかわからなくても、いまも予測変換に出ましたけどミサンガとか、カドリールとか、服飾の単語にありそう、と思わせることでとにかく一行が明快になります。「袖ぐり」の指定が絶妙で、このために服の飾り、という想像が、音と共に強化される。すると見知らぬ飾りゆえ、どことなくゆたかな雰囲気が句にそなわってきます――飾りのゆたかな服、たとえばロリータファッションを思い浮かべると、ふわふわと、膨らみのある陽性の気配を句はまといます。だからこそ、ばっちり読み手を引っかけられる。服の飾りとかだとしたらあまりにそのままだし、なに? と思ったらもうミサンドリーを調べるしかない。この誘導の巧みさ……! で、ドボン。気づいたときには喉笛にナイフです。この、調べて意味を知った瞬間からナイフが当たるまでのスピード、そしてナイフの切れ味。真剣な句なのですが、ほれぼれしてしまいました。意味や経緯はあえて深掘りしません。芯にイズムがあるのですから、それで十分。かっこいいです。特選となやましかった。。。
────────西脇祥貴
時節柄サッカーのキャプテンマークのこととして読んだが、それが作者の意図かどうかはわからない。他者に示すマークとしての「ミサンドリー」の意味を考させられた。
────────小野寺里穂
襟ぐりに括り付けてる、までで57を使い切っている。だとすると、この句のかなりリスキーな賭け金はミサンドリー(ミサンガではなく)のみなのだが、さてどうなるか。
────────ササキリ ユウイチ

公共料金はどんぐりで支払えます

秋は貯蓄の季節、栗鼠と競争
────────城崎ララ
どんぐりを通貨にしているのは多分子どもたちで、公共料金はすごく狭い子どもたちのコミュニティ内での制度なんだろうな。なんでどんぐりなんかをって思うけど我々も紙なんかを大事にしてるのは不思議なわけで、案外大人もどんぐりでやり取りしても何とかなるかもしれない。
────────スズキ皐月
松ぼっくりにどんぐり。いよいよ秋めくビー面句会11月です。かわいらしい、ままごとでしょうか……なんて手に乗ると思うなよ……。「公共料金」。こんなシビアでブルーでファ××ンブルシ××な単語が出ている時点で、おだやかに終わらせるつもりなんかはなからないでしょう。電気代。水道代。ガス代。電話代。家賃。税金。年金。保険料。自動車税。ああ。もうこの句がファンシーであればあるほど、そのニコニコの裏にあるはずの真っ黒いなにかがみえてみえて仕方ないんです!……という受け止めになるのは、西脇のメンタルの問題でしょうか。しかし皮肉といえば現在これ以上の皮肉もなく、まして発話者の年齢によってはその色も大いに変わってくるというおまけ付き――子供だとしたら、おままごとに「公共料金」という単語が入り込むディストピア感。大人だとしたら、真顔でこれを言われたとしてみてください、サイケな悪夢でしかないですよ……。八方塞がり。どうしたらいい? そ、そうか、そうだね、まずはどんぐり、拾わなくちゃ。
────────西脇祥貴
子ども向けの絵本として読むか、メルカリとして読むか。
────────ササキリ ユウイチ
ちょっとかわいすぎた。
────────雨月茄子春

鳥葬は鳥の葬式 本調子

これは良い句だと思いました。ライムははまっている、が実はそんなことどうでもよくて、鳥葬のまちがいに良さがある。
────────ササキリ ユウイチ
抜けがいい、ってこういうときに使いたいですね。五七・五の分け方もほんとすこーんと抜けてますし、鳥葬を「鳥の葬式」と言い切る頭のやわらかさもまた好もしい。で、どうよ? って聞いた答えが「本調子」。言うことなしです。この軽み。こっちまで本調子になっちゃう。空がー、青いわー♪もう一筋、「鳥葬は鳥の葬式」というちょっと冷たい断定の調子を汲んで、洗脳の句と読んでもやっぱり抜けはいいです。ダルな低空飛行の飛行機雲が、句の芯をざーっと抜けていく感じ。しかも洗脳のはずなのに史上最ダルな「本調子」が来て、しかもしかも「鳥葬」の"ちょう"とぐにーっ、とダルに韻を踏んでいるので、なんか洗脳でもいい感じになっちゃう。こんな気持ち、はじめてー♪ だめなんだけど乗っちゃうダル。ここちよいダル。もっとほしいです。……ここまでダルダル書いておいてこうげつきゅんじゃなかったら、ほんと感動して画面の前で手ぇ叩きまくりますよ……。これを特選にする道もあったと本気で思っています。
────────西脇祥貴
ご機嫌なリズムがよかった。このリズムで内容が難解だったら嫌だけど、ちょっとずらす(鳥葬は鳥の葬式ではない!けどそんなに本気で言ってないだろうからOK)くらいで、言わんとしてるのは「このノリノリなリズムくらい調子がいいぜ!」だと思うので、気持ちよくこちらも乗れて楽しみました。
────────雨月茄子春

禁忌の子産まれなおして禁忌の双子

うんうん、ってうなずいちゃいました。うんうんうん! これ、これだ、このうがち!! 川柳にだけできることが、ここではばっちりやられてると思いました。「禁忌の子」といういかにも単語を置きまして、そこから生まれるだろう(と詩人(笑)さんは期待するだろう)ドラマのいっさいを、「産まれなお」させることで速攻ごみ溜めにぽい! する。この速さ。ある時期のおちびさんが、手に取ったものを速攻ぽいする、あのスピード。この時点でもうちょっと笑っちゃいます。これだけでもそうとう愉快なのに、その結果出てくる「禁忌の双子」! ふえた!!! "ふしぎなポケット"か!!!!! さらっと世に禁忌を増やしちゃう手つき。世の中なんかしーらないっ、他人の決めた禁忌なんかしーぃらなぁいっ、とばかりの傲慢さ。いい、そうでなくっちゃ! もっともっと、わがままであれ!!!!!という態度の問題と合わせて、つくりのことも指摘しておかないともったいないでしょう。じつにスマートなこのつくり。「禁忌」なる意味も字面もごてごてした単語、その割に読みが回文というリズムの作りやすさです。それに気がついた作者さんはくり返すことで、見た目はゴテゴテなのに声に出すと笑っちゃう、見事な二重性を句に持たせています。すごいユーモア。ここまでの深さでユーモアを放出できたらもう言うことないです。特選です。
────────西脇祥貴
律儀にやり直しているところがおもしろかった。一度産まれて村長「ああっ……禁忌の子じゃ……」村人A「石投げてやれ!」村人B「この村から出てけ!」の流れをやった後に、禁忌の子があっけからんと「ほな産まれ直しますー」言うて産まれ直したら双子なって出てきた。村もずっこけますわな。(前提として、「村」のはなしですよね?)
────────雨月茄子春
もっと酷いことになっている感じが言葉の重さとのギャップもあり笑える。直感的にソシャゲにおけるリセマラの感覚でこの句を捉えたのだが、「産まれなおす」という感覚は昨今のなろう系ファンタジーの台頭も相まって、人々に馴染んでいるのかもしれない。
────────二三川練
読んだ瞬間「ダメじゃん!」と笑ってしまいました。「禁忌の子」という因習的な単語が使われている一方で、産まれなおせるという設定が、喜劇性をもたらしています。ドラマ『TRICK』にありそうですね。しかも産まれなおした結果「禁忌の双子」というさらに悪い方向にいってるのが良いですね。双子は不吉なものとして忌み嫌われるのは因習あるあるですから。しかし双子が実は生きていて世界へ復讐を果たすのもまたあるある。今度は産まれなおさなくて済むかもしれません。禁忌の双子に幸あれ。
────────南雲ゆゆ
説明できないけどいいと思います。川柳はよく生まれなおしますが、うまれなおしすぎて(簡単な変身方法すぎて)扱いが難しい。禁忌もなんなら難しい単語(川柳自体が往々にして禁止の性質を帯びるから)。でもこれは、なんか面白いですよね。
────────ササキリ ユウイチ

世襲制からはみだしたのどぼとけ

これもザ・川柳のずらし方です……なんかほっとします。いい意味で、です。『はじめまして現代川柳』の、1~2章に載っていそうな安心感。要素が多くない+飛躍が適切なのがいいんでしょうね。「世襲制からはみだした」+「のどぼとけ」。シンプル。そしてちょうど映像の想像できることばの選び方。いまや衰退しつつあり、ファンタジーのようになりつつある世襲制から、なぜかのどぼとけがはみ出している。なぜかはわからない。わからないがゆえ、しーんと凪ぐ。のどぼとけと静寂。なにもないのになにかある。まさに現代川柳の利点が、ここに。ただちょっと、うまいなあというか、粗がないところが粗になりそうな気配があります(のどぼとけに読み切れてない含意がある可能性は、じゅうぶんあります。ほとけ、ですし……)。
────────西脇祥貴
川柳的発想の類型のひとつで、体制から逃げ出すことがある。これもあからさまにそれだとまず感じた。「ぼとけ」とか、あるいは少しひねって林檎とか、東にしても西にしても深すぎる歴史を感じてしまうのだが、そうなったときに、浮いているけど連続な首の皮の中にあってぽろっと取れそうってわけでもないのどぼとけとどう折り合いをつけてイメージさせるかがカギなのかなと思った。
────────ササキリ ユウイチ

愛してる ブラックホールになったのね

うーむ、愛してる、プラス一字空け……。ちょっと万能すぎないかなあ=あとになんでも呼び込めすぎないかなあ、と警戒してしまいます。そしてそのぼんやりした「愛してる」に続けるにしては、「ブラックホールになったのね」もぼんやりしているような(中八のせい?)。いっそ連作中の句なら、と思うのは、前後の脈絡を求めてしまう=自立してないことの裏返しでしょうか。もちろんしてなくてもいいんですけど。でも詰めるとしたらこっちかな。ブラックホール……星が死んだ後になる姿、耐えられないほどの重力で潰され果てた姿。なにもかも、光も呑み込んでしまう強欲の顕現。に、なっちゃった、というところから物語を呼びこめそうです。過大な重力を通奏音にして……ここで気持ちとか心のようなぼんやりしたものでなく、人そのものがブラックホールになっていたんだとしたら、変身譚としてのスケールはばつぐん。でもそこに「愛」がからんでいるのだとしたら、やっぱりもう少しディテールがほしいです。関係性や気持ちについて、選択肢が広がりすぎるので……。
────────西脇祥貴
上の「愛してる」と一字開け、中の「ブラックホール」、下の「ね」、どれもが弩級にデカく、近すぎた。
────────ササキリ ユウイチ

おっと危ない他者がボールを蹴っている

(知らない)子どもが、でも男が、でも、他人が、ですらなく、他者。この文脈であれば、自分以外の誰かがボールを蹴っていることは明白なのに、あえて「他者」という言葉を使っているところに、妙な冷静さを感じました。そもそも「おっと」なんて、本当に慌てていたら言わない気もします。本当は、危ないなんて思っていないのでは…でもわざわざ危ないと他者の行動を指摘する…そこにある本当の危険って何なのだろう…そんなことを思いました。
────────佐々木ふく
W杯とナショナリズムの句と読みました。タイムリーですし。国の代表はあくまでも他者なんだけど、ついつい夢中になるのを自覚して「おっと危ない」と一歩引いてみる。そういう態度がユーモラスに表現されています(日本VSコスタリカ戦を視聴しながら)。
────────南雲ゆゆ
わりとストレートな危機感を工夫して言っているかんじの句かなあ、と。となると、突っ込みどころがいっぱい。①「おっと危ない」のか。②「他者」はいわゆる詩的な話のときの「他者」なのか。③サッカーなのか、サッカーじゃないのか。①はもはやあらゆる領域に他者の流入があるあるになっている現在、危ないと思うことすらもうあるあるなので、ほんとにそれは危ない他者の入ってきかたなのか? というところに引っかかります。他者、だけだから余計そう思うのかなあ。ただただ危ないものと思えないというか。②はつまり私性の逆みたいなことなのかどうか、ということが言いたいんですけど、たんなるstrangerみたいに取った方が句はおもしろく見えるかなあ、なんて。③、ねえ。野球かも知んないよねえ。蹴ることが状況を支配するスポーツなのかどうかによって印象が変わってくるわりに、なんらその指定がないあたり、開けてておもしろいです。むしろサッカーじゃないと思いたい。句意(めいたもの。作者さんはそれを言いたかったのか、どうか……)は捨てて、なんかよくわからんけどボール蹴ってる句だと思えば、こんなに書けるくらいおもしろいです。
────────西脇祥貴
おっと危ないというとき、必ず自分以外の誰かがボールを蹴っているのは当たり前なので、当たり前のことを言ったときにどのような効果があるのか、という話だろうか。
────────ササキリ ユウイチ

ノーノアノーライフ

ノアの箱舟のそんな言い方ある!?っていう短縮だ。コメディ作家の台詞ストックノートの書いてありそう。いわゆる「ノア句」
────────ササキリ ユウイチ
この間のぱぴ句会のせいで、プロレスの句なのかと思ってしまいました。あ、この間届いた『川柳スパイラル』16号で、川合大祐さんが「NO JIUJITSU(おそらく柔術), NO LIFE」ってスウェット着てたせいもあるな。なのでノア(プロレス団体)支持者のスウェットの文句なのかな、と思ったけど、まさかにそれだけで出されたとは思えないので、もう少し……。といってもあと思いつくのは聖書のノアくらい。方舟の。動物のつがいを集めた。そしてたしかに聖書どおりなら、ノアが方舟をつくってくれてなければ、いまこうして人間がいることもなかったからまさしくノーノアノーライフです。……ほんとに? だってノアは動物のつがいたちの中からさらにつがいを選んで載せた選別者で、そもそもノアと家族も神様に選ばれた一家で、となにか優生思想めいた不安がぬぐえません。杞憂かなあ。そうやってじーっと句を見ていると、ノの字とーが波のように見えてきて、「ア」「ライフ」が海に呑まれる図が想像されてきます。そういうことなのか、な……。
────────西脇祥貴
実家の車がノアなので、ほんまやな…と思ってしまいました。ノア違い(ノアの方舟?)かもしれませんが、つい…
────────佐々木ふく

墓地の、一番あたたかい土まみれ

できたてほやほや、ほかほかの死体だ……。「墓地の」の三音で静かに溜めて、何が出てくるかと思えば直球の大喜利が出てくる、この順接な感じがいいと思った。
────────雨月茄子春
「墓地」と、「あたたかい土」。それも「一番」。今回全句評するに当たって、句を見て出て来たことをとにかくひたすら書いてきたのですが、これにかんしてはむしろ、あまりたくさん言いたくないです。「一番あたたかい土」の温度、それがすべて。それにまみれて、温度を感じることがすべての句ですから、ことばでうんぬんするほど野暮になりそうです。温度を句にしてしまうところまで、来たんですね……。作者さんが分かりそうな気もするのは句柄のせいだけではなくて、ここに乗っているあるものの、それこそ温度のおかげでもあると思います。ビー面も始まってもうじき一年。何度も言っちゃうけど、ここまで来たんですねえ……。いつもなら特選にするところです。
────────西脇祥貴
句読点が速度を持っている、はやすぎる、このはやさに対して色んな角度から一考の余地あり、と思った。
────────ササキリ ユウイチ

平成じゃ見られなかった討ち死にやん

漫才のツッコミの台詞として読んだ。「討ち死に」は基本的に昔の概念なので、「平成」より未来である現在で見られるというのが面白い。面白いが、政治や差別の暴走が悪化し続ける現在においてはこんな「討ち死に」もあるかもしれない。川柳と冷笑の接近について考えさせられる。余談だが芸人のアンタッチャブルは柴田がツッコミワードを作りそれに合わせたボケを山崎が作るという遊びをしていると聞いたことがある。山崎ならこの句のようなツッコミを引き出すボケを作れるかもしれない。
────────二三川練
平成の先の、おそらく令和の、近い未来では、討ち死にが行われるようになっている。それだけでも怖いのに、行うほうの(おそらく)必死さに対して、傍観者たちは、「討ち死に見れたやん」くらいの軽さ。あるいは、「討ち死に」が、今の私が知っている討ち死によりももっとカジュアルになっているのかもしれません。どちらにしても、怖い一句だと思いました。
────────佐々木ふく
なんやそれ!ってにやけた。にやけさせたからもう勝ちでは。
────────ササキリ ユウイチ
令和やから見れるようになったいうこと? あるいは戦国自衛隊みたいなこと? あるいは仮名手本忠臣蔵初見なん? 「やん」がええやん、軽くって。軽く「討ち死に」を相対化して。モブキャラの軽み、てしたらあたらしいんちゃう? しらんけど。討ち死に言うたら討手と討たれ手がおるわけやけど、そのそれぞれの来し方思えば、現代とのミスマッチが増して居心地わるなって、なおええんちゃう、しらんけど!
────────西脇祥貴
令和の討ち死に、平成の討ち死に。もしかして大河?
────────城崎ララ

首に頭部を縢った黒を訴訟せよ

かがった、ってこんな字書くんですね、というのがファーストインパクト。首、頭部、縢る、黒、訴訟、せよ、要素、多いな……がセカンドインパクト。今年できた川柳っぽくないな、がサードインパクト、な句でした。サードはマイナスの意味ではなく、かっちりしていて重みもあるのがいい、という意味です。ただ、ここからはかんぺきに個人の好みになってしまうのですが、こういう耽美に近寄る詩、苦手で……。これを川柳でやる意味とは、と思ってしまいました。この句で言うなら、あえてかがる、を漢字にしたところや、訴訟の対象が「黒」であるところなど、読み手をどうしたくてやったのかなあ、と首を捻ってしまいました。ほかの方の読みを待ちたいです。あるいはこの方向性を煮詰めて(要素だけは絞った方がいいと思われます)連作にするなら、そこになにか、これまでになかった色味が、あらわれるかも……。それか逆か、要素まみれの連作がいいのか……。
────────西脇祥貴
まあ人形なのだろうか、とまず読める。その主体が黒って、あからさまにダークな雰囲気で、訴訟せよと被ってしまっているかもだから、下5は動きそうな気がする。
────────ササキリ ユウイチ

ザ・ドラえもんズに会える風俗

ザ・ドラえもんズと呼ばれる風俗嬢たちがいるのでしょうか。最近ドラえもんズ見ないな〜と思って調べてみたら、ドラえもんズの映画は95〜02年に製作してたらしいです。ドラえもんズにはもう会えないんです。当時ドラえもんを見ていた子供たちは今、2、30代ですか。私と同世代ですね。そして風俗でドラえもんズになる/に再会する……あの時代は良かった、日本は豊かだった……哀しき大人たちが束の間の快楽に見出すノスタルジックな優しい世界。いや〜しみじみと良い句ですね、なんだろう、涙が……。
────────南雲ゆゆ
「ザ・ドラえもんズ」と「風俗」という二つのノスタルジーが邂逅して手を取り合っている句なのかなあと思いました。この場合のノスタルジーは、単語そのものから喚起される力があるというよりは誰かが貼ったノスタルジーというラベルが何度も反芻されるうちに単語の方が乗っかって自然とそういう顔をするようになった、というイメージがあります。今、特定のモチーフに付与される「エモい」にも通ずるところがあるような感じ…(ぼんやりとしていてすみません)気になるのは、子どもの頃にドラえもんズをリアルタイムで見ている世代と風俗(風俗って、漢字で書くことでノスタルジー的な概念が立ち現れるものだと思っています。昔は栄えていた繁華街の、もうネオンのつかない無駄にでかいソープランドみたいな…)にノスタルジーを付与できる世代には微妙に、というかけっこうなズレがあるのではないかということです。意図的にずらしたのか、そもそもノスタルジーで作ろうとしていないのか。でも、「ザ・ドラえもんズに会える風俗」というのは、そもそもそういった時間や次元の狭間にある小さな裂け目の中に侵入しなければ行くことができない場所なのかもしれません。そう思うと、寂れた風俗がこれ以上ないほどスマートな場所に見えてくるのが面白いです。一方で、この句に限らずノスタルジーを喚起する=現在の価値観に見合わず淘汰されていった特定のモチーフを正負どちらの感情で詠んで/読んでいくかはまだまだ難しさが残っていると感じました。ザ・ドラえもんズも今同じことをやろうとしても絶対できないし…みたいなモチーフなので。仮に詠み手がモチーフそのものへの批判点とそれに感じる正方向のノスタルジーを別物として作句していても「ベタ」な読み手だとそれに追いつけないのではないかなあ、とか。自分で作ろうと思っても答えのあるものができるとは思えないので、ひとまずここは問題提起…!みたいな感じにしておきます。笑
────────毱瀬りな
もう……ばか……っ。。。(褒めています)これなあ、ザ・ドラえもんズの各メンバーに会える、じゃなくて、総体としての「ザ・ドラえもんズ」という概念に会える、っていう意味だったとしたら、行ってみたいなあ。しかもいつ会えるんだろう。前室? 本番の最中? まさかザ・ドラえもんズといたすわけにはいかないでしょうしいたしたくないですし。でもだれがうまいのか、だれが人気なのかは地味に気になります。王ドラかな。ドラニコフかな。そしてそもそもね。会えてどうなんだ、と。そこも含めて最高です。きっとビー面以外では見向きもされないだろうな、という予感も含めて。ここへ出してくれてほんとうにありがとうございます。
────────西脇祥貴
全然実在してもおかしくないけど、高そう。高い中では安い方の高いやつ。
────────ササキリ ユウイチ
事情があるだろうに
────────公共プール
風俗をどう捉えるのか難しい…けど、ザ・ドラえもんズには会ってみたい…
────────佐々木ふく

東京駅に差す水色の葱

私はこういう句が好きな傾向にあります。どうでもいいような場所の固有名詞が入ってきて、それが上に七音で置かれている韻律が好き。水色の葱という想像は容易だけど適度に気味悪い。東京駅がでかいし、筒状でもないから微妙に変でそこが面白い、と読めるのは「刺す」やひらがなではなかったからでしょうね。刺すだと、東京駅のどこかに不発のミサイルみたいに刺さっている景がきてしまう、でも差すだと、生けているんですよね、というが水色という爽やかな気持ち悪さとともに深まっていく。
────────ササキリ ユウイチ
葱の花がわりと好きで、アリウムなんか色とりどりだから実際に水色もあるのだろう。それに限らず、あえて「差す」という生け花のように設えようとする主体の美意識がこの句の腰にはあって、買い物袋からはみ出る長いネギの緑色の部分の青さから飛翔するように、単なる色彩の綺麗さよりもひとつ上の階層の美を見出だしたようにおもうのです。東京駅と葱、という字面を並べると単に物体の大きさの違いから、駅なみに巨大な葱や、花器ほどの駅を想像してしまうけど、そうせずとも、巨大で多くの人たちがさまざまな感情と欲望を伴って遠くへ行くために忙しなく脈動している場所に、水色の葱がそそりたっている様子は深い意味付けを拒否するようでもあって、かっこいい。そして、そこが東京駅という地方を結ぶ場所というのも、トーホクの裏日本で暮らすわたしには赴き深い。葱が美味しい冬の時期というのは、とりわけ日本海側が雪に鉛色の雲に押し潰されるような空気と空だから、関東平野のあきれるくらいの青空の色をこの葱の水色に見た気がした。それに普通にこういう造形や彫刻の展示あったら見たい。正直、川柳として惹かれているのかわからないけれど、これは美しいものだとおもう。
────────公共プール
水色がいいですね、プラスチックな風合い。シースルーでさえありそう。ネギって系統で言えば水色のはずなのに、ここまではっきり「水色」と言われると、すっぱり人工的に見えてくるんだなあ、という発見です。大きな景なのがなおいい……大きな景ですよね? 丸の内駅舎の上からずどーん、って刺さるイメージなんですけど、窓に刺すとかもあるのかな。鍵か釘のようにずどーんと打ち付けるくらいのスケールで読みたい。現代美術っぽく。あとは水色(シースルー)の葱に、なにを込めたか、か。水気かな。そこを開いておいてくれたのはありがたいです。そしてなんかありそうな色としての「水色(シースルー)」、ポップでいいです。シースルーはもうこちらの勝手な指定ですけれども。
────────西脇祥貴

酢豚からbanされちまった、夏なのに

酢豚のパイナップルはアリかナシか?酢豚からパイナップルをbanするつもりが、自分が酢豚からbanされちゃうシーンなのかなと思いました。しかも夏ですよ。愚かな人類という趣があります。
────────南雲ゆゆ
さてはパイナップルだな……と思った。「夏なのに」が効いてますね、酢豚にパイナップル入ってるのは好きじゃないけどサラダに林檎が入ってるのは好きなのでbanされたパイナップルにも新天地を見つけてほしいです。
────────城崎ララ
まあ川柳ではもう酢豚は絶対ですからね。
────────ササキリ ユウイチ
妖精が似ているタイプの酢豚でしょうか。あるいはあだ名なのかもと言う気がしてきました。すげえアカウント名だな、酢豚。豚より卑下している感じがある。むしろ豚に気を遣っているきらいすらある。。。そんなへりくだった酢豚からbanされちゃう。あ、あるいはbanされたやつがbanしたやつのことを、酢豚だと思ってるだけなのかな。いずれにしろおだやかな関係ではないです。で、「夏なのに」。……酢豚って、夏の食べ物なんですか?? あるいは夏のテンションに水差しやがって、みたいなあてつけ? だとしたら別に酢豚じゃなくてもよさそうなものですし、やはり酢豚への執念はあるのでしょう。でもひとのことを酢豚って呼ぶようなやつ、そりゃbanされるでしょうよ。無頼きどりか。でもそのネーミングセンス、ちょっと買い。
────────西脇祥貴

まもなく終点ムーミン谷にまよい込む

まもなく終点と、その後は人称が違うので暴力的に見えますね。電車で谷に迷いこむ、か。
────────ササキリ ユウイチ
まもなく終点感、というのを感じたことはありますか。近鉄ですと名古屋、トンネルに進入していくときのあの速度、まさにまもなく終点感だと思いますので未体験の方はぜひ。ゆっくり進行するあの感じ、まさに「まよい込む」、です。しかしとするとですな、「まもなく終点」と「まよい込む」はセットとして、「ムーミン谷」がちょっと近いんじゃないかという気がしまして……。ちょっとぼやける感じというのか、ほわほわした感じがどちらにもある、だからこそまよい込んでしまうのでは、といえば説得力は確かにありますが、ある種自明なようにも思えます。
────────西脇祥貴

目を皿にしたうえにわってあげるね

とても不安になる。というのもこの句はなんだか誰かを傷つける前の一言みたいな感覚を受ける。驚かせた上にさらに驚かせる。でも宣言はする。少しただれている関係を思い浮かべた。
────────スズキ皐月
《目を皿にしたうえにわってあげるね》と告げる、この句中の発話者は尊大です。それはとてもチャーミングな尊大さ。ぼくは目をうばわれました。素敵な句です。
────────松尾優汰
「目を皿にする」という慣用句をそのままの意味でとらえて、卵でも割るのだろうか。後半の平仮名の連なりや、最後の「ね」という呼びかけによって全体的に不気味な雰囲気が醸されている。
────────小野寺里穂
目を下に上に、皿を下に上に、ぶんぶん振り回してさらにわっている。祝っているようにも空目する。
────────ササキリ ユウイチ
「目を皿にする」目を大きく見開く。物を探し求めたり、凝視して細かく見分けたり、驚いたりした時などのしぐさにいう(以上コトバンクより)。皿になるならそりゃわれるだろう、という発展の余計さは川柳的。そしてそれがなにを意味するのかわからないのもまた。もっと言えば「あげるね」って、押しつけ気味な態度なのも腹立たしくて挑発的。この態度がいいです。いらんわ! ってすぐ言えちゃう。そしてそれ、結局どういう気持ち?
────────西脇祥貴

皆さまシー「飛ぶな」ルトをお締めください

圧倒的に聴覚。ゾワッとするほど「飛ぶな」が強い。わたしは川柳を読んでいて声を感じることはないんですがこれは明確に「飛ぶな」と言われていたし、その奥でおそらく常ならアナウンスされる「シートベルト」もかき消されるようにして鳴っていた。シートベルト……飛べなんですよねえこれ、そうか……
この句はアナウンスが下敷きになっているので「皆さまシー「飛ぶな」ルトをお締めください」であっても良いと思うのですが、この頭と終わりの「」がないことでよりダイレクトに「飛ぶな」が飛び込んできた印象があります。シートベルトのなかにある「飛べ」を同じく命令形の「飛ぶな」で打ち消す。ギュッとなりました。なんか体ごと……すごいです。
────────城崎ララ
やられたッ!シー「飛べ」ルトというわけですか……。シートベルトという語句の新たな側面が発見されてしまいました。そして離陸前の飛行機内だろうという状況を踏まえると、この「飛ぶな」はひどく不穏です。そのあとも案内が続いているので、きっと小声で呟いたんだと推測します。これから起こる悲劇を知りながら、その事実を伝えることができない葛藤や贖罪の意識を感じ取りました。絶対関係ないと思いますが、映画『12モンキーズ』を思い出しました。
────────南雲ゆゆ
愛誦性が高い句だと思います。人の名前っぽい響きなのもよい。しかもなんか笑える。
────────ササキリ ユウイチ
「飛べ」の部分が「飛ぶな」になる発想が面白い。「飛ぶな」と「お締めください」の丁寧な口調の対比が本音と建て前みたいな印象もあってまたそこも面白い。
────────スズキ皐月
かわいい句だな〜と思いました。「皆さま〜ください」はアトラクションのキャストの常套句(?)なのに、飛んでいるのはむしろキャストの方……………………と書いたところで、シートベルトのトベが「飛べ」なのか、そういうことか!と気がつきました。でもいっそ両方盛り込んであっても面白いと思います。ぶんぶん飛びながらシー飛ぶなルトを付けさせようとするキャスト。一人ぐらいいてもいいでしょう。シートベルトって飛ばないようにするためのものなのに飛べって入ってるの、うまいこと言えないけど面白いですね。飛躍への内なる欲望を抑圧するものとしてのシートベルト。本当は死んだっていいから飛びたいのかもしれない。
────────毱瀬りな
飛び回ってる人たちのバス発車するときみたいでうまいとおもった
────────公共プール
トベ(飛べ)ではなく、「飛ぶな」。
────────西脇祥貴

他所の子のチェケラで破滅する時代

ぼくもまた他所の子のチェケラで破滅する人間です。その意味で人間詠というか、この句と共鳴したような気もちで読みました。句の構造としては《他所の子の〇〇で破滅する時代》というのが外骨格であり、〇〇に何をいれるのかに作者の力量が問われてくるんだろうと思います。そしてこの句はみごとにそれに呼応してみせている。ラップやヒップホップにみられる《チェケラ》(=check it out)というおそらくここではdisの文脈につづいていくのであろう語彙が、現代川柳にありがちな奇天烈な飛躍の傾向にあるのでもなく、かといって陳腐な穿ちにおちいるのでもなく、読み手の共鳴をよぶ繊細な情緒をこの句にかもしださせることに成功しているのだと考えます。デリケートな現代への(肯定とも茶化しともとれるような)時代詠としても機能していると感ぜられました。
────────松尾優汰
子ならチェケラいつでもしそうなのは前提としていいのでしょうか。他所の子の何かで破滅すること自体がないので、その意味で二段階ついていかなきゃならなかった、のに乗り切れなかったかも。
────────ササキリ ユウイチ
コンプライアンスのうがった例?
────────西脇祥貴

もう全部、全部ふっくらしてあげる

「全部、全部」の繰り返しが、ふっくら感と響きあっています。ふっくらしてあげる、が何なのかわかりませんが、「もう」から仕方ないなぁというニュアンスを感じました。結局何なのかわからないけど、色々な感情を読み取れておもしろいです。
────────佐々木ふく
この句がはいった連作をみたい!賞でした。
────────ササキリ ユウイチ
パンとか羽毛布団とかお腹とかだけでなく、全部だ。これはもうお節介でなく、宣戦布告の類い
────────公共プール

母の遺体に塩胡椒をふりかける

胡椒まで……。
────────西脇祥貴
作り手としてはこの句すごいすきです、でも読み手としてはどうかがわからないと気付かされました。
────────ササキリ ユウイチ


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