川柳句会ビー面 10月号



生まれつき四角豆って名前がすきだ

のほほんとしていて、無害なところが好きでした。「土間土間がいちばんすきな居酒屋だ。土間もすきだ。土間土間に行った思い出も好きだ。/谷川由里子」の無垢さに近いのかな。イノセントすぎて逆にその先の悲劇を予想させるというか、いつか好きじゃなくなる未来を呼び込んでしまうような、そういう怖さを感じる。四角豆の選択も臭みがなくてよかったです。──────────────雨月茄子春
誇張で「生まれつき〇〇がすきだ」と宣言してみせる、というよくある冗談の文法のようでいて、その対象が「四角豆って名前」であるところに外しがありますね。「えっ、じゃあ四角豆そのものは好きじゃないんですか?どうしてその名前が好きなんですか?」と返したくなる趣があります。ところで、恥ずかしながら私は四角豆を知らなかったのですが、調べたところ沖縄で栽培されてる品種だそうです。この事実を踏まえると、発話者の背景に沖縄の景色が広がって、句の深みが一気に増しました。生まれつき、と言えるくらいの幼少期から四角豆を知っているので、この発話者は沖縄で育った人なのかな、とか、相手も四角豆を知ってる前提で話してそうなので、地元の気心知れた友達なのかな……とか色々想像しました。しみじみと良い句だな~と思います。──────────────南雲ゆゆ
四角豆がとてもかわいい……。よくよく考えると食材というのは料理になれば名前が変わってしまうんだけど、この四角豆は最初の名前に強い感情を持っている。かわいい。──────────────スズキ皐月

生まれてみたらおはじきだった

「生まれてみたら」、がすごい。生まれることのほうを選んだみたい。〜してみたら〜だったというお試し版、もしくはラノベ構文みたいな軽い言い回しで、「生まれてみたら」?転生したら〜を彷彿とさせる構文ですが、転生よりも地に足がついている感じがしているのは不思議です。特別な生まれ方ではなく、たぶん普通の生まれ方だと思う。どこでもない、この世に生まれてみたのでしょう。
おまけに、この〜してみたという言い回しには生まれる/生まれないの選択肢があったうえでの軽い気持ちで選んだようなニュアンスがあります。〜してみるという時、そこには試しに、とかちょっと、とか一回、とかそういうのがセットになりやすい。試しに〜してみたら?なんて、私たちもよくひとに勧めたりして。そんなノリで、試しに生まれてみたら?なんて誰かに言われたのか、もしくは試しに生まれてみるかと自分で決めたのか。「おはじきだった」、その結果はどうなのか。この句には聞きたいことがたくさんあります。なんで生まれてみることにしたの?とか。おはじき、どう?とか。「おはじきだった」からは私は後悔も絶望も感じないのですが、同じように喜びも感動も感じられず、なんとなくなんだこんなものか〜みたいな諦観を感じてしまうのですが。おはじきの人生(おはじき生?)ってどうなのかな〜。──────────────城崎ララ
おはじきは、小さくて、そんなに価値のあるものではないけれど、きらきらしていてつめたくて、だいじにしてもらえることもあって、そんなに悪くもないのかもしれないと思いました。──────────────佐々木ふく
生まれることすら自分の意志のもと、選んでしている、という立ち位置にいるあなたはだあれ? と思わず聞いてみたくなるのは、結果おはじきだったからでしょうか。これが河馬とか矮星とかだったら、たぶんかかわろうとは思わないでしょう。
ただこの句だけでは、おはじき、という結果をどう思っているかは言い切れません。フラットなおはじき観。のおかげで、読み手のほうが揺さぶられます。さみしい句ですか。うれしい句ですか。それがあなたのこれまでの結果です。おはじきとどっちがよかったですか。──────────────西脇祥貴
カフカの『変身』にも通ずる不条理さと、小池正博「はじめにピザのサイズがあった」のような肩の力の抜け感が共存していて良いな〜と思いました。生まれて「みたら」おはじき「だった」というのが、もう戻れなさもあり他人事な感じもあり…。自分に無関心なんだけど出たとこ勝負の大胆さもある(ように見える)主体のキャラクターが魅力的に映りました。──────────────毱瀬りな

うべないもうべなわないもいて伽俚伽

妙に気になりました。伽俚伽は何かなと思って検索すると、向田邦子の随筆が出てきましたが、読んだことがないのでわかりません。ただ、なんとなく、かわいいような不思議な響きと漢字がすてきです。
そして、「うべない」と「うべなわない」…もはやあまり日常では使わない言葉で、反対語だとは思うのですが、どちらも「ない」がついているから、一見、両方とも否定形のように思える。そのへんのアンバランスさが、伽俚伽に集約されるのがおもしろいと思いました。──────────────佐々木ふく

銃弾が まだ 脈動してる彼の中

「脈動してる」がどっちの説明か、ですね……。銃弾なら、撃たれた彼の中でまだ打ち出された衝撃に震えている、という痛々しい句ですし、彼なら、すでに瀕死の状態かなにかでけいれんしているのか、あるいは性的な想像へ誘う方か、な状態の彼の中の銃弾にフォーカスされる、複数の体感覚を流し込まれる句になりそうです。こういうときは、多層的な方を取りたいです。加えて、「まだ」を除くと五七五ぴったりなのに、わざわざ前後にスペースまで添えて「まだ」を入れている。この執拗な強調が、きびしい体感覚を衰えさせてくれません。
銃弾はいま、この国にいてさえ身近になってしまった語。その重さ、冷たさ(あるいは撃ち出された後の熱さ)、なめらかな形状を十分想像してから、「脈動してる彼の中」までをたどるように読みたいです。痛み、せつなさ、暴力衝動、さみしさ、そのカオスと直結の死の予感。さらにそれを俯瞰する位置からの句ですが、予感の濃さはきっと、観察者をも飲み込んでしまうほどでしょう。──────────────西脇祥貴
好きです。いい、というか好き。脈動、彼、固有かどうかはわからない。固有でない脈動を言わんとする必要があるのか考えてしまう。──────────────ササキリ ユウイチ
政治家も死んだことですしね。しかし、銃殺を彷彿とさせる句にいつまで例の銃殺事件を引きつけて読んでしまうのか、という想いもあり。もちろん、想起自体は忘れずにいたいのですが。
とは言いつつ、この句は件を無視しても面白い句。きっと脈動しているのは「彼」なのにそれを銃弾の脈動と置き換える。ただの金属なのに、発射直後だから燃えるように熱い。それが魂のようでもある。命を奪い去る道具に命を見出し、まさに今奪われようとしている命から目を逸らさせる面白さ。この句を楽しんだとき、私たちは「彼」を見捨てるという点で共犯者になる。空白の使い方も脈動を想起させて上手いと思いました。──────────────二三川練

ソンタグのタートルネックの畳み方

ソンタグには詳しくなくて…一応検索してみたところ、タートルネックを着たソンタグ?の写真が出てきました。
ただ、詳しいことがわからなくても、ソンタグという誰かがいることは浮かんでくるし、その人の「タートルネックの畳み方」って言われると、どんなんやろって思います。タートルネックの正しい畳み方って、実はわからないかもしれない。──────────────佐々木ふく

ねずみ講の気持ちになれる明朝体

どこからその気持ちを呼び出しているのかと笑 読んで、ということ? それとも書いて? そもそも「ねずみ講の気持ち」って、なに???
あー、でもたぶん、おだやかな気持ちなんだろうな。ねずみ講の勧誘する人って、みんななぜか自分の人生幸せいっぱいで、その秘訣をあなたにも教えてあげる、あなたのことを思えばこそ! みたいなこと、絶対言いますよね。これって実際とても余裕がある状態。無自覚でいられることは幸せに違いないですもん。でもその無自覚の領域が徐々に人生全般に広がっていることに、並のひとでは気づけない。だからはまる。抜け出せない。
そんな気持ちを呼び起こす明朝体について、なにひとつはっきりしたことは言えないのにそこにたしかに「明朝体」はあるらしい。この間のうつろがしっかり確保されているのが頼もしい句です。あとは読み手に任せてくれている……ってもはまりそうだから、あんまりどんな明朝体なのか知りたくはないです。魅力があるのはまちがいないですが。──────────────西脇祥貴

キュウカンバッキュウカンバッって泣く時雨

濃厚な水のにおいがしてくると胸が高鳴る。この句の魅力は、いま時期の冷たい雨の降る様や止む様をキュウカンバッととらえる可笑しさはもちろん、きゅうりの英語の発音がその泣き声に聞こえてしまうという語り手の存在だ。谷崎潤一郎「母を恋ふる記」の三味線の音が「天ぷら、天ぷら喰いたい」に聞こえたという谷崎の幼少期の思い出と郷愁にかかわる文章とも遠く響き合いながら、過ぎ去った夏の色どりの思い出がよみがえり、初冬の訪れを予感させる。きゅうりを齧ったり切ったときの青臭い香気と、キュウカンバッの末尾「バッ」の雨粒が落ち弾ける動き、涙の滴りと季節の移り変わりが、繰り返されるキュウカンバッの音と意味とともに五感を刺激して妙な抒情と哀愁を伴って、ひたひたに私たちの足元まで濡れてくるようだよ。ただ、この語り手の正体はわからない。そうだからか、その水の気配につつまれた語り手を感じると、この時雨だけではなくて霜柱や水溜まりの氷を踏みつけるときも、地吹雪に出くわして身動きがとれないときも、日にあたってとけた雪が軒先におちてくるときも、ほかの野菜とか食べ物の音が私たちにも感情の昂ぶりとともにきこえてきたらいいよね。──────────────公共プール
今回の句の多くに、切実なものを感じた。音に乗せて、言葉を入れ換えてみて、どういう句にして提出することにしてみるか。この辺りで音を重ねてみる。時雨、か、まあ擦り切れてしまっているかもしれないが、イントロのリズムに乗せればまだまだ戦えるだろう。──────────────ササキリ ユウイチ
音の心地よさが決め手。
九冠馬ということなんだろうけど競馬に詳しくないから意味を取りきるのは難しい。でも走ること、スポーツとかは雨が良く似合う。「泣く」と「時雨」は近い気もした。──────────────スズキ皐月

旧校舎をぐるぐるまわる環状線

旧校舎という過去を思わせる言葉が、回転のイメージと乗客のイメージと組み合わさって、輪廻転生に通じるように思いました。きわめて一般的な語彙を重ねるだけで非日常を作り出すのが素敵です。──────────────南雲ゆゆ
Nゲージとかそういう模型を想像しましたが、リアルな環状線でもおもしろいと思います。
環状線はぐるぐるまわるものだから、「ぐるぐるまわる」がくどいかもしれませんが、「旧校舎をぐるぐるまわる」まだ読むと一瞬、そこにいるであろう人を思うので、その想像を引きずりつつ、環状線を重ねて想像できるのは良いような気がしました。──────────────佐々木ふく

リズムに乗る乗れる乗っ取、られてみる

 リズムと言っているくらいですので、この句のリズムに注目してみました。リズムを考える上で、「、」の果たす働きが非常に興味深いです。
 もし「、」がなかった場合、音読の区切りは例えば以下の二通りがあると思います。「リズムに乗る/乗れる/乗っ取られてみる」(6・3・8)と「リズムに乗る/乗れる乗っ取/られてみる」(6・3・3・5)です。前者は意味上の区切り、後者は七五調をなるべく崩さない区切りです。
 ちなみに私は後者派です。日本語圏の身体に合ったリズムが七五調だと考えているので、よほど無理が無ければ単語の途中でも5・7・5で音読したいんです。句会や歌会に参加して気が付いたのですが、披講の際、意味上の区切りで一拍置く方が結構多くて意外でした。つまり、同じ句でも読み方は十人十色ということです。
 その上で句に戻りますと、「、」は区切りを強制的に設置しているように思います。読む人が前者派でも、必ず「乗っ取、」で区切ることになります。音読が一つに定まります。体内リズムが句に支配されるのです。そしてそれは後者派にとっても同様です。自発的だったはずの区切りが他者の作品として提示されることで、強制的な一拍に変化しました。
 リズムを乗っ取られた結果、「られてみる」(5)で見事に収まるのがすごく上手いですね。さらに凄いと思ったのは初句「リズムに乗る」です。リズムに乗ると言いつつ、6文字だから川柳的には全然リズミカルじゃないですよね。私はこの点は本当に奇跡に近い上手さだと思うんです。初句の時点ではリズムに乗ると宣言しただけで、実際に乗っているわけじゃない。しかし「乗れる乗っ取、」の7(6ではなく7だと言い張ります。この句に「、」は楽譜で言う四分休符だからです)・「られてみる」の5で綺麗に七五調に着地して、いつのまにかリズムに乗っている、いや乗っ取られているんですよ!この読みを可能にするのはそう!!他でもない「、」!!!!!!!──────────────南雲ゆゆ
乗っ取る、ではなく、読点ひとつ分おいて乗っ取られてみる。じぶんから乗っ取るのではなく、一拍考えて、受け身になってみる。いずれ乗っ取るための予行としては、ずいぶん謙虚に自己認識ができているように見えます。
「リズム」にいろんなリズムを代入してみるとたのしいですね。そのうえで段階を楽しんでみる。まずとりあえず自分から「乗る」、それからその状態を外から見て「乗れる」ことの確認、それでは「乗っ取、」るには、なかなか骨が折れることでしょう。そこで今度は、たくわえたリズムに任せて「乗っ取られてみる」。そうしてやっと、リズムと自分が一体になってくる。ここにいたって快感が芽生えてくる……。という、リズムの効用についての教本みたいな句だと思いました。Don't think, feel.──────────────西脇祥貴
乗っ取られるくらい、リズムに乗る、乗れ、たら、気持ちよさそう。──────────────佐々木ふく

手錠で捕らえた夕日の競売

八八句。なのでどうしてもちょっともたもたする(散文っぽい?)……のですが、景が面白いので後ろ髪引かれます。手錠で捕らえるのはまあそうだとして、捕らえる対象が「夕日の競売」。競売――イベントそのものに、手錠をかけられるものなのか? 公案のような一句です。
という大きなつくりも気になりますが、「夕日の競売」がすでにけっこう魅力的。地球規模のロマン――いやいや、でも捕まるから、違法なんだろうなあ。だって夕日はみんなのものだしなあ。競売にかけちゃうって、金満なにおいがぷんぷんする。不条理SFサスペンス、という後味です。──────────────西脇祥貴

おこったかんなゆるさないかんなWAKANDA FOREVER

「おこったかんなゆるさないかんな」までは橋本環奈の持ちネタで最後に「はしもとか~んな」で終わるはずなのだがそこが「WAKANDA FOREVER」になってる。「ワカンダ・フォーエバー」というのはマーベルのブラックパンサーシリーズの新作で橋本環奈とはなんのつながりもない。ないはずなんだけど「かん」の音がいい感じにマッチしてしまっている。
怒りの表明の部分もなんとなく映画とあってる気がしてきて、ずっと笑っていられる。
和やかな雰囲気なのに急に「WAKANDA FOREVER」と橋本環奈が言っている画も思い浮かんでそれも良い(笑)──────────────スズキ皐月
Black Panther……まさかの橋本環奈からのWAKANDA!カンで踏む音の気持ちよさ、そして草原に響き渡るようなForeverの余韻。映画、観に行きますよね。怒ったら、許さないなら、どうぞ劇場へ。滾ります。──────────────城崎ララ
フリオチがわかりやすくて、それだけじゃ興醒めだし通常なら萎えてしまうんだけど、なんだかこれはよかった。CMの俗っぽさから地理に飛ぶからだろうか。しかもWAKANDA。地理とわかりつつ、しかし現実にはないネーミング。これはマーベルの手柄かもしれないけども、それを持ってこられるというのはちゃんとすごい。──────────────雨月茄子春
WAKANDA。マーベル用語だったんですね。だとして、WAKANDA FOREVERを本当に言いたかったのかなあ、という印象は残ります。直球過ぎますもんね。『ブラックパンサー』を見ていないのでわかりませんが、むしろ「おこったかんなゆるさないかんな」を言いたいがために、「WAKANDA FOREVER」なるコピーないし決め台詞を、それっぽいから引っ張ってきてつなげました、というダルな感じ。それがいい句。善良な読み手をどぼどぼ見せかけのWAKANDA FOREVERの泥沼に叩き込むという。
って言ったらちがうわ、って言われるかなあ。でもこのダル、大事にしてほしいです。──────────────西脇祥貴
調べたらブラックパンサーの新作でうけた──────────────公共プール
かんなの選定がタイムリーで笑ってしまいました。ブラックパンサー未修だったのでワカンダと若旦那を空目したのは内緒です。ぼんやりと考えながらいまだにゆるさないかんなとWAKANDA FOREVERの飛躍の過程を見出せていないのですが、勢いが良いのでいいか…という気がします。勢い、大事。──────────────毱瀬りな

5°傾けて森

短律まだまだやる人少ないので強いですね。目が止まる止まる。この句は情報のなさがちょうどいいです。なにを傾けているのか? なぜ5°指定なのか? なぜ傾けたら森になるのか? じゃあ9°傾けたら港なのか? ……もうこれだけ言わせてくれたら成功でしょう。5°の細かさと、対応する森の広大さの対比がほどよいです。さっそく明日からもろもろ5°傾けて、森であると言い切りたい。呪文のようでいいですね、短律!──────────────西脇祥貴
5°という微々たる傾斜。きっと自然の木も森も一つとして傾いていないものはない。ミニマルな言葉とユーモアの同居がかっこいい。──────────────小野寺里穂
地軸を?!ステップ気候とかを……?
読んだときにグラっと想像の星が傾いて愉快でした──────────────城崎ララ
木を足して林。木を足して森。小学低学年でこんなふうに覚えていく。この足すは、数学的な言葉とはちょっと違う、やわらかな意味の広がりを持つ方の足す。この傾けては、もっと広がりを持つ方の傾けて。──────────────ササキリ ユウイチ
静けさを感じました。──────────────佐々木ふく
夏雲システムをうまく使った句ですね。ランダムに配置されるため句稿が出るまで「○.5℃」の○にどんな数字が来るのかわからない。逆に言えば、句稿が出るまでこの「森」はあらゆる角度に傾いていた。そう読むならば「傾ける森」としたいところだが、「傾けて森」という少しつまずいた感じも面白いと思いました。──────────────二三川練
(※註:今回この句は13番でした。ササキリ)

レモンと布の出会いのようなベーゴマを

ミシンと蝙蝠傘の、手術台の上での……の公式を使ったような句=シュルレアル句。あとは各モチーフの象徴するものの掛け合わせマジックが、どれくらい効果的なかけ算になっているか。……で行くと、ちょっと弱いかも。といいますか、「レモンと布の」までが良すぎるかも。すごく期待してしまったので、「ベーゴマ」でさえまとまっているように見えてしまいます。シュルレアル=飛躍を搭載するなら、もっと、もっともっともっと!!!──────────────西脇祥貴

えんぴつは噛めば噛むほど日がのぼる

手紙や宿題とかを含めた書き物をしていると朝を迎えてしまうことは確かにある。えんぴつを噛んでいるし多分そういった書き物に行き詰っているんだろう。
えんぴつを噛むことと日がのぼることは因果はないのだけど、そこをつなげるのは川柳っぽい手つきがあって面白い。──────────────スズキ皐月こうした、事象と事象の叙述の関係の破綻(≒破壊)は川柳のもつ大きな魅力なんだ、ということを再確認できるような句です。《朝顔をほめてこぼれる歯磨粉/安川久留美》などを思い出しながら読みました。
〈えんぴつを噛む〉という、非常に肉体的な感覚を思いおこさせるフレーズが好きです。──────────────松尾優汰
えんぴつは噛めば噛むほど日がのぼる、らしい。
現実世界に照らせばあり得ない因果関係です。あり得ない、ことを前提にすれば人はやれこのえんぴつはほにゃららの比喩だとか、この状況は暗に〇〇を示しているという評に向かいそうですが、ここは川柳のフィールド。「ふーん、えんぴつは噛めば噛むほど日がのぼるんだ〜」と考えることを許してくれる場所です。そしてこの句が存在しているということによって「えんぴつ」「噛む」「日がのぼる」という現実の因果では一般に遠いところにあるとされる言葉たちがひと所に集合させられ、句の中の世界はわたしたちの世界とは少しずれた事実を突きつけてくれます。「えんぴつは噛めば噛むほど日がのぼる」を読んでいる間だけ、この句に広がる現実はわたしたちの現実よりも存在論的に優位に立ち、そしてわたしたちはあまつさえそれを飼い慣らすこともできると思うのです。わたしは川柳のそういうオルタナティブな可能性に惚れ込んでいて、これはそんな川柳の可能性を作者自身が信じてくれている句なんだなと感じました。──────────────毱瀬りな

夕焼け吸いに出るこの身のかたみに

まず「夕焼け吸いに出る」という言い回しに掴まれた。「夕焼け」と「吸いに」の間に助詞を置かないことで、自然な呼吸の流れができている。「かたみ」を「片身」と読めば、この身体の半分だけが夕焼けを求めて外に出ていったということだろうか。もちろん「形見」と読む余地も充分にある。最後の「に」が不可解なまま余韻を残し、わたしはもう一度この句を読む。三度目、四度目も。次第に、自身の形見として、自らが後世に残す形見としての夕焼けを吸いに出るという行為を、この主体はいま、実行しようとしている気がしてきた。しかもこの身を危険に晒して。一方で、全体的に重力を感じないようなこの句の浮遊感が、わたしの身体を軽くする。久しぶりに目が覚めるような句に出会った。──────────────小野寺里穂

パスタに和える愚痴とものぐさ

現代川柳シーン、とでもいうべきものが存在しているとして、そこでは私性めいた詠みこみが忌避されているということは、あるていどの事実としてあるように感じています。
〈属性〉——これは現代川柳とは非常に相性が悪いものですが、〈私性〉あるいは〈人間性〉〈擬人性〉といいかえられるもの——これはむしろ現代川柳における重要な要素のひとつであるように、ぼくには思われるのです。
川柳は語彙を粉砕し溶接しなおす道具であるだけではなく、奇想天外な小宇宙を創造し散策する行為であるだけではなく(もちろん、以上のどれも川柳のすばらしさであることはいうまでもありません)、——ずっと以前からそうであったように——人間によりそい、ときに蹴りとばし、愚弄し、あるいは慰め、その大声でなにもかも搔き消してしまうような、不穏な詩の擬人でもあるように、ぼくには思われるのです。
ぼくは、だから、この句で和えられている《愚痴》と《ものぐさ》は(あるいは愚痴とものぐさという概念そのものとして読む視点もありうるかもしれませんが)、明快な隠喩として素直に読みました。ぼくもパスタをよくつくるし、生活にはいつも不満があります。こうした読みあじは、〈共感〉ではなく〈共鳴〉として、現代川柳の秘められた一面をもういちど読み解く鍵たりうるのではないでしょうか。──────────────松尾優汰

どうあがいても俺は著名人

「俺」が堂々としている感じがして笑っちゃいました。「どうあがいても」に「いや、それほどあがいてないじゃん!」って思った。「著名人」ってふざけた音だなあ。チョ!名人!ヨッ!──────────────雨月茄子春
なんでこれに並入れてるんだおれ……と思いつつ入れてしまいたい気持ちにさせた時点で、この句の勝ちです。特選にはしませんけど。
俺が入ってるから、とかそういう単純な理由じゃなくて、かといって主体のメンタリティに共感できるわけでもなくて、じゃあなんでおっぽっちゃえないのか? 「著名人」が特定不可能な存在だから、かも知れません。自慢交じりに主体がなのる「著名人」が、その実なんにも言っていない。そのむなしくなっちゃう落差が、あるよく知られた闇を穿っているように思えて。そして主体は「どうあがいても」、「著名人」以上のなにものにもなれない。名人や偉人、狂人には、なれない。それはしんじつに触れられないことの言い換えのようで、そう気づいたらあー、とことんさみしい句じゃないですか。特選にはしませんけど。。。──────────────西脇祥貴
有名人を通りこして、著名人なのが良いですね。満更でもなさそうで、気持ち良い。──────────────佐々木ふく

明後日の芋掘りで捨てる宇宙服

SFっぽい読みとかもできるけれども、小学生くらいの子供たちが畑に宇宙服を捨てる様を思い浮かべて楽しんだ。
宇宙服なんて絶対畑では分解されずに残るだろうし、これは悪い行為だ。しかも現実ではそうそう実現しない、想像の世界での悪い行為。こういうのは詩の面白さであると同時に、独創性も高くてとても良い。──────────────スズキ皐月
そんなにこの星が好きになったのか。なら、いっしょに芋判も彫ろうな。──────────────公共プール

痛いのが飛んでく先に無辜の民

飛んでく、ということは飛んださきで誰かに当たる、ということ。明快で皮肉っぽくて好きな句でした。──────────────松尾優汰

長い列 そして全員盗み出す

「そして」がめちゃくちゃ好きです!一字明けからのそして、で視覚的に時間の空白、列から人がばらばらになっていく瞬間を感じられるのがすごく素敵です。行列ができ、そして窃盗行為が働けそうな場所といえば美術館でしょうか?何を盗むにしろ、各々がそれぞれ盗みたいものを盗むのだろうなという予感が漂っているのが良いな〜。特選とも迷った句でした。──────────────毱瀬りな

去り際が水鳥の目に戻れない

泳いでいる水鳥の視界に自分が入ったであろう次の瞬間には、その目にもう自分は映っていない。二度とその水鳥の瞳に自分は映ることがないのだという刹那性の発見の句として読んだ。そうすると助詞の「が」の存在が異様にみえてくる。今回投句された「夕焼け吸いに出るこの身のかたみに」もそうだが、助詞の置き方によって、句のねじれが生まれている句に惹かれる。単純なテクニックだからこそ、技量が試されると思う。日本語として成立するぎりぎりの境界を、川柳が渡り歩いていることが喜ばしい。──────────────小野寺里穂
なんとなく、美しい。──────────────佐々木ふく

普通席にすわった普通の人として

一読して、真っ先に思い出したのは宇都宮敦の「牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ」でした。宇都宮の歌における「ふつう」には受け手が持つ無数の経験を同定せず包含するという正の面と「ふつう」という言葉を盾にマジョリティをマジョリティたらしめている特定のコンテクストを漂白する危うさの負の面両方が含まれていると私は解釈していますが、この句はどちらかと言うと作者が「普通」の負の面にとても自覚的で、なおかつその点を強調したいように見えます。
しかしその「普通」ってこわいよね、でもわたしたちなんだかんだで「普通」と付き合いながら生きてるよね…みたいな作者の気づきそれ自体が、「普通」に包含されないと感じるときに抱く生きづらさに逆説的にスポットを当ててくれているため、句がシニカルになりすぎず柔らかい光を浴びせてくれるような印象を受けました。韻律も六八五で二度見するほど大きく逸脱しているわけではないけれど五七五感もなく、それでもなんだか読みやすいという不思議な魅力がある。素敵な句だと思います。──────────────毱瀬りな
好きです。普通とは何か、明快に問うてくる句ですね。──────────────南雲ゆゆ
「普通」の定義が結局なんだかわからない、という点でもって定まらず、定まらないところで安定する句、という風に捉えることもできそうですが、穿ちフレーズとしての既視感が強く、たとえ「普通席」というディテールを持ってきたとしても、なおどっかで見たような感じがするのが惜しいです。もっと普通をこすってほしかった。でもビー面じゃなかったらいいのかもしれませんね。──────────────西脇祥貴
普通席も普通の人も本当は存在しない感じがおもしろいと思いました。──────────────佐々木ふく

右手はグーで左手はチョキでカニシウマイ

これは作っちゃいますね、カニシウマイ。なんなら歌ってしまいます。しかしグーとチョキでカニシウマイにならないのです。どうしたらいいんだこのグーとチョキは……そんな右手と左手を見下ろしながら、次第に悲しくなる夜。もうこの悲しみもカニシウマイ。どうしたらいいのか教えてほしい。途方に暮れながら無意味に左手をチョキチョキしてみたり、して、もしかしたらここはおれがカニシウマイにならなければならないのかも知れない。左手はカニ、右手はシウマイ。そう、おれが、カニシウマイ!……「おれ」題でも読めるかも知れません。──────────────城崎ララ
そのとおりとしか言いようがない。やってごらん。右手は下、左手はその上に生えるように。ほら、爪の出てるやつ。デパ地下とかでは買えないやつ。でも食いにくいんですよね、爪。わずかにしがみ出した身はおいしいけど。
ちなみにそのまま上下ひっくり返すと、足の生えたシウマイになるからやってみて。──────────────西脇祥貴

うしろの世界に塗る除光液

背景ではなく「うしろの世界」。この捉え方だけでもう突出してますが、さらにそこへ「除光液」を塗るという。
ふだんマニキュアをしないもので、改めて調べてみました「除光液」……「マニキュアやエナメルを落とす用途に使われる溶剤」「多くの除光液にはアセトンという有機化合物が含まれており、これにより油脂を溶かすことができる。除光液のツンとしたにおいは、アセトンのにおいである」……以上、ウィキペディアより。脂を溶かして落とすんですね。
このへんからきな臭くなってきますし、わざわざ「うしろの世界」と規模を広げ、彩度をあげた理由がわかる気もしてきます。そしておそらくですが、除光液程度では「うしろの世界」の気に入らないものが溶け去ることはなく、部分的には残ったままになるのではないでしょうか――たとえば顔は溶けても、体は異常が無い、とか。いちばん大きく解釈すれば、「うしろの世界」を消し去ってリセット、ということになりますが、そのために「除光液」を選んだ時点で、そんなことはできないと、じつは分かっているのではないでしょうか? この、破壊行為をほのめかしながら同時にあきらめを抱いているという、ある意味半端な気持ちを救えるのは、川柳じゃないでしょうか。──────────────西脇祥貴

意外とあるねドラム式選択肢

もじり、は萎え、ではあるんだけど、これはちょっとよかった。「意外と」の留保がよかったのかな。ウケ狙いでなく、本当の言い間違いが起こって、そのウケの感じが届いた気がした。──────────────雨月茄子春
《意外とあるね》というひょうきんさは、まさに川柳です。《ドラム式選択肢》という存在がゆるされているのも、まさに川柳です。
《意外とあるね》ってすごく軽快ないいかたなのに、《ドラム式選択肢》という語のまえについているとなんだか泣きそうになってしまいます。つよさとしたたかさにあふれています。──────────────松尾優汰

夢を噛んでいると拗音が消える

拗音が現代日本語会話において発音必須の音かというと、そうとは言いがたいですが、これが無くなると、音声学上の多様性が失われるというのはたしか。というところで、『現代社会の価値観における実害は無いに等しいが、本質的には決して無価値ではないもの』のたとえとしての「拗音」と受けとめました。ってかそれってほぼ森羅万象ですね。
ともあれそれが、「夢を噛んでいると」「消える」。レディオヘッド"デイドリーミング"の歌詞を思い出しました――"夢ばかり見る連中は決して学ばない/戻れない地点を越えてしまっても/そのときにはもう手遅れ/傷はつけられてしまった"……。「噛んでいる」という体感の語を持ってきた絶妙さ、そこから細い細い関連性(口、会話、発音)をたぐって「拗音」を選んだセンス。大きなことではないようで、地獄の釜の蓋が開いたくらいの出来事が語られている。その差に気づいた途端感じる絶望の、その巨大さに、負けました。つらい。しかしこの穿ち×軽さは、強いです。──────────────西脇祥貴
不便なような、消えて、最初からないものになれば、それはそれで、なんとかなるような。──────────────佐々木ふく
スマホですばやく文字を入力するようになった時代、誤字が持つ説得力の範囲を広がっているかもしれません。これは「洗濯機」が「選択肢」になっていますが、言い間違いとも取れるしスマホ入力でカ行とサ行が隣り合っていることによる誤字とも取れる。すばやく入力すると誤字に気づかずそのまま変換までしてしまう。なんならパソコンだとSとKが離れているので誤字だったらスマホで確定だろう。また、「意外とあるね」が「洗濯機」にも「選択肢」にもかかっているからつい「ドラム式選択肢」ってなんだろう? と考え込んでしまう。考え込んでしまう以上、この句には説得力がある。言い間違い、あるいは書き間違いからたやすく異世界に入り込めるのが言葉の面白さだと改めて気づかせてくれる一句です。──────────────二三川練

十三夜「あたためますか」「にげません」

十三夜に交わされる支離滅裂な会話。ここは素直に、舞台は現代のコンビニだとします。
 「あたためますか」はYes/No疑問文ですので、本来返答は「はい」か「いいえ」、あるいはそれと同等の意味の文章しかありえません。しかし「にげません」と返されてしまう。質問した人も読者も困り果てたまま宙に放り出されていたところを、私は最初に戻り、「十三夜」へ降り立ちました。ここで十三夜という舞台設定が効いてくるように思うのです。
 十五夜のほうが使いやすそうですが、あえて十三夜を使った意味……というか効果、については考える価値があると思います。ちなみに今年の十三夜は10月8日。俳句を参照すると、
埠頭まで歩いて故郷十三夜/松永典子
りりとのみりりとのみ十三夜/皆吉爽雨
など、ぐっと寒くなる晩秋のさびしさを十三夜という季語に託しているように思います。本句の雰囲気にも物寂しさが付与されそうです。
 初見では、シュールな会話劇の舞台になりそうな都会のコンビニを思い浮かべたのですが、十三夜を踏まえると国道沿いで山を背景に虫を呼び寄せるコンビニの風景が見えました。──────────────南雲ゆゆ

それはもう山としか言いようがない

「それはもう」で最初の5文字を使う余裕、抜け感がいい。何を指して主体はこの言葉を発しているのかという謎が残ると同時に、言い切る態度が気持ちがよい。──────────────小野寺里穂

「山」は悩みますが、やっぱり「山としか言いようがない」というのは素直で説得力がある気がしました。──────────────佐々木ふく

挫折した順に美術館にならぶ

「ならぶ」をひらがなにしたのは自分的にはあまりよくない気がした。そこだけ幼児っぽくなってノイズ感ある。でも内容がとてもよかった。美術館、挫折した人がそうでない人かといったら前者が行く建物だから。──────────────雨月茄子春
評しきれない、が、これは良い句だと思う。挫折した身を死に捧げる感覚のパラフレーズと、その先。それでいいのか?という句。──────────────ササキリ ユウイチ

着るひと次第らしき秋はよそ事

どこがどうなってるの!?とめちゃくちゃ混乱しました!その原因は「らしき」の使い方だと思います。「犯人らしき男を見かけた。」「仏像らしき影が浮かび上がった」のように、《名詞+らしき+名詞+助詞+動詞》の形をとるのが文法的には正しいと思うのですが、本句は《名詞+らしき+名詞+助詞+名詞》で、文法的には正しくない(私が知らないだけだったらすみません)。ちなみに用例.jpで調べたところ、《名詞+らしき+名詞+助詞+動詞》形式しか出てきませんでした。名詞は名詞で複合語(着るひと次第)なのもややこしくしている(笑)また、「秋はよそ事」を一つの文章として捉えると、英語の関係代名詞の文章にも見えてきます。大混乱。日本語なのに、文法は英語っぽい……。単語は分かるのに文法の繋がりが分からない英語和訳問題に対峙した時の気分です。選評期間だけでは納得いく答えが見つからなかったので、今後も悩ませてもらいます!──────────────南雲ゆゆ

October テーマパークは海の底

好きな句です。Octoberとテーマパークが韻を踏めるという発見に驚く……川柳をやってよかったなと思える瞬間の一つです。──────────────南雲ゆゆ
October…格好良さそうで、10月としか言っていない。なんで10月と思いつつも、Octopusとかを連想するので、「海の底」とは相性が良いのかもしれません。
「海の底」は、まさにテーマパーク、竜宮城みたいに楽しそうともとれるし、廃墟のようにもとれる。二面性が良いなと思いました。──────────────佐々木ふく

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