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鬼滅の刃の評価の分かれ目は、不完全さを愛せるかどうか

鬼滅の刃については今更私が書かなくても、というくらい賞賛批判分析し尽されているのですが、月並みな意見でも、鬼滅の刃の素晴らしさを語りたい。

きっかけは、某ブロガーさんがこの作品を感情的に批判していたので、感情的にこの作品を肯定したくなったこと、Amazonで最終巻のレビューを読んでいたら評価が真っ二つで、批判的な意見のいくつかに言い返したくなったからです。

以下多少ネタバレになりますので、未読の方はご注意ください。

まず、批判の多くは、話の整合性や設定の甘さが多く取り上げられていましたが、これって少年漫画好きな方の視点なんだなと思いました。

別にそれはいいんです。少年漫画でもっと作りこまれた名作はたくさんあるのでしょう。ただ「この作品はくだらない」「何で人気があるのww」のように揶揄する人に対しては、

「あなたに鬼滅の刃の良さがわからないだけでしょう」

としか言いようがないのです。理論的な批判で優位性を主張するのは視野が狭いと思います。

確かに鬼滅の刃のヒットは尋常じゃないです。もっと優れた作品があるのに、と文句を言いたくもなる人もいるでしょう。

個人的には、過剰だったり、もう少し説明が欲しいと思う部分もありますが、敢えてそうしたのだろうな、という意図も感じられました(「言い訳が多い」と言われた作者のコメントも、スピード感を持って届けるために、泣く泣く外したエピソードだったのだろうと読みました)。しかし、作品を伝えようとするエネルギーは凄まじいものを感じます。

きっと、鬼滅の刃に没頭できるかどうかは、「不完全な存在(作品)をどこまで許容できるか」が分かれ目になるのだと思います。

何度も蘇る鬼に対し、人間は肉体的に不完全です。人間は不完全が故恐れ、不安を抱えながら闘います。時には肉体の一部を失い、命を落とすこともあります。残虐な描写に批判的な人もいましたが(描写の多さの是非までは触れません)、不完全だからこそ命も平等ではないのです。ストーリー上主役の3人は生き残りましたが、それも偶然で、柱についても同様です。不可逆的だから想いは引き継がれ、命は輝くのです。

最終回は蛇足だという意見はなるほどなあ、と思いました。個人的には救いのある終わり方だと思いましたが、作者の思いの強さが、作品そのものを楽しみたい一部の読者の反感を買ってしまったのでしょう。

「鬼を作ったのは人間だから、鬼を退治して終わりというのはどうか」という意見も目にしましたが、これもあくまでも「物語の終わり」であって、私たちがこれからも自分と向き合い続けなくてはならないことには変わりません。ただ、自分と向き合い続けた炭治郎が、弱さから逃げ続けた無惨を倒すことに意味があるのです。

最終回が示唆するのは、炭治郎たちの活躍で平和な現代があること。平和な世の中を維持するには、炭治郎のような優しさを持ち続けること、ではないでしょうか。

鬼滅の刃の不完全さは、無惨を倒す場面でも象徴的です。ここまで名もなきキャラクター達を犠牲にしてラスボスを倒す主人公、今までの少年漫画にいたんでしょうか。詳しくないので分かりませんが。残酷なまでに弱く不完全な人間たちが、強く無敵な無惨に少しずつダメージを与え続け、倒す。そこに人間の強さを教えられます。

完全である(間違いがない)こと=正解という古くからの価値観に居心地の悪さを感じていた私には、鬼滅の刃のヒットは嬉しかったし、時代の価値観が大きく変わりつつある出来事に思えました。

作者の吾峠呼世晴さんは心の綺麗な方なんだろうな、と読みながら何度も感じました。漫画を読んでいて初めて抱いた感情でした。自分の弱さを受け入れ、他人の弱さを許し、時には敵対する相手にすら優しさをもって理解しようとする。ここまで優しい少年漫画の主人公っているんでしょうか。良く分かりませんが、幼少時に読んだ少年漫画には少なくともいませんでした。

一番を目標に高い景色を臨むこともいいでしょう。でも、私はなだらかに広がる景色を、より多くの人と見たい。鬼滅の刃は、これからの時代を生き抜く強さを教えてくれる作品です。

#鬼滅の刃

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