才能のない私の仕事の処世術

 本来、私らしいはたらき方としてのテーマは、クリエイティブで自由に生き生きした仕事を行なっている人間が書くべきだと思う。

 しかし、多くの労働者は、クリエイティブで自由に生き生きした仕事とは無縁で、仕事はあくまでの毎日の飯の種で、泥臭い人間関係の中で泥水を啜りながら窮屈に仕事をしている人が多いと思う。

 私もまたクリエイティブな才能には恵まれず、惰性と打算で今の仕事を選び、自由に生き生きとした仕事とは程遠く、常に緑色の苦虫を噛み締めながら仕事とプライベートの狭間を往来している日々である。

 「それが貴方の私らしいはたらき方なの?」と言われるといつの間にかそういうはたらき方になっちゃったんだよと言いざる負えないし、「そんな働き方でいいの?」と問われれれば理想的とは言えないけど一応生活できてるし、慣れちゃったんだよとしか言えない。

 そんな自分にも大きく3つの仕事への処世術がある。

 まずは、己の独創性を信じない。己の可能性を信じて未知なるアイデアを生み出すというような事はせず、同僚、同業者、社会で成功している人のを合法的な範囲でアイデアをとりあえずパクる。才能のない人間は、知恵はどんなに絞っても何も出てこない。それよりは近場を眺めて良いアイデアを頂戴し、多少のアレンジやそれぞれのアイデアを組み合わせすることが仕事の効率に繋がっていく。

 そして、仕事を失敗したらとりあえずすぐに謝り、他の人の手を借りてでも修正する。自分のプライドにしがみつき失敗の言い訳をする時間があるなら、相手の靴を舐めるつもりで丁重に謝り、その失敗をどのように修正していく事の方が生産的である。仕事の結果にプライドを持つことは重要かもしれない。しかし、自分にプライドを持つ必要性はないし、社会からもそれは求められてない。

 最後に会社のルールではなく、社会のルールを守る。会社には慣習という化け物がいる。時としてそれは社会から逸脱して、山本七平が日本人の行動様式として示した「空気」として会社に蔓延している。そして、場合により会社のために社会のルールを逸脱することを求められる。しかし、それは自分のために社会のルールを優先すべきであり、会社と戦う、逃げる、他の人に押し付ける、有耶無耶にするのいずれかを選んだ方がいい。自分はとりあえず有耶無耶にするか逃げることをお勧めする。

 仮に社会より会社のルールを優先し、会社の意心地が良くなっても、いざと言うときに社会のコンプライアンスから会社が自分を守ってくれる保証はないし、会社そのものが死んじゃう可能性もある。実際に社会のルールよりも会社のルールを守って会社と共に社会的に死んでいった同僚も多く見てきた。一度、社会的に死んで、社会的に外れたレールから普通のレールに戻るのはすごく大変そうだった。

 こんな感じで私のはたらき方には、夢も希望もない。自己啓発、自己実現の真逆を走っている。

 だけど、生きていくためには働き続けなくちゃいけないのも現実ではある。ただ、働くことだけが生きていく事でもない。だから、独創性も才能もない私達は、日々の仕事で忙殺され、緊縛されて自由がない分、プライベートで小さな幸せを探せばいいんじゃないのと思ったりしてる。それが食事であったり、寝ることであったり、趣味であったり、家族であったり、人それぞれ、何でもいいんと思うんだけど。

#私らしいはたらき方

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