居酒屋 どりーむ②

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 4月が過ぎるのはあっという間だった。
 どりーむでの初バイトを終えて、着替えている時に、山下に更衣室のドアを開けられたのが、つい最近のように思える。

 いつもサッカー部の部室で、女子マネージャーに全裸を見られるのは全く気にしない俺だが、バイトが終わり、気を緩めて着替えてる時に山下に見られたのは、パンイチとは言え、不意打ちで恥ずかしかった。
 あっちが開けてきておいて、「いやっ」とかなんか叫んでいたが、俺だって叫びたかった。というより、少し叫んでいた。

 人並みの羞恥心がまだ健在だった俺は無事大学の3回生になり、時間割も決めて、時間割に合わせた生活リズムができた頃には4月は終わっていた。月曜と金曜の講義は3限だけにできたので、どりーむでの深夜までのシフトは計画通りで、私生活に何ら影響はない。サッカーのリーグ戦も始まったが、日曜日の試合は、ほとんどなく、部活は土曜日に試合、日曜日はオフといった流れだったので、シフトにも何ら影響はなかった。

 週2でのバイトではあったが、チェーン店のようにフェアなどで、メニューやオペレーションが変わったりすることはなかったので、一ヶ月も経てば、それなりに仕事はできるようになっていた。
 今だと、俺よりも山下のほうが仕事ができるようになっている。テキパキと、正確、丁寧に仕事をしている。
 それ以上に、「かわいいねー、今いくつ?」と中年の酔っ払いに絡まれても、「永遠の15歳です」とか、「45歳です」とか言って、軽くかわしている山下は、居酒屋初心者には思えなかった。

 そんな山下は俺に、「さっさと洗い物終わらして、床の掃除してくれる?」なんて、同期なのに完全に俺よりも上の立場にもなっている。坂本さんにすら、冷蔵庫の下が汚いとか、事務所に無駄な物が多いと、口うるさい姑のごとく指図していた。
 黒子さんのことはリスペクトしているようで、しょっちゅう仕事のことで黒子さんに質問していた。そんな仕事の鬼のような2人を見て、俺と坂本さんは2人で、「すごいねー」なんて他人事のように感心していた。

 5月になってゴールデンウィークも過ぎた木曜日。どりーむに来る客にしては珍しい、うるさい若者男女4人組が来店した。
 4人組の2人は金髪と茶髪の男で、偏差値に反比例するかのように、2人ともピアスが耳だけじゃ飽きたらず、眉に鼻に顔中に開いていた。服装もレザーのジャケットに、ダメージが多めのジーンズで、典型的なジャラジャラした若者の格好だった。
 残り2人の女は、2人とも似合わない金髪で、生え際は黒く、綺麗に金髪を維持できていないところが、彼女たちの経済状況を露呈していた。やけに胸元を強調したトップスに、5月でも、寒く思えるほど短いスカートを履いていた。顔はあれだが、胸だけは評価できた。素晴らしい、と心の中で評価した。

「すいませんがお客様、見た目がお若く見えますので、年齢を確認できるものをご提示お願いできますでしょうか?」普段はしないが、最初の注文の前に、胸以外は気に食わない若者たちに年齢確認をした。
 今年20歳になったばかりの俺が、大学に入ってから居酒屋で、コンビニで、今まで散々言われ続けたセリフを見おう見まねで言うと、金髪の男が、「全然いいすよ」と慣れた感じで免許証を出した。他の3人も続いて免許証を出す。  

 結果、全員20歳だった。
 堂々と出して来たわりには、20歳なりたてじゃねーか、と言いたくなったが堪えた。俺の策略は失敗した。
 若者たちは見た目そのまま、想像通り、座敷席で騒いでいた。落ち着いた店内に、座敷の方から下品な笑い声がよく響いていた。
 他のお客さんは特に気にしてる様子はなく、「あそこの客がうるさい」なんて言われることはなかったので、坂本さんも、「まぁ若者なんてあんなもんでしょ」と気にしてなかった。

 そんな中、「なんなのあの座敷の人達!」と、山下は厨房に戻ってくるなり、作業台でサラダを作っていた俺に愚痴をこぼした。こぼしたと言うより、ぶちまけられた。
「なんか面倒なことされたの?」俺はトングでレタスを皿に並べる。
「いや、さっき座敷に焼鳥の盛り合わせ持っていったらさ、女2人に煽られたんだよ。「お姉さん化粧薄くない~? そんなんじゃモテないよ~」って、いやいや、あの2人の化粧が濃すぎるんだよ」
 山下は作業台に片手をつきながら、身振り手振りをつけて俺にストレスを吐き出してくる。客の女に言われたセリフを、憎しみが込められた変顔を混じえながら言うもんだから笑いそうになった。
「まぁあの化粧は、ナシだわな」胸はアリだけど、と思いながら山下に共感する。
「でしょ? 顔の原型とどめてないよ? あれは」
「原型とどめてないって、ひどい言い方だな」俺は笑いそうになって思わず咳き込む。
「カラコンに、つけまつ毛って、ほぼ元の目の状態じゃないからね」
「まぁギャルのスッピンって、皆おんなじような顔だもんね」
「そう。一重なのを隠そうと必死なんだよ。それで、厚化粧して、自分が可愛くなったように勘違いして、人の化粧にも口出してるんだよ」
「余計なお世話だわな」山下の勢いに押されながらも、俺はサラダにオニオン、ゆで卵、トマトを乗せ終わった。
「もはや絵画でしょあんなもん。制作時間何時間なのか聞きたいよ」
「まぁ1時間位じゃないの?」
「1時間以上は確定だよね。ご苦労なことですよ毎朝毎朝」
山下についた火はなかなか消えない。今までも、変なお客さんの愚痴を聞かされることはあったが、今日は大火事だ。俺の雑な相槌でも追い風のように、山下の炎を広げた。

「怒りすぎだよ、涼ちゃん。とりあえず休憩に言ってきな」山下の怒りの熱を感じたのか坂本さんが唐揚げ丼を両手に持って、俺の後ろに立っていた。
「ありがとうございます。休憩言ってきます」山下は口をへの字にしたまま、坂本さんからどんぶりを受け取ると、事務所にとっとと入っていった。
「はい、竹内くんも。あとはやっとくから休憩行きな」坂本さんはそう言って、俺にどんぶりを持たすと、サラダにドレッシングを回しかける。
「ありがとうございます。休憩もらいます」俺はせっかく火の気がなくなったと思ったのに、また火事場に突入する消防隊員の気分で事務所に向った。

 事務所に入ると、山下は分かりやすく鬱憤を晴らすように大口を開けて唐揚げにかぶりついていた。
「あー、腹立つー」
 俺が今となっては指定席となった瓶ビールの箱の上に座ると、山下は口の中に唐揚げを残しながら、苛立ちを吐き出した。

「そんな怒るなって」俺は冷静に唐揚げを頬張る。
 ここのまかないは相変わらずうまい。大学の食堂の冷凍の唐揚げの比じゃない。いい鶏肉を特製のタレに漬けてあるだけある。
「この店には、あんなチャラついた客こないと思ってたのに」俺の雑な宥めが成功したのか、山下の声量は若干大人しくなった。少しは鎮火したようだ。
「それは俺も思ってた。正直ここ、いい値段するし」
「ね、男が金持ってんだろうね。見た目によらず」女の方は金が無いと、陰ながら悪口を言ったように聞こえた。
「男というより、男の家が金持ちな気もする」
 俺も気に食わない彼らの勝手な想像を口に出す。奴らは俺と同い年な訳だ。ひどい見た目だが、金はかかってるだろうし、ここで値段を気にする素振りなく注文をする奴らと、食べ飲み放題のチェーン店が、行きつけの店の俺との経済力の差に納得がいかなかった。
「どうせ、10年後にはろくなことになってないよ。あんなの」
 山下は俺より早く唐揚げ丼を食べ終えると、机に顔を突っ伏した。大火事と思われたが、早くも収束した。客に絡まれても平気と思っていた山下でも、同世代女子からの、おせっかいな絡みは上手くかわせなかったみたいだ。

 23時を過ぎると、さすがの彼らも静かになり、他に客がいない店内は、いつもどおりの平穏な木曜日の店内になった。
 いつのまにかいなくなったんじゃんいかと思うほどの静かさだったので、俺は今日は使われなかったが、奴らがいない、隣の座敷に片付けるふりをして入った。簾(すだれ)の向こうに寝そべった4人が見えた。簾に顔を近づけて覗き込むのには気が引けたので、テーブルを拭くふりをしながら、簾の向こうを見続けた。
 女2人は髪を乱れさせてダウンしている。1人の男が、「カホとかヤバいから、とりあえずそっち行くわ」と電話で話していたのが聞こえたので、今日もなんとか平和に閉店だなと胸をなでおろした。
 俺が偵察を終えるとすぐに、足元がおぼつかない4人が座敷から出てきて、会計を済まし、入店時の元気な姿の面影は一切なく、女は2人とも男に担がれるようにして帰っていった。あんな状態にまでなって飲んで楽しいのかと、彼らには謎と不満が残った。

 彼らのいた座敷は、嵐の後のように、飲み物と食べ物の染みがいたるところに散りばめられ、煙草の吸殻に、枝豆の皮に、焼鳥の串がジョッキに敷き詰められていて、彼らの部屋の状態が想像できた。立つ鳥跡を濁さずとまでは言わないが、店員も人間、賃金を払えば許されるという考えで、こちらへの配慮ゼロというものも困る。お客様は神様だ、なんて客の方が言うセリフじゃない、店員のセリフだと俺は思う。
 火を噴くほどではないが、色んな苛立ちが俺の頭を熱くして、ダラダラとお盆に空の器を写していると、分かりやすく何かに絶望したような山下の、「うーわ」という声が座敷に流れ込んできた。

「どうかした?」俺は座敷から出て、トイレの前でしゃがみこんでいる山下の背中に向かって声を掛けた。
 山下は返事をせずに、トイレを指差し、肩越しにこちらを向いた。その時の山下の悲壮感漂う表情を見て、俺は全てを察した。
 馬鹿騒ぎする若者の飲み会にはつきものだ。勘弁してもらいたいが、つきものになっている。ゲロだ。
 山下の様子から、その他に可能性は考えられなかったが、一応トイレのドアを開けて確認する。
 あぁダメだ。紛れもないゲロが便器を外れて、トイレの床に広がっている。トイレまで来て、なんでそこに吐くかな、と気が滅入った。ゲロであることを自分の目で確認すると、すぐにドアを閉めた。

 とりあえず、トイレまで来た健闘は称える。それでも、何も言わずに帰るのはやめてくれ。他にお客さんがいなかったから、よかったが、下手すればゲロの第一発見者が山下じゃなかったわけだ。
 それにしても座敷で吐き散らかしてなくてよかったなと、どうでもいいことを安心した。ゲロにメンタルをやられ、顔が一気に老いた山下を置いて、俺は厨房にゴム手袋と、黒のビニール袋、アルコールスプレーを取りに行った。

「もしかして……」
 ゴム手袋をしてアルコールスプレーとビニール袋を持った俺に、坂本さんも何か察したのか、恐る恐る尋ねてきた。黒子さんは坂本さんの後ろで、鍋を全力で洗っていた。
「トイレが大変なことになってました」
「あらら、絶対さっきの若者だね」
「ですよね。まさか、ここにもあんな客が来るとは思わなかったですよ」
「いや、まぁたまにいるよ。駅前のチェーン店よりかは少ないだろうけど……。処理は任していい?」
「前のところは、やっかいな客は毎日のようにいましたし、ゲロ処理もしょっちゅうでしたんで、慣れてますよ」口では慣れてると言ったが、久々のゲロ処理には嫌気がさした。「とりあえず、拭き取って、アルコール吹きかけといたらいいですよね?」
「そうだね。まぁゲロ処理のスペシャリストに任せるよ」坂本さんは音を出さずに手を叩いた。「明日トイレ掃除しておくから。ある程度でいいよ」
「そのスペシャリストは全く嬉しくないですね」俺はアルコールスプレーを指に掛け、西部劇のガンマンのようにくるりと一回転させた。
 対決するのは早打ちで噂のガンマンでもなく、町を襲う悪党集団でもない。馬鹿な若者が撒き散らしていったゲロだ。

 再びトイレの前に戻っても、道端の地蔵のように山下は動いた様子がなかった。さっきまでは大炎上していた山下だが、今は東京湾のどん底に沈められているようだ。全ては馬鹿騒ぎした若者のせいだ。

「さぁやりますか」俺はそう言って、ゴム手袋を引張り、指先に手袋を合わした。
「まじか。マスクとかしないの?」口角も、目尻も垂れた山下が俺を見上げている。
「あぁ、忘れてた。あと鼻栓もだ」ゲロ処理のスペシャリストは鼻栓とマスクは欠かせない。一度もらいゲロをしてから、欠かせなくなった。にも関わらず、久々だったので、マスクをするのすら忘れていた。

 もう一度、厨房に行き、ティッシュを小鼻が膨れ上がるほど詰め込んで、マスクをした。坂本さんは、「完全防備だね」とニヤついており、黒子さんは俺に見向きもせず作業台に洗剤を撒いて必死に洗っていた。

 完全防備の状態でトイレの前に行くと、山下は先程よりトイレから離れた位置に、さぁどうぞ、と俺に道を譲るように立っていた。
「さぁやりますか」俺は仕切り直すように言った。
「頑張って……」山下の応援が小さく聞こえた。
「おう」
 トイレのドアノブに手をかけて、ドアを開けずにふと後ろを見ると山下は、親の家事を見つめる子供のように、座敷の方から四つん這いで覗いていた。

 そんな他力本願な山下を見て、俺は少し不満を感じた。なんで俺がゲロ処理をしているのだと。第一発見者の山下がゲロ処理をするのが筋じゃないのか? 女だからなんて甘ったれた理由で、俺がゲロ処理しているのは、普段の山下の言動からして矛盾だ。それに今、普段俺をいいように扱い、言いたいことを言っている山下の上に立てるチャンスだ。

 俺はトイレの方を向いたまま、「山下」と呼んだ。
「ん? 何?」
「山下も手袋とマスクしてこいよ」
「え? なんで?」山下は驚きと困惑を混ぜた声で言った。
 やはり山下は自分がゲロ処理をするつもりなんて微塵もなかったのだろう。その甘ったれた根性を叩き直してやる。
「山下は今までゲロ処理ってしたことあるか?」
「ないよ。居酒屋でのバイトは初めてだし」
「なら、尚更だ。この機会にゲロ処理を出来るようになるべきだ」声色と口調を黒子さんのように落ち着かした。真面目トーンに変えて、山下に迫る。
「え……、いやー」山下にいつもの強さはなく、身じろいでいる。
「これからも俺が毎回毎回、ゲロ処理をするのはフェアじゃないだろうよ」振り向いて山下を見ると、完全に目が泳いでいた。「居酒屋で働くうえでは欠かせないスキルの一つ、それはゲロ処理だ。山下は酔っ払いの絡み、無茶ぶりには完全に対応できるスキルを身に着けている。じゃあ次はなんだ? そう、ゲロ処理だ」
 山下は口を真一文字に結んでいる。そこで俺は、「酔っ払いを運ぶとかは、力仕事だから、俺がすることには文句はない。だけど、これに関しては筋力は必要ない。気持ちの問題だ。男女差はないわけだ」と、それっぽく言葉を並べた。我ながら上手い。

 すると、山下は決心がついたのか、表情をこわばらせたまま厨房に行き、マスクとゴム手袋をして戻ってきた。その時の山下の目は、俺への憎しみで溢れていた。どうせなら、あの馬鹿な若者たちを恨んでくれ。このゲロは俺のゲロじゃないんだから。

「さぁ今度こそいくぞ」今度は山下にも声をかけるように言った。
「うん」と、山下の乗り気でない返事が聞こえたところで、トイレのドアを引く。やはりそこには、見たくもない光景が目に入る。綺麗な状態のトイレであることを願って、ドアを開けた自分がいたが、そんな無駄な奇跡は起こってはいなかった。
 とりあえず、ゲロを隠すようにトイレ全体に、惜しみなくトイレットペーパーを敷いていく。そして、トイレットペーパーの上から、両手で寄せ、かき集めるようにして、ゴミ袋に入れる。その作業の繰り返し。

 ただ、思いの外水分量が多かったので、トイレットペーパーから垂れたゲロが、ビニール袋の口についていたようで、俺がビニール袋に手を入れた時に、そのゲロが俺の手首のあたりを濡らした。
「うわ! まじかよ!」俺は持ち前の反射神経を無駄使いし、猫が驚いて飛び跳ねるように立ち上がり、持っていたゴミ袋をトイレに投げ捨てた。
「なにやってんのバカ!」俺の後ろにいた山下が両手で俺の背中を押して、俺がトイレから離れるのを抑えた。
「いや、手か腕についたんだって」俺が振り向いて、ゲロが付いたであろう場所を山下に見せつける。
「バカ! 汚い手をこっちに向けないでよ!」山下は両手をこちらに向けたまま、後退りし、壁に背中をつけた。
「いやいや! 拭いてくれよ!」
「いやよ! 自分で拭いてよ!」
「俺が処理してんだから、それくらいしてくれよ!」
「それはそうなんだけど、ほんとに今は勘弁して」手で顔を覆いながら山下は懇願した。  

 これ以上、ゲロを肌につけたままいるのは、不快だし、山下が拭いてくれそうにもなかったので、仕方なく自分で、トイレットペーパーで拭き取った。
 トイレの床を何回もトイレットペーパーで拭き取って、ゲロの存在がほぼ見えなくなったところで、アルコールを吹き付け、更に何回も拭き取った。すると、さっきまでの絶望的なトイレの状態から、普段のきれいな状態に復活した。
「ふー」マスクと鼻栓を取ると、声に出して息を吐き出す。山下も一件落着、と安堵を露わにしながら、マスクと手袋を取った。
「よし! じゃあ、ゴミ袋捨てといて!」俺はそう言って、トイレの床に置かれた、ビニール袋を指さした。
「え? なんで私が」と言わんばかりの目で、山下は俺を見てきたので、「ごみ捨てくらいしてくれよ」と、ゲロ処理の疲労を滲まして、頼んだ。  
「……わかった」山下は納得のいかない表情のまま、トイレのビニール袋をつまんだ。その瞬間に、「何か濡れてる!」と叫び、ビニール袋をトイレに投げ捨て、俺のシャツを思い切り掴んできた。みぞおちに拳を打ち込まれたのかと思ったほどの勢いだった。  

「なにやってんだよ!」狼狽する山下に、俺も落ち着いてはいられなかった。
「手がなんか濡れた! 手が濡れた!」そう訴えながら、山下は俺のシャツで自分の手を拭いている。
 こんな山下初めて見る。顔を真赤にして、感情を惜しみなく出している。
「待て待て、落ち着け、落ち着け」と、俺は落ち着きなく山下を宥めた。山下は俺のシャツを掴みながら、小刻みに震えている。「あれだ、袋にも一応アルコールをかけてたから、濡れてただけだって、お前の想像するような液体じゃないって」
「いや! 濡れた! 最悪!」山下は俯いて俺のシャツを強く握る。
「大丈夫だから、違うから」
「最悪。最悪」と、呟く山下の両肩を掴み、引き剥がそうとすると、山下の手の力が抜けた。
 山下の目線は、さっきまで握っていた俺のシャツの方を向いていたが、その目は赤くなり涙ぐんでいた。
「アルコールだから心配すんなって」俺は固まった山下の肩を軽く叩いて、トイレに放り投げられたビニール袋を拾い、ゴミ庫に持っていった。    
 
 その日の帰り道は山下とは一言も会話をしなかった。国道沿いの歩道から、山下が自分のアパートのある生活道路に曲る時に、俺が、「おつかれ」と一方的に言っただけだ。山下は会釈だけして、住宅街の中に進んでいった。

 最近気が強いな、と思っていた山下の涙ぐんだ目を見て、どうにかゲロ処理に加担させようとしていたのを反省した。
 手にゲロが着いたと勘違いした瞬間、厚化粧ブスへ悪態をついたように、俺にもブチギレて来るのかと身構えたが、山下にそんな余裕はなかったようだ。自分の手が汚れたことにショックを受けたのだろうけど、泣くとまでは思わなかった。男の俺からしたら、手にゲロがついたくらいで泣くことは考えられない。実際について、平常心を失いはしたが、泣きはしなかった。だから、俺を顎で使う山下の涙の意味がよく分からなかった。驚きの感情の行き着く先は涙なんだろうけど。

 女子が目の前で泣くのを久々に見たせいで、嫌な記憶を思い出した。

 山下の前に、俺の目の前で泣いた女子は紗(さや)華(か)で、それは紗華と別れた時だ。あいつが浮気した癖に、俺が紗華の浮気を理由に別れを切り出すと、浮気は俺のせいだと泣いて文句を言ってきた。泣きたかったのは俺の方だ。
 

 大学入学と同時に、大学が斡旋(あっせん)している家賃が安いアパートへ引っ越した時、隣の部屋にいたのが紗華(さやか)だった。

 俺は高校の寮から、新居となるアパートが近かったので、軽トラをレンタルして1人で荷物を運んだ。寮からアパートに荷物を全部運び終えて、足りない家具、家電を買いに行こうと部屋から出ると、隣の部屋の前に女の子が1人立っていた。

「あのー、隣に住む、芦田紗華(あしださやか)と言います」小さな声で自己紹介をすると、華奢な彼女はお辞儀の見本のように体の前で手を重ねて、頭を下げた。すると、彼女の後ろ髪のポニーテールが自身の左肩を撫でた。

 頭を上げた紗華の顔に化粧っ気はなく、大学生というよりも、未だに高校生でも通用する幼さが残っている。俺の手に収まりそうな小さな顔に、黒目が目立つ大きな目は、光の当たりかたのせいか少し潤んでいるように見えた。
「どうも、竹内昌也です! 引っ越しでお騒がせしてすいません」紗華を見ながら俺は、軽く頭を下げた。謝っている割には、隣の部屋が可愛い女子でヘラヘラしてしまった。
「いやいや、全然。もしかして今から、家具を買いに行ったりしますか?」
 俺に恐れながら言ってきた気がした。やんわりと垂れた眉の紗華は、初めて会う俺に恐る恐る近づいてくる子犬のようだ。
「そうですね。足りない家具と家電買いに行きますね」駐車場に止めている軽トラを横目に見た。
「あのー……あたしも一緒に行っていいですか?」
 紗華は、散歩を期待する犬のように上目遣いで俺を見た。すごい控えめで、すごい俺にビビっている紗華に、「一緒に行っていいですか」と言われ、俺は思考が追いつかなかった。こんなにも大人しいナンパがあるのか? 俺が買う家具にでも興味があるのか? そう考えだすと、ますます彼女の言葉の意味が分からなくなった。
「え? なんで?」俺も紗華のように慎重に言葉を発した。
「あたし昨日引っ越してきたんですけど、予定より到着が遅れちゃって、家具とか揃えられて無くて、免許もないし……」紗華は俯いて、前髪を横に流す。「歩いて買いに行っても、持って帰ってこれないし、配達でも届くのは明日になっちゃうだろうし。もう床で寝たくないし……」
「え? 床で寝たの? カーペットもなにもないの?」
「一応、シーツは敷きましたけど」
 紗華は前髪を押えたまま俺を見た。その目は今にも泣きそうなほど潤んでいる。捨てられている子犬にこんな目で見られたら、一度は通り過ぎても気になって、結局は子犬の元に戻ってきてしまう。それと同じ、今目の前で困っている彼女を放っておける訳がない。可愛いし。
「それはほぼ床だよ。よし、じゃあ一緒に行きますか」
「いいんですか? よかった!」紗華の目が喜びと共に大きく見開くと、陽の光を反射させた。
 紗華が口角を柔らかく上げて、安堵の笑顔を浮かべると、「散歩」というワードに反応し、しっぽを振って喜びを表した子犬に重なって見えた。実際はポニーテールが春風に揺らされている。
 まぁ別に自分のついでだから、特に問題はない。役に立てるのであれば光栄だった。

「昨日引っ越して来たって言ってたけど、どこから来たの?」
 軽トラに乗り込んで、アパートを出てすぐ、俺は助手席で両手を膝に乗せて、小さく座る紗華に尋ねた。
「長野の松本市。って言っても分からないですよね……」紗華は地元が周知されていないであろう恥じらいを語尾に含ませた。
「松本市なんだ。知ってるよ」と、軽快に言いたいところだったが、正直今日初めて聞いた。九州の県名と場所を言い当てることすら出来ない程度の、俺の地理の知識だと、長野の位置を把握するだけで精一杯だ。航空写真の日本地図でも真緑で、木しか生えてない所だと思っていた。

「んーごめん、知らない。松本って、人の苗字みたいだね」
 これが俺の精一杯だった。
「まぁ分からなくもないけど、埼玉の川口市も苗字みたいだなって思ったよ」少々困った返答が紗華から聞こえた。「竹内くんは、アパートから実家近いの?」
「あぁ、近いのは高校の寮だよ。実家は千葉なんだ」
「そうなんだね。千葉の人って皆ピーナッツ好きなの?」
 紗華は千葉の特産品の知識は持っているようだ。賢い。
「嫌いな人は少ないだろうけど、千葉県民でもそんなに食べないよ」
「あ、そうなんだね」紗華は軽く咳をした。「まぁそんなもんだよね。私も蕎麦そんなに食べる訳じゃないし」
「え? 蕎麦?」赤信号で車を停止させると、紗華の方を見た。
「一応、地元は蕎麦が有名なんだけど」紗華は、今度こそ知ってるよね? と確認するように見てきた。
「あーそうなんだ。ごめん。俺地理弱いんだよね」紗華から目線を外し前を見た。まだ信号は赤だった。「長野は、山と雪のイメージが強いかな」
「まぁ、長野の認知度なんてそんなもんだよ。実際、山と雪だし」
「なら、スキーとかよくするの?」
「いや、スキーは授業であっただけで、それ以外じゃしたことないよ」
「授業であるんだ。いーなー」
「私はセンス無いから辛かったよ。水泳のが好きだったな」
 紗華の水泳してる姿を少し想像したが、クロールで息継ぎをしながら、泳いでる姿よりも、半分溺れたような犬かきをしている姿のほうが、容易に想像できた。言わないけど。

「よし、着いた」土地の無駄使いにも思えるほど空車が目立つ大手家具店の駐車場に、軽トラを停めると、俺は軽トラから飛び降りた。
「本当にありがとうございます」軽トラを出た瞬間、リセットボタンを押されたように、紗華が最初のようにかしこまった敬語に戻った。
「敬語はやめてよ、同い年なんだから」同い年と言いながら、紗華の敬語を指摘すると、どこか上から言っているように自分で感じた。
 家具店では、紗華はベッドフレームにマットレス、敷布団、掛け布団、枕の寝具を一式購入していた。俺は、ラックと、小さなテーブルにカラーボックスを買った。
 洗濯機に冷蔵庫、電子レンジも今日買う予定ではあったが、紗華の分の家電も考えると荷台に載るかどうか微妙だった。一度荷物をおろしにアパートに戻ってから、家電を買いに行こう、と紗華に伝えると、「家電は急がないから、私は今日買わなくても大丈夫」と、言うもんだから、そんな紗華の手前、自分だけ家電を揃えるのはどこか気が引けた。なので、俺も家電は明日以降に揃えることにした。特に急ぎで必要なわけではないから何の問題もない。

 アパートに着いて、荷降ろしをする流れで、俺は紗華の部屋に当然のように入った。生まれて初めての女子の部屋は、ダンボールで溢れた、ただの物置部屋のようで、女子の部屋は華やかさも、生活感も一切なかった。引っ越したてだから仕方がないが、隣の自分の部屋となんら変わらない景色に、玄関先で緊張して早まった分の鼓動がもったいな気がした。

 1Kで8帖ほどのリビングに、ダンボールが置かれていないスペースがあり、そこには丁寧に畳まれた空色のシーツがあった。あぁ本当にシーツで一晩過ごしたんだなと、他人事ながらやるせなくなった。
「そうか、枕もなかったんだね」
「そうだよ。だから、バスタオルを丸めて枕にしてたんだ」俺の後から部屋に入ってきた紗華は掛け布団を床に落とした。
 紗華の平気そうな言い方から、今となってはベッドのない状況で一晩を過ごしたことを、どこか誇らしげに思っているんじゃないんかと思える。

「まぁ、今日からは無事にベッドで寝れるかな!」紗華は、俺が運んだベッドフレームのダンボールを開ける。そのダンボールからは、解体状態のベッドフレームと思われる、鉄の棒がたくさん出てきた。
「あぁ、マジか……」紗華は長さも形状も違うベッドフレームの部品を持って嘆いた。
 ダンボールを開けた瞬間に、完成状態のベッドフレームが飛び出してくるとでも思っていたのだろうか。
「そうか、自分で作らなきゃダメなんだ……」紗華は同封されていた説明書をパラパラとめくりながら呟く。
やはり、組み立てることは頭になかったらしい。さすがの俺でも分かっていたことを、紗華は言葉にした。
「いやいや、安い家具ってそういうもんでしょ? こういうの組み立てたことないの?」
「ずっと実家暮らしだったし、家じゃ布団だから……」紗華は両手を床に付き、正座を崩して、分かりやすくへたりこんでいる。時代劇かなんかで、地面に倒れ込む着物の女性みたいだ。

 細長いスキニーのジーンズに浮きあがった紗華の脚を見て、俺が普段見てきた屈強な男子の脚と本当に同じ構造をしているのかなんて思う。よくもまぁ、こんな脚で歩いてられるな、と余計な心配までしてしまう。また、ポニーテールの毛先の細さにも心配になる。野球部の針金のような坊主頭と同じ成分なのか不安になった。あまりにも熱いお湯だと溶けてなくなってしまうんじゃないか? とあり得ない余計なお世話まで考えてしまった。
「組み立てないと、ベッドにならないよ。マットレスがあるから、今日は床で寝ることはないだろうけど」
「憧れのベッドだったのに……」紗華は振り返り俺を見上げる。また目が潤んでいる。

 多分この子はドライアイなんかで困ることはないのだろうな。なんて、俺が妙な安心をすると、「一緒に組み立てては貰えませんか?」と、女中が旦那様に、へたりこみながらも何かを訴えるように紗華は俺に懇願した。そんな目で見られると、断れない。なんせ可愛いし。
「別にいいよ。こういうの慣れてるし」ついさっき、自分のベッドを組み立てたばっかりの俺は玄人感を出して答えた。
 粋がって、紗華の手伝いをすると言ったが、紗華の買ったベッドフレームは、ネジの種類が多く、俺のとは違って非常にややこしかった。結局一時間位は格闘したはず。完成して紗華に感謝感激されると、俺は紗華の部屋を後にした。
 それから、自分のラックとカラーボックスを組み立て終えると、レンタカー会社の人が軽トラを引き取りに来た。外に出ると、いつのまにか日は傾き、夜が始まろうとしていた。

 1日お世話になった軽トラを見送り、部屋に戻ろうと振り返ると、紗華がドアを少し開けて、こちらを覗いていた。
「あ……、今、車返したんだね」俺と目が合うと紗華は、するりとドアから外に出てきた。「ごはんどうするの?」
「んーコンビニ弁当かな? フライパンもなにもないし」
「なら、一緒に食べようよ。さっきスーパーで材料買ったはいいけど、冷蔵庫ないの忘れてて、今日中に全部食べれる気がしないし」
「え、いいの? フライパンとかあるの?」
「ベッドはなかったけど、調理器具は一人前に揃ってるんだよね」紗華は照れくさそうに、目線を下に落とす。「炊飯器もお米もあるから、コンビニ弁当よりもちゃんとした食事は出来るよ」
「なら、お言葉に甘えて」
 紗華に続いて、俺は再び女子の部屋に足を踏み入れた。今度はベッドメイキングが施されたベッドに、よく分からない柄のカーペットが敷かれたリビングに変化していた。それでも、まだダンボールがリビングを占領しており、女子の部屋にはまだ程遠かった。なんと言っても、緊張していない俺がそれを証明していた。

「くつろげるような状態じゃないけど、くつろいで待ってて」紗華はキッチンでフライパンを火にかけている。
 今思えば、引っ越しで片付いていない部屋に、よく今日会ったばかりの男を入れるな、なんて、大人しい印象だった紗華の警戒心を心配したが、この場合は引っ越しというイベントのせいなんだろうかと、1人で勝手に納得した。
 もしかすると男に見られたくないものとか、まだ、片付けていないんじゃないかと思って、部屋を見渡すも、ダンボールの一つ一つがきちんと閉ざされた状態で、中身が見えることはなかった。ただ、それぞれのダンボールの上にマジックペンで中身が書き記されてあり、その一つに「肌着、下着、靴下類」と小さく書かれたていたので、思わず凝視してしまった。ダンボールで溢れている部屋で唯一、女子の部屋ということを感じた。ただのダンボールに書かれていた文字に。

「はい、お持たせしました」と、後ろから声を掛けられ、俺はビクついた。別に、下着と記されたダンボールを開けて、中身を物色したわけではなかったが、後ろめたさがどこかにあった。俺はごまかすように、「いやいや、全然!」と胸の前で両手を広げた。焦りながらも、彼女の胸を見てしまう。もしかして案外……、なんて想像しかけたが、幸いにも料理の香りが鼻孔をくすぐったので我に返る。

 紗華が持っていた皿には、白米の上に、ひき肉にレタス、トマトが乗っていた。
「テーブルもないんだった」少し困惑した紗華が、近くにあった雑貨類と書かれたダンボールの上に2つの皿を置いた。「こんなとこで、ごめんなさい」
 紗華が謝ったテーブル代わりのダンボールのことよりも、俺はダンボールの上に置かれた見たこともない料理の方が気になって仕方なかった。
「え? なにこれ?」俺は名前が分からない料理を指差して、紗華を見た。
「え? タコライス知らないの?」紗華は分かりやすく目と声を大きくする。
 今日は知らないことばかりだ。
「タコライス? どれがタコ?」俺は皿の上に乗っていたスプーンで、そのタコライスとやらを物色した。タコのようなものは見当たらない。ひき肉とトマトとレタスは確認できた。
「いやいや、タコライスのタコって、タコスからきてるんだよ。タコスの材料をご飯にかけたのをタコライスって言うんだよ」紗華は大きくした目を細め、笑いながら説明した。     
 そんな洒落たものじゃなく、てっきり、蕎麦が出てくるもんだと思ったのは言わなかった。
「メキシコ料理とはね。すごいね」
「いや、タコライスは沖縄料理なんだよ」紗華は沖縄料理のタコライスを混ぜている。
「え? タコスっていうもんだから、てっきりメキシコかと」俺は自分のタコライスを混ぜていたが、思わず紗華を見た。紗華もつられて手を止めた。
 長野の名産品を当てられなかった分、タコスはメキシコ料理であることを知っているんだと言わんばかりに、紗華を褒めたつもりが、どうやら違ったようだ。

「そー、タコスはメキシコだけど、タコライス発祥の地は沖縄なんだって、変な話だよね」紗華は俺に同情すると、思い出したように手を動かして、タコライスを頬張った。「あぁー久しぶりに作ったけど、美味くできたほうかな」
 俺も口に運ぶ。なんだこれ、美味い。肉と野菜と米を一度に口入れることなんてあまりないが、なんだこれ。美味い。よく分からないソースのおかげなのか、全部の食材が仲良く共存している。

「なんで、こんなに美味しいの? ほんとに同い年?」俺は感動のあまり、口にタコライスを残しながら、興奮気味に紗華の年齢を疑った。
 高校3年間は学食と寮食で、褒めるような美味しい料理を食べておらず、料理に対するハードルは下がりに下っていたとはいえ、たまに帰省した時に振る舞われる、贅沢な100グラム千円の国産牛を使った、母親の手料理よりも、近所のスーパーで買った材料で作られた紗華のタコライスのほうが美味かった。
「べつにこれくらい普通だし、私は18歳だよ。浪人してないよ」テンションが上がった俺を見て、紗華は歯を見せた。
「いやーこんな料理なら毎日でも食べたいね」俺はタコライスなるものを頬張る。
俺のほうが紗華よりも明らかに量が多かったが、紗華よりも早く食べ終わりそうだ。味わっていないように思われるかもしれないが、むしろその逆。ずっとこの味を味わい続けたい。たまに混ざるトマトの酸味が、タコライスの味に変化をもたらす。飽きない。
「こんな料理だったら、いつでも作るよ」
「いや、マジでお願いしたいね。いくらか出すからさ」
「ほんとに? そこまで? なら、作ろうかな?」紗華は思いもよらぬ俺の提案に圧倒されながらも、嬉しそうに笑っていた。

 紗華はこの発言通り、この日以降も料理を作っては俺の部屋に持ってきてくれた。俺が部活を終えて夜遅くに部屋に帰ると、紗華がインターホンをならして料理を持ってくるという流れができた。その料理を持ってくる頻度も週に1日から、俺がバイトでいない日を除いた、週5日になりだした時に、当然のごとく付き合い始めた。

 別に付き合い始めたからと言って、俺は部活とバイトで忙しく、紗華も土日はコンビニのバイトで、休日にどこかデートに行くことは少なく、どちらかの部屋で、2人で過ごす時間がほとんどだった。
 そんな生活に紗華は文句を言わなかったし、ほぼ毎日会えていたので、俺も不満はなかった。だが、実際にそんな付き合いで不満がなかったのは俺だけのようで、紗華には我慢をさせていたようだった。
 付き合い始めて1年以上経ったある時から、紗華が家にいる時間が減って、俺に料理を作ってくれるペースも週5から徐々に減っていった。まぁ毎日作るのも疲れるし、バイトも忙しいのだろうと、楽観的に考えていた俺がバカだった。

 2回生の夏休み、俺がサッカー部の遠征で沖縄に行った時のことだった。
台風が近づいているからということで、予定より1日早く沖縄から埼玉に戻ってきた。紗華に対して、夢の国へのチケットを急に渡す、みたいなサプライズをしたことがなかったので、一度は驚かせてみたいなと思い、あえて紗華には帰ることを知らせなかった。
 アパートの前まで着くと、紗華の部屋は電気がついていなかったので、とりあえず、自分の部屋で電気をつけずに待機することにした。あくまでも待機のつもりだったが、遠征の疲労もあり、真っ暗な部屋のソファで待機していた俺は気づかないうちに寝てしまった。

 どのくらい寝たか分からなかったが、隣の部屋からの微かな物音で起きた。寝起きで頭が働いていない俺でも、隣の紗華の部屋から聞こえてくる音が、テレビの音じゃない、生の人の声であることには気づいた。誰か友達でも呼んだのかと思い、壁に耳を当てると、紗華の大人しい笑い声と、もう1人の低い笑い声が聞こえてきた。
 予想外の男の声に一気に目が冷め、疲労は吹き飛んだ。どのエナジードリンクよりも、浮気を疑わせる男の声に、疲労回復効果を実感できた。実際はアドレナリンが大量に脳内に放出されたのだろうと思われる。
 全身の血が頭部に集結しつつある俺だったが、紗華には兄が2人いるとは聞いていたので、兄が泊まりに来たんだろうと1人で納得して落ち着こうとしたが、しばらくして紗華の鳴き声と、一定のリズムで何かがきしむような音が聞こえてきた時には、さすがに自分を説得するための楽観的な考えはできなくなっていた。
 こめかみから血が吹き出しそうになった俺は、全力で壁を殴ると、壁は若干へこみ、不快な声と音はパタリと聞こえなくなった。

 静かになったところでこのまま寝られる気がしなかった。俺は壁を殴った勢いそのまま、裸足のまま外に出て、紗華の部屋のインターホンを押した。
 いつもならすぐに出てくる紗華は、出てこない。俺が玄関の重いドアを開けた音で反応して、インターホンを押すと同時に出てくることもある紗華は、今は出てこない。
 もう一度インターホンを押す。それでも紗華は出てこない。俺はドアを殴った。さっきの部屋の壁とは違い、鉄かアルミかよく分からない金属のドアは変形すること無く、鈍い音が響くと共に俺の拳に痛みを与えた。
 正直、紗華の部屋の合鍵は持っていたが、使わなかった。無理に開けて中を見たところで、見たくもない物を見てしまう恐怖があった。それに、まだどこかで紗華を信じているのか、現実を信じられなかったのか、鍵は使わなかった。
 いつもみたいに、インターホン越しか、直接ドアを開けて、「どうぞ」と言って歓迎して欲しかった。でも今は、そんな風に開く気配はなかった。
 結局、気配通りドアが開くことはなく、紗華は部屋に籠城を決め込んだ。出てきたところで、どうしたらいいかも分からなかったから、それでよかったのかも知れない。

 裸足の足の裏がコンクリクートに冷やされ、その冷たさが頭部に届いた頃に俺は諦めて、部屋に戻って、頭を冷やすように冷たいシャワーを浴びた。紗華に対しても一気に冷めた。馬鹿らしくなった。
 落ち着いてみれば、脳内麻薬の効果も切れ、副作用で、回復したと勘違いした疲労が倍になって帰ってきて、睡魔は感情を押し切り、いつの間にか寝ていた。
 俺のこれ以上無い怒りの感情を抑え込んだ疲労だけあって、目覚めた時には12時を超えており、汗で髪が濡れていた。目覚めてしまえば、熱気が籠もった部屋に耐えられず、よくもまぁこんな暑いとこで寝ていたな、と自分の睡眠力に尊敬した。

 クーラーをつけようと、ベッドから降りて立ち上がると、ソファに座っていた紗華が視界に入り、思わず、「うおっ」と声に出して、崩れるようにベッドに座った。
「ごめんなさい」紗華はソファに座ったまま、こちらを向き、両手を膝の上に置いて、頭を膝に近づけた。
「えっ、あぁ」
 寝起きであるからか、まだ疲労がたんまりと残っているからか、頭が働いていなかった。紗華の、「ごめんなさい」が、合鍵で忍び込んで、寝起きのところ驚かしてごめんなさい、という意味で一度は捉えた。それも束の間、昨晩の紗華の壁の向こう側の声を思い出し、怒りの感情が追い焚きされると、浮気してごめんなさい、という意味に上書きされた。いつもの俺への態度じゃないように思える紗華と、紗華の後ろの壁のへこみが、昨晩のことが夢じゃなかった、と無情にも俺に理解させた。
「謝るってことは、浮気だった、ってことでいいのか?」冷静さを取り繕いながら、紗華に追求した。
「はい」
「相手は誰だ?」
「えっ、いや……」紗華は口を結ぼうとしたが、俺の睨みが聞いたのか、「バイトの先輩」と俯いて白状した。
「バイトの先輩ね……」
「お願いだから、先輩には何もしないで」
 素直に白状したと思えば、男を守るように懇願してきた。人の彼女に手を出しておいて、無事でいられるなんて思っているのが間違いだと、俺の浮気男に対する暴力を肯定しようかとしたが、それ以上に、浮気男を庇う紗華の思考が気に入らなかった。
「何もしないで怒りが収まる気がしないんだけど」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。私が悪いんです。だから先輩には何もしないで」
「あぁそうだな。お前が悪いんだよな。お前の貞操観念の低さが悪いんだよな」自分が悪いと言ってまで、浮気男を守る紗華に、持て余している怒りの感情をぶつける。「自分が悪いと言うんなら、俺がいるのに、その先輩の誘いに簡単に乗ったってことでいいんだな? 結構前からなんだろ? 昨日が初めての浮気じゃないんだろ?」
 紗華は手に顔を伏せて泣いている。
「お前が、先輩の誘いを断れば、こんなことにはなってないってことでいいんだよな? 薬でも盛られたわけじゃないんだろ?」俺の攻めに反応はない。紗華はただ泣いている。嗚咽と鼻水をすする音だけが紗華から聞こえた。「ふざけんなよ……」
 自分で悪事を働いておいて、それがバレた瞬間に泣き出す人間の感情が分からない。バレなければずっと、平気な顔して過ごすくせに。その涙は罪悪感からの涙じゃないだろ。せめてものの罪悪感があるなら、1回浮気しただけで、涙ながらに自首するもんだろう。相手に弱みを握られているんじゃ話は別だが、俺がいない日をリークして、男を部屋に連れ込んで、壁越しでも分かるくらい楽しそうに会話しているようじゃ、脅されているような強制的な浮気でもないはずだ。

「……悪いよ」
 声を出さずに泣いている紗華を、頭とは真逆の冷めた目で眺めていると、紗華がしゃっくり混じりに口を開いた。
「……昌也も悪いよ」
 紗華自身でなく、浮気男でもなく、まさかの俺が悪いと言われ、あっけにとられた。街中で倒れていた女性に声をかけた瞬間、「痴漢」と叫ばれるくらい意味がわからなかった。
「俺の何が悪いんだ?」
「いっつも、家ばっかりで、どこにも連れて行ってくれなかった」うさぎのように目を赤くした紗華が俺を睨んだ。
「どこにもは言いすぎでしょ、確かに遠方の旅行は、東京観光くらいしか連れて行けなかったけど、色んな所で外食したり、映画見たりしてたじゃん」
「ディスニー行ってくれなかったじゃん」
「あれは急遽試合が決まったから仕方ないじゃん。そんでまた行こうって話してたでしょうよ」
「そう言って、半年経ってるんですけど」
「それは悪かった。でも、それだけの理由で浮気したのかよ」
「それだけって何よ!」
 涙で、窓からの日差しを反射させた瞳で、紗華は声を荒げた。初めて会った時の紗華と、同じ人物の声には思えなかった。

「たまにのデートも近場ばっかりで、貴重なデートを何だと思ってたの?」
「だからって浮気してもいいのかよ」
「だって、林(はやし)さんは色んな所に連れて行ってくれて、私の知らない世界を教えてくれた。昌也よりも私を大事にしてくれた」
「俺は別に大事にしてなかった訳じゃないし。紗華も特に文句言わなかったから」
「いっつもサッカー、サッカー、って私は置いてきぼりだった」
「それは仕方ないだろ。サボるわけにはいかないんだから」
「だから、私が浮気しても仕方ないじゃん。昌也から貰えないものを、林さんがくれるんだから」
 感情任せで、意味が分からなかったが、紗華は浮気の原因を俺にして、浮気を肯定しようとしていることは理解できた。

「わかった。それじゃあ、お前はその林さんと付き合ったらいいだろ」俺は反省の影も見えない紗華を突き放した。
「ほら、昌也にとって私はそんなもんだったんだ。サッカーの方が大事なんだ」紗華は涙ながら不貞腐れた表情で俺を見る。
「いや、お前が俺に文句を言わずに、浮気に走るからだろ」とは言わなかった。もう面倒くさい。ここまで感情的で、理性と貞操観念が欠けた奴だとは思わなかった。そんな奴は、人の彼女に手を出す、軽くてチャラついた男がお似合いだ。そして、今度はお前が浮気されて、捨てられればいい。
 俺は、「出て行け」と紗華を見ずに言った。紗華は言われるとすぐに出て行った。
 いつもは、「おやすみー」なんて言いながら出ていく紗華は、今は無言で出ていった。出て行けと言ったのは俺だが、すんなりと出ていかれると腹が立った。別に、「許してください」と懇願されても、鬱陶しく思えるだけだが。

 そんな悲劇があって、俺は近距離の市内での引っ越しを余儀なくされた。紗華に出ていってもらうほうが筋な気もしたが、紗華がいなくなったところで、壁に残ったへこみを見る度に胸糞悪い記憶を思い出して、気疲れするのは、目に見えていたし、免許もない彼女が出ていけるとも思わなかったので、別れて約半年後に俺のほうが引っ越した。

 別れてから引っ越すまでの間に、浮気男とバッタリと部屋の前で対面することはなかったが、遠目からは何度か見た。長身で黒髪短髪の男だった。パーマがかかった茶髪の男を想像していたが、実際は真面目そうな男だった。
紗華とはよく顔を合わした。その度に変に澄ました無表情の紗華の顔が鼻について仕方がなかった。事の発端はお前なのに、なんだその態度はと、何度となく言いたくなったが、実際は一切口を利かなかった。

 大人しい紗華の逆上しながら流した涙と、気が強く、打たれ強い印象の山下が流したまさかの涙が、妙にリンクした。顔も性格も涙の質も違うのに。引っ越してからは、紗華のことを思い出すことはなかったのに、こんなタイミングで思い出すとは思わなかった。

 とはいえ、紗華にはウンザリしてるし、よりを戻したいなんて一切思わない。つい最近、紗華と林が別れたと聞いたが、何も思わなかったから、これは本心だ。
ああいった、大人しそうな可愛い子ほど、裏で何してんのか分からないもんだなと、俺の中で色眼鏡が出来上がっていたのも理由の1つなんだろう。

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