居酒屋 どりーむ⑤

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 私の21歳は、どりーむで迎えた。まさかプレゼントを貰えるなんて思ってもいなかった。
 後日、竹内からじゃがりこを貰う予定ではいたが、予想外の坂本さんからのプレゼント、まさかのシャンパンには驚いた。私が酒を飲めることを知られていたかは知らないが、すごい嬉しい。人生でこんなにも早くシャンパンを口にできるとは思わなかった。ワインですら、スーパーの安物しか飲んだことがないのに。

 黒子さんには私の化粧事情を見抜かれていた。さすが黒子さんだ。他の木偶の坊の2人は一切気づいていなかったが。それと黒子さんの化粧品の知識はどこからなのか? 奥さんがいるのか、娘がいるのか。独身だと思っていた黒子さんに女性の影が垣間見えた気がした。

「あーあ、行っちゃたよ」
 私の後ろで、勇斗が少し残念そうに言った。自分を変質者呼ばわりした竹内に対して、心残りでもあるのだろうか。
「本当にごめんね。今度会った時文句言っとくから」
「だから、いいって別に。さ、帰ろう帰ろう」
 勇斗は私の頭を撫でる。私の髪の毛が好きらしい。自分には無い柔らかさがいいらしい。そういう私も、勇斗の硬い直毛の髪は私にはない硬さだから面白くて、触りたくなる。

「優しすぎなんだよ。勇斗は」私は勇斗の胸を押す。筋肉は多くはないが、私よりも固く太い骨の感触がした。「シャンパン貰ったから、一緒に飲も」
「シャンパン?」
「そう。バイト先で貰ったんだ」
「シャンパンてすごいね。そんないい酒扱ってる居酒屋なの?」
「いや、店にはワインすら無いよ」
「なんだ。居酒屋とか言って、ホントはガールズバーで働いてるんじゃないかって思ったよ」勇斗は後ろ歩きで、私のつま先から頭まで何往復も見てきた。
「普通の個人経営の居酒屋だよ」私はむっとして答える
「だって、店名がドリームってガールズバーぽい名前じゃない?」
「普通の居酒屋の、大きな店長から貰ったんです」私はからかってくる勇斗を追い抜いて、早歩きで勇斗の家に向かった。

 勇斗はサークルの先輩で、去年の文化祭で初めてちゃんと話してから連絡を取り始めて、2人で遊ぶようになって、勇斗に告白されて、付き合った。
 自分でもこんなにもトントン拍子で事が進むとは思わなかった。前々から、かっこいい先輩だとは思っていた。ただ、初めの方はチャラい人なのかなと半信半疑で見ていたが、実際はすごく人当たりがよくて、誰でも仲良く話せる人なだけで、サークルのイベントの企画、運営を仕切っていたのを見ると、軽い男の印象は消え、真面目な人で凄い、と尊敬した。
 そんな勇斗を変質者扱いした、馬鹿みたいな大きな声と勢いだけの竹内なんかと、比べ物にならない。既に大手証券会社に内定を貰っているのだから、本当に凄いと思う。
 今日だって、私が誕生日だからって、私の家の前で、私が帰ってくるのを待っていたらしい。思っていたより、遅いから、家の周りをうろついていたら、私と会ったみたいだ。こんな私の為にわざわざ深夜に来てくれるのは申し訳ないが、嬉しい。勇斗もさっきまでバイトだったはずなのに来てくれるのだから、より一層嬉しく感じる。そこで、「涼に会えたら、疲れなんて消し飛ぶよ」と、くさいセリフを平気な顔で言うもんだから、彼からの愛を実感できる。

「おはようございます」
 誕生日から2日後の日曜日、私が事務所のドアを開けると、そこにいたのは坂本さんと黒子さんだけだった。

「おはよう」と2人が気の抜けた挨拶を返す。
 そんな二人を見て私は誕生日のことを思い出して「シャンパン美味しかったです! ほんとありがとうございます!」と咄嗟に改めてお礼を言った。

「お、飲んだんだ。お口に合ったようでよかった」坂本さんは机に肘をついて満足そうに笑っている。黒子さんもビール箱の上で、どこか嬉しそうに私を見ている。
「飲みやすかったですねー。あっという間に1本開けちゃいましたよ」
「度数低いとはいえ、1人で1本開けられるとは」坂本さんは、私を褒め称えるように言った。
「いや、まぁ2人で飲んだんで……」あぁ、いらないことを言ってしまったと、口を結んだが、坂本さんは、「あぁお姉さんと同居してるんだったね」と納得していた。
 坂本さんは私が姉と同居していることを知っていたんだと思いつつ、「あ、そうです。そうです」そう私は取り繕ったが、間髪入れずに、「え? 彼氏じゃなくて?」と黒子さんが実の父親のように過敏に追求してきた。

「えっ……あ......はい」姉と飲んだことにしておけばよかったものの、突然の黒子さんの質問に素直に答えてしまった。
「あーまぁ誕生日の時は彼氏と過ごすよねー」と坂本さんは1人で勝手に納得している。
「同じ大学?」黒子さんは興味を表すように体を前のめりにして聞いてくる。
「はい。西大の4年です」
「へーカッコいいの?」今度は坂本さんが聞いてきた。わかりやすくニヤついている。
「いやー、まぁ普通ですよ」とりあえず、この話を終わらせようと、適当に彼氏の顔の説明をして、更衣室に駆け込んだ。

 普段よりも時間をかけて着替え終えて、更衣室から出ると、黒子さんはいなくなっていた。
「そういや、竹内はいないんですか?」
 普段は私より先に出勤している竹内がいなかったので坂本さんに聞いた。
「なんだか、試合で遅れるらしいよ。とりあえず、仕込みは早めにしておいたから、今は特にやることないかな」
「あ、そうなんですね。珍しい」

 てっきり、あの夜のことで私に顔向けしたくないあまりに、休んだのかと頭に浮かんだが、相手はあの竹内だ。そこまでメンタルが弱い輩ではないと飲み込んだ。前回のことは勇斗も許しているし、私もじゃがりこ3つで許すことにしよう。
「さっきから何調べてるんですか?」坂本さんが絶対につけないような細い女性用の腕時計のサイトを見ていたので坂本さんに尋ねた。

「あぁこれね。時計見てるんだよ」
「いやまぁ、それは見たら分かりますけど。なんで女性用の腕時計? 奥さん用ですか?」
「いやいや、僕、奥さんいないから。元嫁ならいるんだけど……」坂本さんは恥ずかしそうにマウスを動かしている。「これは、娘用にね。娘は元娘にはなんないからさ。まぁずっと会ってないけど」

 正直、一か八かで言ったが外してしまった。いや、半分は合っているのか。
「なんかすいません」私は恐縮した。
「いやいや、別れてる僕が悪いんだし」坂本さんは顔を天井に向けてハハッと笑っている。「娘の成人祝いにね、時計でも贈ってやろうと思ってね」
「いいと思います」私は坂本さんを褒め称えるように言った。それは、さっきの失態を誤魔化すためじゃない。本心だ。「にしても、その時計高いですね」

 坂本さんの見ていた時計は、今の私じゃ絶対に買おうとしない値段をしていた。高級ブランドの腕時計は一本100万円以上する物もあることは知っているが、その10分の1の値段の腕時計でも買ってつけようとは思わない。

「まぁこの成人祝いが最後のプレゼントになると思うからさ」
坂本さんは先程から変わらない笑顔だったが、私にはその笑顔は悲しい表情に見えた。今の私に父親の気持ちなんて微塵も分からないし、離婚して離れ離れになった父親の気持ちはますます分からない。今後一切、血の繋がった娘と会うどころか、プレゼントもあげられないなんて、バカップルが掃いて捨てるほどいる大学と、現実の夫婦は別次元のものに思える。

「あ、このピンクのやつ可愛いですね」坂本さんが時計の色を選んでいると、上品な桜色に輝いた時計が目についた。
「そうね。僕もこの色がいいのかなー、なんて思ってるんだけど」
「文字盤もシンプルでいいと思いますよ」
「娘と同世代の涼ちゃんがいいと思う物を、僕が選べててよかった」坂本さんは画面に表示された時計を、椅子にもたれかかりながら遠目に見ている。

「友達でもこんないい時計つけてる子いないですよ」
 時間さえ分かればいいという理由で、私も安い腕時計しか持っていない。見栄を張るほどの余裕がないし、周りとの差もそれほど感じないから。
「んーじゃあこれかなー」坂本さんは今開いていたページをお気に入りに入れた。「ありがとね涼ちゃん。助かったよ」
「いやいや、私はただこれいいな、って言っただけですよ」
「僕には年頃の女の子の気持ちどころか、女性の気持ちが分かんないからさ」坂本さんこめかみを掻きながら笑った。「彼氏からは誕生日プレゼント何貰ったの?」
「ブランドの財布を貰いました」
「え? どこの?」
「ヴィヴィアンです」
「あぁヴィヴィアンね。いい彼氏だねー」坂本さんは少し悔しがるように拳を作った。
「ですねー」
 前々から、私の財布がボロくなってるね、とは言っていたから、正直なところ、財布をくれるかなと予想はしていた。ただ、値が張る財布を貰えるとは思っていなかったので、嬉しくもあったが、お返しとなる彼の誕生日プレゼントのハードルが上がった気がした。

「涼ちゃんは彼氏に誕生日プレゼント何あげるの?」
 坂本さんは椅子を右に左に少しだけ回しながら聞いてきた。
「んー、カバンですかねー。彼から貰ったブランドと同じヴィヴィアンの」
「あーいいねー、そういうの。いいなー青春だねー」
「いやいや、坂本さんもまだまだ若いじゃないですか」
「もうおじさんだから、そんな眩しいカップルのようになれないよ」
「いい人いないんですか?」私はわざとらしくニヤついて聞いてみた。普段やられる側だから、やってみたかった。
「ずっと、こんな居酒屋で働いてたら、おっさんしか関わりは増えないよ」
「若い女の人もそこそこ来るじゃないですか」
「カウンターで僕と話すのは、おっさんだけよ」
「……まぁそうですね」私が言い負けると、坂本さんは、「ゆっくり恋愛できるのは学生のうちだけな気がするよ」と嘆いた。

 どりーむが開店から1時間経つと、店内は慌ただしくなった。普段どおりの日曜日だ。そんな中、いつもより1人少ない3人の店員で店を回すのは、どうかしている。私は店内を駆け回りながら、3人でも余裕と言った坂本さんと、未だに出勤してこない竹内を呪っていた。

「お会計が5890円になります」
 私がそう言うと、20代後半と思われる男性2人組が割り勘しようと、お互いの財布の中身を見ながら、小銭がある、ない、なんてやり取りしている。私は今では作り慣れたサービススマイルで待っていると、視界の端で入り口が開いたのが見えた。そろそろ竹内が来たかと思えば、違った。

 財布を覗いている男性達の後ろには、勇斗がいた。

 なんで来たの? と、はからずも言いそうになったが、一本指を立てる勇斗に「カウンターどうぞ!」と、坂本さんが焼き場からカウンターの空いている席に腕を伸ばした。

 私がお客さんを見送り終え振り返ると、カウンターに座った勇斗と目が合った。その瞬間に勇斗は、自信なさげに手を挙げる小学生のように、小さく手を挙げた。
「はい。おまたせしました」私はいつも通りの対応に努めた。
「生ビールと、焼鳥の盛り合わせと、鶏刺しの4種盛りで」勇斗はニコニコしながらメニューと私を交互に見て、注文を読み上げる。
「以上でよろしかったでしょうか?」
「はい。以上で」
「失礼します」
 私は必要以上のことは口にはしなかった。勇斗自身も働いている私の姿を見るだけで十分、みたいな表情だったから。焼き場にいる坂本さんに、目の前に座っている男性客が私と一緒にシャンパンを飲んだ男とバレると案じたから。

 私は厨房に戻り、勇斗のビールをサーバーから注いだ。私が厨房から出ようとしたら、「おはようございます」と、いつもとは違った控えめな声量で、謝罪ムードを漂わしながら竹内が厨房に横切り、事務所に入っていった。

「いやー申し訳ないですー」
 制服に着替え終えて、厨房で手を洗いながら竹内は軽く謝罪をした。
「今日は暇だと思ったら、忙しかったよ」坂本さんは冷蔵庫から焼鳥を選んでいる。
「今はまだ落ち着いてるけど、さっきまで大変だったんだからね」私が竹内に文句を言うと、「いやーほんとにごめん」と何度も軽く頭を下げた。この様子だと先日の夜の出来事は気にしていないことが見て取れた。

 勇斗のことはあまり気にしないようにしていたが、テーブル席の片付けをしている最中でも、カウンターにいる勇斗が嫌でも見えた。何度か自然と勇斗に焦点を合わせてしまっていた。ただ、勇斗自身は坂本さんの頭の後ろのテレビで流れているバラエティ番組を眺めていた。テレビを見るお客さんは多くはないが、焼き場を陣取っている坂本さんのせいで見づらいだろうなと、私は思う。

 勇斗の会計は竹内がした。私は勇斗の会計をしたくなかったので、丁度よかった。厨房の入り口からこっそり2人の様子を見ていると、何やら少し話した後に竹内が何度も深く頭を下げていた。

「彼氏来てたね」
 竹内は私の拳よりも大きな焼きおにぎりを熱そうに頬張りながら言った。
 まかないでサイズが自由に選べると言っても、バカみたいに大きい焼きおにぎりを作る竹内の気が知れない。坂本さんも竹内の焼きおにぎりを見て、嬉しそうに笑っていた。これだから体育会系は、と私は白けながら、一般的なサイズの焼きおにぎりを作った。

「うん。来てたね」
 私は竹内の半分ほどのサイズの焼きおにぎりを箸で小分けにしながら答える。この熱そうな焼きおにぎりは、もう少し冷めてから食べよう。
「いつから付き合ってんの?」
「今年の1月からだよ」
「……へー、1月ねー」竹内は聞いてきた割には、面白くなさそうに焼きおにぎりで口をいっぱいにしている。

「さっき会計の時、勇斗と何話してたの?」
 私は焼きおにぎりの欠片を食べた。焦げた醤油の味と、鰹節がいい塩梅で美味しい。こういったバランスは坂本さんが考えているのだろうか、黒子さんなのだろうか、どりーむのレシピの考案者が気になった。
「この前の夜の子だよね? って言われて、はい、そうです。すいませんって言っただけだよ」
「まぁそうだよね。頭下げてたし」
「すごい見てるじゃん」
「いや、何度も頭下げてたら気にするでしょ」竹内に彼氏を気にしている彼女のように思われた気がしたので、「そういや、あの時、よく私の彼氏がコンビニで働いてるのに気づいたね」と話を変えた。

「いやー、まぁなんとなく?」竹内はついてもいなスマホの画面を見ながら答えた。
「まず竹内の家から、彼氏のコンビニまで近くないと思うけど」
「うん。まぁほぼ勘だよ。勘」
 一応悪いことを問い詰めているわけじゃないのに、竹内はどうも煮え切らない。竹内は無駄に記憶力があるということでいいのだろうか。いや、そんな訳はない。なんて事を考えていると、「林さんは浮気とかしないの?」と、竹内がこれまたぶっ飛んだ話を振ってきた。

「いや、してないと思うけど」
 私は正直に言った。浮気どころか、サークル以外の飲み会なんかもあまり参加していない。私が行けばいいのに、と言っても、勇斗は進んで行こうとはしない。そんな私以外の女性関係を避けているあたり、むしろ私が気にしてしまっている程だ。私への干渉は付き合った頃となんら変わっていないし、なんせ真面目だし。

「まぁ、そうだよね」竹内は澄ました顔でスマホをいじっている。
「変態呼ばわりした次は、浮気男扱いするの?」竹内の度々の勇斗に対する嫌味に、私は飽き飽きした。
「えっ、いやいや悪意はない。冗談、冗談」
「竹内が思ってるほど、彼は悪い人じゃないよ」
「うん。大丈夫。わかってる。お幸せに」竹内は慌てたように立ち上がり手を合わせた。
「なによ、それ」
 突拍子もない竹内の動きに、更に竹内が何を考えているのかよくわからなくなった。実際に何も考えてないのかもしれないけど。

                  *
 山下の誕生日の夜から、俺はモヤモヤしていた。それもそのはず、山下の彼氏が恐らく紗華の浮気相手の林であるからだ。

 顔が夜道ではっきりと見えなかったのも、このモヤモヤを助長している。実のところ、浮気男林のSNSのアカウントの存在は知っていたが、林が許可したユーザーしか投稿が見られないように設定していたので、林が載せている写真までは確認できなかった。なので、今の所9割がた、山下の彼氏は浮気男林であることは間違いないのだが、遠目で見た紗華の隣にいた林と、山下の隣にいた林の顔が完全に一致はしていないので、俺は自分の中で、確定の文字を出せずにいた。

 そんな心中で、どりーむに遅れて出勤したら、カウンターに紗華の浮気相手、林が座っていた。店に入ってすぐに、焼き場で暑そうにしている坂本さんを見た時に、嫌でも林が視界に入ってきた。紗華の浮気相手の林。
 後でコケたふりをして、ビールでも顔にかけてやろうかと思ったが、さすがに踏みとどまった。山下の彼氏でもある可能性があったから。

 そして、幸か不幸かその男の会計をした時に、「この前の夜の子だよね?」と言われた。その瞬間に、確定! と頭の中に文字が浮かんだ。とはいえ、心の中のモヤは晴れなかった。むしろ濃くなった気がした。

 林はつい最近まで紗華と付き合っていた。それなのに、休憩中に山下の話を聞いていると、1月から林と付き合っていると言っていたので、まさかとは思っていたが、林は紗華と山下を2股していたのだ。今まさに、浮気男林に山下がいいようにされていると思えば、山下から雑な扱いを受けている俺でも、山下を放って置くことはできない。

 今度は山下が、サプライズしようと林の家に潜んでいるところに、林が知らない女と帰宅してくるかも知れない。そうなると山下が俺の立場を経験することになる。あんな思いをするのは俺だけで十分だ。

 これ以上、奴の被害者を増やす訳にはいかないし、なんせ奴には紗華の分借りがある。あの出来事から約一年、その利息は膨大なものだ。あの日数発殴るはずだったものが、今じゃ何発になっていることか。
 そんな腸(はらわた)が煮えくり返る思いがあっても、林を懲らしめる方法も、林と山下を別れさせる方法は簡単には浮かばなかった。山下に直接、彼氏浮気してないの? と聞いても、山下はどうやら浮気の「う」の気配すら感じていない様子だったし。

「それじゃあね」山下はいつもの場所で曲がる。
「変質者には気をつけて」
「バカじゃないの」山下にウケた。と思えば、俺を見下すような表情になって、「本当にいたら、叫び声上げるから」と俺の冗談を山下は皮肉で返してきた。
 相変わらず食えないやつだ。とは言え、林の魔の手にかかっている彼女をなんとかしたい。そう思い、言っても立ってもいられなかった俺は、さっき出てきたどりーむの前に戻ってきた。これ以上1人で抱えるのは耐えられる気がしなかったから。

 店に入ると、厨房だけ電気がついた薄暗い不気味な店内で、坂本さんと黒子さんがカウンターでビールを飲んでいた。
「どうしたの、竹内くん。忘れ物?」こちらを向いていた坂本さんが言った。それに反応して黒子さんも体を捻って、俺を見た。

「いやー、まぁはい」まさか、2人で飲んでいるとは思いもしなかったので、坂本さんの言う通りに嘘をついた。
 とりあえず、辻褄を合わせる為に、用もない事務所へ向かおうとすると、「竹内くんも1杯飲んでいくかい」と、坂本さんが誘ってくれた。
「はい! いただきます!」
「勝手に飲みたい酒作ってきていいよ」
「わかりました!」

 俺は事務所に荷物投げ込むと、即座にビールをジョッキに注いだ。カウンターに向かうと、黒子さんだけはカウンターから、近くのテーブル席に移動していた。
「おつかれさま」俺が坂本さんの隣に座ると、坂本さんがジョッキを持ち上げた。
「おつかれさまです」そう言って、俺はビールを飲む。
 仕事終わりのビールの味はまた違うな。と唸りながら、父親が家で晩酌していた気持ちが分かった気がした。夏に冷たいビール。余計に身に沁みる。

「開店当初は、しょっちゅうここで飲み会してたんだよね」ジョッキ片手に坂本さんが言った。
「いいですね。自分の店で飲み会っていうのも」
「最初の方は行き当たりばったりだったから、飲み会と言うより、愚痴がほとんどだったけどね」坂本さんがそう言うと、黒子さんは頷きながら、ビールを飲んだ。
「ここって、できて何年なんですか?」
「今年で6年目だね」坂本さんは店を見回す。「自営業は10年以上続くのは1割ないとか言うからね。まだまだだけど」
「俺は今の状況しか知らないですけど、厳しい世界ですね」
「そうよ。自営業で開業から1年で倒産するのが4割だからね。ほぼ賭けだったよね、黒子さん」坂本さんは黒子さんを見ずに言った。「あぁ失敗してたら、どうなってたか」黒子さんは恐怖を滲ませた。

「前の仕事やめること奥さんに言ってなかったもんね」坂本さんは何やら思い出すように目線を上にして笑っている。
「嫁は元から俺の仕事のことは、あまり知らなかったけど……。もし失敗してたら、坂本さんみたいに離婚だったね」黒子さんは参ったと言うように、手を広げた。
「うん。それは間違いない」坂本さんが諦めたように言ったところで、俺は、「坂本さん結婚してたんですね」と意外な経歴に驚いた。

「してたんですね、って、まぁそうなんだけどさ」坂本さんは不貞腐れる。
「いやー全然知らなかったです」
「まぁわざわざバツイチ子持ちって言わないわな」黒子さんが茶化す。
「黒子さんは本当に、俺の離婚ネタ好きなんだから」
「え、子供いるんですか?」どんどん明かされる事実に俺はついていけない。
「いるよ」坂本さんはビールを一口飲んで、苦笑いする。「今年20歳になる娘が1人ね」
「俺の1個下じゃないですか!」
「そうね。最後にあったのが中学生の頃だから、娘の方は町で俺を見かけても、わかんないかもね」
 坂本さんは立ち上がって厨房に行ったと思えば、大量の枝豆を持って戻ってきた。

「そうだ」坂本さんは何やら思い出したように声を出すと、「涼ちゃん彼氏いるらしいぞ」と、なんだか悪巧みをしているような顔になった。
「あぁ、らしいですね」と俺が澄まして言うと、「なんだ知ってたのかー」と、坂本さんは分かりやすく残念がった。
「今日涼ちゃんの彼氏来てたよ」俺が言おうとしたことを、黒子さんが何事もなかったように言った。
 なんでこの人は知ってるんだ?

「え、マジで?」坂本さんは、大きな体を素早く黒子さんの方に向ける。「いつ来てた?」
「竹内くんが来る少し前に。それこそ、今竹内くんが座ってるところに座ってたよ」
 坂本さんは俺の席を目を凝らして見て、「あー、あの若くて細長い男か」と大きな声を出して合点した。「あぁいうのがタイプなのかー」
「まぁ正統派イケメンなんじゃないかな」黒子さんは坂本さんと温度差のある感想を述べた。

「まぁそうだよねー。今どきの若者って感じだよねー」坂本さんは口を歪める。「あの子も西大生なのかな? 竹内くんは、あの彼氏のこと知らないの」
 嫌でも知ってます。あの彼氏が、どこ出身で、どこの学部で、どのサークルか、ということは知らないけど、女たらしであることは知っています。そうはっきりと言いたかったが、さすがに口から出る前に喉で引っかかった。
 俺はジョッキに半分残ったビールを一気に飲み干し、言葉を一度腹に戻す。そして、今度は引っかからないように、「知っています」とだけ言った。

「お、まじで! 知ってるんだ」坂本さんは目を大きく見開いた。黒子さんも、腕を組んで聞く気満々だ。
「西大の4年で、俺の元カノの浮気相手です」俺がビールを一口飲んでから躊躇なく告白すると、坂本さんと、黒子さんは声には出さなかったが口を開けた。

 普通、人を紹介する時に、浮気相手、なんて単語を使うことなんてないが、俺はここぞとばかりに使った。林についての情報は少ないが、なかなかお目にかかれないディープな情報はある。

 坂本さん達が言葉を失っていたので、俺は続ける。「昔の俺の彼女を寝取った相手が、今日来てた山下の彼氏です。彼氏は俺が寝取った女の彼氏だったことは知りませんし、山下も彼氏が過去に俺の彼女を寝取ったことは知らないはずです」

「はー、まさか、そんなシビアなことになってるとは」坂本さんはそう言いながら、日本酒を出してきて、俺にグラスを渡して注いだ。
 日本酒なんて飲んだことなかったが、グラスに注がれた液体を一気に飲み干すと、喉が熱を持って、そのまま、食道、胃へと熱いものが流れていった。なんで液体なのに焼かれる感覚になるんだと不思議に思う。

「お、いけるねー」坂本さんは嬉しそうに、涙目の俺のグラスに日本酒を注ぐ。「涼ちゃんは、ええっとその、今の彼氏と長いの?」
「あ、彼氏の名前は林です。今で半年くらいみたいです」
 俺は名前を言うことを忘れていた。林という名前よりも、浮気男とか、寝取った男と言う方がお似合いすぎて、坂本さん達に言い忘れたのだ。

「林の下の名前は?」と黒子さんに聞かれ、「ユウトだったと思います」と答えた。
「んーまぁまだそんなに長くないのね」坂本さんも日本酒を飲んでいる。
「ただ、その林の出来事は過去の出来事であって、林は今浮気してるの?」黒子さんが言った。
「今はわからないですけど、4月くらいまで、俺の元カノと付き合ってたはずなんですよ」
「あー2股かー」坂本さんはグラスを片手に天井を眺めている。
「今はどうかわからないのか」黒子さんは頬杖をついている。俺が無言でいると、「でも、調べて見る価値はありそうだね」黒子さんが楽しげに言った。

「ね、2股じゃない可能性もあるわけだし」坂本さんも面白そうにしている。
「でも調べるってどうするんですか?」俺がそう言うと、黒子さんは俯いた。
どうやら言ってみただけだったようだ。
「そういった事実があったんなら、涼ちゃんに言ってみるしかないのかな、いや、でもこういうのは黙っておいたほうが幸せかな」坂本さんが投げやりに言う。
「いやー、つい最近、変質者と林を間違えて、山下に怒られたばっかりなんですよね」
「ん? どういうこと?」
「いや、誕生日の夜に山下が変質者に絡まれてると思って、助けに入ったら、変質者じゃなくて林だったんですよ。それに今日、山下に林さんて浮気してない? みたいな話もしましたし」
「なんか、涼ちゃんの彼氏に対して、ひどい所業を繰り返してるね」さすがの坂本さんでも苦笑いになった。「そんな状況の中、「林は俺の元カノを寝取って、2股かけてた」なんて涼ちゃんに言っても信じられないどころか、嫌われちゃうね」
「ですよね。山下は林に絶対的な信頼を抱いていますし」林への鬱憤を晴らすように、日本酒を煽る。今度は喉を焼く熱さが、頭へ昇っていく気がした。

 林が現在進行系で浮気なり、2股なりをしている証拠をつかめれば、山下の目を醒ませるはずなんだろう。もしかしたら、林は紗華とよりを戻しているかも知れない、と一瞬頭に浮かんだ。

 もし、証拠を掴むために紗華の家の前で張り込んだとして、林が現れなくとも、紗華の姿を見るだけでも嫌気がさす。林が出てきたら、今度こそ手が出る。どちらにせよ骨折り損のくたびれ儲けな気しかしない。

「林はどこでバイトしてるとかは知らないの?」黒子さんがビールをおかわりして、厨房から戻ってきた。
「辞めてなければ、駅の北口のコンビニです」と、俺が答えると、「なら、黒子さんの家近いね」と、言葉を足した。
「そうだね」それだけ言って、黒子さんはビールで喉を鳴らした。
「それにしても、あの涼ちゃんが悪い男に引っかかるとはね」坂本さんはグラスの日本酒を回している。
「山下を弄んでいると言うより、元カノを蔑ろにして2股してたんじゃないですかね」
「ほう」坂本さんが手を止めた。「なんで、そう思うの?」
「こんな言い方あれなんですけど」俺は言葉を選ぶ。「正直、元カノの方は軽いと言うか……チョロかったと思ったんで」

 言葉を選んだつもりだが、言ってしまった。多分、林ほどのプレイボーイだと、紗華はチョロかったのだろうと俺は考える。紗華は俺への不満が溜まっているところを漬け込まれて、林の手中に収められたように思える。それも、俺があまり紗華に対して出来ていなかったことを、林はしれっと、自然にしてんだろう。サプライズとか。

 そんな林のパフォーマンスに魅了された紗華は、笹舟のように、簡単に林に流れたはずだ。俺も紗華を喜ばせてあげられていなかったのは悪いが、薄っぺらく、ヒラヒラと軽い紗華も大概だ。
 そんなこんなで、紗華には適度に上手いこと喜ばして、自分に惚れさしておいて、山下に重点を置いて、同様に上手いことしていたはずだ。俺はそう予想して、美味しくもない日本酒を一気に飲んだ。

 結局、俺は前のアパートに来てしまった。とりあえず、林が紗華とまだ付き合いがあるなら、楽に浮気現場の証拠を押さえられるこの方法を実行するしかなかった。今は俺の気持ちは後回し、いかに早く山下を林から別れさせるかだ。

 ここに来るまでに、紗華と林が働いているコンビニの前を通ったら、紗華が通勤に使っていた自転車が停まっていたので、紗華はコンビニのバイトを辞めていないことが確認できた。シフトの時間も変わっていなければ、22時にはあがるはずだ。傍から見れば、元カノに執着し続けるストーカー化した元カレが、元カノのアパートの向かいのマンションの駐車場に潜んでいるようにしか見えないが、今は俺の体裁はどうでもいい。まず、他の誰かにバレることはないだろうし。

 部活の後に折角シャワーで汗を流した体に、ジワリと汗をかいて後悔していると、紗華と思われる小柄な女性が自転車でアパートの前に現れた。そして、俺が住んでいた部屋の隣の部屋に消えていった。

 紗華の帰宅が確認できた後も張り込みを続けたが、紗華の部屋に訪問する林の姿は見当たらず、日付を超えた頃に、紗華の部屋の明かりが消えた。
 それから、約2週間同じ様に見張りをしたが、林は現れなかった。バイトがある木曜と日曜日も一度、先輩に代わってもらい確認した。そんな中、林が現れなかったことにホッとした反面、林に対するもどかしさが増幅した。一度、見張りの帰り道にコンビニで働いている林も見かけた。それと、この2週間は紗華に男の影は見えなかった。まぁどうでもいいのだけど。

「紗華と林がよりを戻してる可能性はないですね」
 バイト終わりに俺はここ2週間のことを、坂本さんと黒子さんに報告した。
「よくもまぁ、2週間も張り込んでたね。部活もあるのに」カウンター席で坂本さんは俺を労いながら、瓶ビールを俺のグラスに注ぐ。
「元カノにバレたら、事件になってたね」黒子さんは自然に恐ろしいことを口にする。そして、あっけらかんとビールを飲んでいる。
「ははっ、それはそれで面白いことになっていただろうね」坂本さんは縁起でもないことに笑っている。

「いや、マジで洒落になんないですから」
「元カレが元カノの家の前に、夜中にずっといるんでしょ。完全にやばい人じゃん」坂本さんはツボに入ったらしく、腹を抱えて笑っている。
「いや、俺もそう思いながら張り込んでましたけど、この際仕方ないじゃないですか」
「いやー、ごめんよ。実際にそこまでするとは思わなかったから」坂本さんの笑いの波が収まると、「マンションの人に通報されなくてよかったね」と黒子さんは脅しを畳み掛けてくる。
「確かに、2週間謎の男が駐車場に居座ってたら通報するわな」坂本さんの笑いの波が再び大きくなった。

「僕もそう思って、できるだけバレないように、車の後ろと壁の間に潜んでましたよ」
「余計に不審者だね」黒子さんは俺の隠れている様子を想像したのか、笑みをこぼした。
「まぁ通報されずに何よりだよ」坂本さんは俺の肩を叩いた。
 もはや本来の目的を忘れている。

「元カノと林はもう無関係ということが分かっただけか……」黒子さんはいつもの冷静な顔つきになっていた。
「はい。これで、今林が浮気していなければ、山下を説得することは出来ないですよ」
「元カノの家の前に張り込んだとも言えないしね」冷静に黒子さんが俺をいじる。
「それこそ、涼ちゃんに絶縁されるわな。バイト中、気まずくなって僕たちが気使うのは勘弁だよ」勘弁と言いながらも坂本さんは笑顔だ。
「それは俺も勘弁だな」黒子さんも坂本さんに同意する。「そうなると、今度は林の方を見張るしかないな」
 正直なところ、1度、深夜にバイトが終わった林の方も尾行した。そしてバレた。

 スマホをいじるフリをしながら、林の10m後ろを歩いていると、いつの間にか目の前に林がいた。
「竹内くんだよね? 家このあたりなの?」と聞かれ、ここで、変に嘘をつくと山下を介して嘘がバレると案じたので、「友達の家がこの辺で」と、明らかに挙動不審だったが、なんとかその場をやり過ごしたつもりだ。

 林の俺に対しての口調が妙に優しいところが気に食わなかった。奴の後ろには、気持ち悪いほどニタついた悪魔が潜んでいるはずだ。
「正直、林の方も尾行して、バレたんですよね」
 坂本さんと黒子さんは驚いた後、すぐに落胆を息に出した。特に黒子さんは普段の声量以上の吐息をだした気がした。
「行動力は褒めるけど、計画性がないね」黒子さんは両手で頭を掻く。「こうなると涼ちゃんが気づくのを待つしかないんじゃないか」
「一回竹内くんにバレたように、もし浮気してたらバレるでしょうし」坂本さんはカウンターに腕をついて、だれている。「これ以上、竹内くんが詮索して涼ちゃんに嫌われるだろうし」
「……ですよね」

 これ以上へまして、どりーむでのバイトに影響が出るのは、困るし、ますます林に対する怒りが倍増して仕方がない。ここは坂本さん達が言う通り、山下との仲を崩壊させないためにも、現時点ではシロの林を保護観察するしかないみたいだ。

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