居酒屋 どりーむ⑦

                 7
 俺が一番避けようとしていた事態が目の前で起きた。現在、山下は俺の目の前で、ひたすら泣きじゃくっている。

 だから必死に止めたんだ。

 駅での修羅場の次の日、俺は黒子さんから教えられた、林のアパートの前で張り込んでいた。一度林の部屋をピンポンダッシュして、在宅していることを確認した。林のプライベートの邪魔を少しだけできて、それだけでも若干の達成感があった。

 紗華のアパートの時と同様、林のアパートの向かいにも駐車場があったので、俺はそこに潜んだ。

 そうしたら、立石優が林の部屋に入っていくのが、あっさりと確認できた。正直博打ではあったが、山下がバイトで確実にいないであろう、日曜日に浮気相手と会うのではないかという予想が見事的中した。
 
 この男もバカな男だ。昨日の今日で浮気をするなんて。俺は山下と気まずいのもあって今日バイトを休んだというのに。

 林と立石優とのツーショットが、林のアパートの前での撮れると、手に汗をにじませて、その時が今か今かと待っていたら、今度は山下が現れた。これは完全なる予想外、イレギュラー、大番狂わせだった。
 だって、山下はバイトの時間なのに。
 林と同じ思考になっていた俺は山下の登場に焦った。焦りすぎて、山下に力加減できずに掴んで、引っ張ってしまった。そして喚かれ、ひるんだのが間違いだった。あそこはスクープ写真を逃してでも、山下を林の部屋に行かせるべきではなかった。

 俺と同じだ。浮気現場に対峙してしまったのだ。俗に言う、修羅場だ。昨日の駅でのいざこざとは比べ物にならない。正真正銘の修羅場だ。

 心の何処かで、山下は浮気相手の立石優にブチギレるか、林に一つ一つ確認するように問い詰めるのかと思っていたが、山下は一言も発さなかった。多分、発せなかったんだろうけど。

 どれほど泣いているんだろう。日が明らかに傾いてきているのが分かる。さっきアパートの住人であろう同じ年くらいの女の人が、俺から距離をとって通り過ぎていった。アパートの廊下で、しゃがんで泣いている女と、呆然と立ちすくむ男がいたら俺でも身構えながら通り過ぎる。仕方ない。

 本当にいつまで泣いてるんだろう。泣き始めた時に、背中を擦ろうとしたら払いのけられた。ハンカチでもないか、とポケットを探ったが、紳士でもなんでもない俺がそんな良い物を常備しているはずもなかった。抱き寄せて自分の胸で泣いてもらおうかなんて、思ったが、浮気現場を目撃して間もない山下が俺に身を預けるわけもないと思い、止めておいた。

「帰ろうか」山下の泣き声が止み、呼吸が安定した頃に声をかけた。

 山下は何も言わずに頷いて立ち上がった。案の定、目は赤く腫れ上がっていた。ゲロ処理事件の時とは比にならない腫れ具合だ。ひどくブサイクな目になっている。幼稚園児がギャンギャン泣いた後の顔みたいだった。

 特に暗くなっていたわけでもないが、いつもは途中までしか送ったことがなかったが、今日は山下の部屋の前まで送り届けた。

 俺がいつも通り、「おつかれ」と言うと、山下は何も言わずにコクリと頷いて、そのまま無言で部屋に入っていくと思ったが、顔がドアで隠れた時に小さく、「ありがとう」と聞こえた。

 浮気男林の被害者を減らそうと、山下と林を別れさせようとした計画が、こんな結末で終わるとは誰が予想しただろうか。俺の努力虚しく、結果、山下自身が浮気現場を目撃するという、最悪のパターンになってしまった。

 目の前であれだけ泣かれると、林に向かって、清々しくざまあみろと思えない。やってしまったという、罪悪感がひどく残った。夏の風呂上がりに、炭酸ではなく、おしるこでも飲ませれた気分だ。

 このままどりーむに行って、「山下が浮気現場に現れましたよ!」なんて呑気に報告できる気もしなかったので、不完全燃焼な俺は、そのまま家に帰った。
 

 山下の修羅場から3日後の水曜日。
 部活終わりの俺は山下が林ではない、別の男と駅で歩いているのを見かけた。

 最初は見間違いか、仲のいい男友達かと思ったが、2人仲良く駅ナカの薬局で買い物している姿を見たら、俺は違和感がして仕方がなかった。完全に林を付きまとっていたせいで尾行癖が着いた俺は、そのまま山下と男の後をつけた。バレずに上手いことつけていくと、山下は男と一緒に、3日前に俺が送り届けた家に入っていった。

 俺は驚きと共に、怒りが湧き上がった。そして汗が吹き出した。感情が高ぶるだけでこれだけのエネルギーが消費できるのかと新しい発見をした気分だ。
 なんだろう、この気分、この感じ。

 俺は近くの街頭を眺める。無数の羽虫が明るさに集っている。食べ物でもないのに、なんであんな必死に飛び回ってんだ? 昼は太陽に向かって飛んで行ってんのか? 満月の夜は月に向かって飛ばないのか? あくまでも近くに明るい物があればそれでいいのか?

 あぁ思い出した、紗華の時の感じか。裏切られた、そんな気分。なんかもう全部馬鹿らしくなってくる感じ。これだ。

 恐怖感も遅れてやってきた。
 そらそうだ。あれだけ俺の目の前で号泣しておいて、3日経てば、ケロッと別の男を家に連れ込んでいやがる。山下は紗華とは違って、ドロドロしてない、さっぱりした人間だと思っていた。けれども、その竹を割ったような性格は時におぞましさを感じさせるのか。

 3日ってなんだよ。おかしくないか? 日曜日に、純粋に林に振られて家に帰りました。そして、月曜日か火曜日に他の男に林の愚痴をぶちまけました。それで仲良くなって、今日家に連れ込みました。ってなるのか? そんなもんなのか? 俺には分からない。俺には山下の思考についていけない。

 俺が紗華と分かれた後は、一週間はヘコんだぞ。隣の部屋から聞こえてくる紗華を発信源とした生活音を聞く度に、心を打ちひしがれたぞ。壁のヘコみを見る度に、あの夜のことを思い出しては、再び壁を殴りたくなったぞ。

 紗華に振られた愚痴を女友達に話すだけじゃ飽き足らず、家に連れ込んで、仕返しのように、紗華の部屋に聞こえるようにヤる。なんてことはしようとも思わなかったし、まず出来ない。だから、分からない。

 となると、3日の突貫工事の男ではない可能性が考えたくなくても自然と出てくる。3日で家が建ったと言われたら、手抜き工事か、張りぼてか、なんて思う。だが、その家が立派で、手抜きでなかったら、3日という工事期間を疑う他ない。
ふざけるな。所詮、山下も林と同様、浮気女山下だったんだ。林の浮気を疑わなかったのは、自分も浮気をしていたからなのか。

 林が浮気をしていようが、していまいがどうでもよかったわけだ。それに山下が林の浮気を追求すると、山下自身の浮気がバレるかもしれないと案じたから、過度な追求はしなかった。

 そう考えると、山下の言動に非常に納得がいく。駅の修羅場で、林の言い訳を信じ、俺を罵倒し、林と一緒にあの場を足早に去ったのはそういう訳だ。

 ただ、日曜日にバイトを休んで、林のアパートに来て、浮気現場を見て、号泣したことについては100点の解答は出せない。とりあえずは裏切られたショックはあったのだろうか、自分が林を裏切るつもりが、むしろ自分が裏切られてたとは……、みたいな?

 女の涙というものも益々訳が解らなくなる。一体全体どんな感情で泣いてんだよ。

「おざまーす」
 ただでさえ来るのが気まずい、どりーむに俺は来た。
「お、日曜日どうだった?」
 店に入ると、焼き場にいた坂本さんが挨拶代わりに聞いてきた。それもそのはず、土曜日が不発に終わったから、日曜日は気まずいのに加えて、坂本さん公認の林をストーカーする休暇をもらっていた。

「いやー、浮気相手が林のアパートに居るところに、山下も来ましてね。そんでもって、修羅場ですよ。といっても、山下が泣いただけですけど」俺はカウンターに座って、坂本さんを見上げる。

「え? マジで?」黒子さんが何処から出てきたのか、いつの間にか俺の後ろに立っていた。
「あー、林のところに行っちゃったのかー」坂本さんは、やっちまったと言うように手を額に当てる。

「日曜に山下はバイト来なかったんですか?」
「いや、来たは来たんだけどね……」坂本さんは唇を噛んだ。「僕たちが、林を探ってたことを言ったんだよね。竹内くんが林を盗撮してたって涼ちゃんが怒ってたもんだから……」
「その件に関しましては本当に申し訳ないです」俺は恐縮した。
「でも、竹内くんが見せなかった写真の中に、涼ちゃんが林にプレゼントしたバックが映ってたんだよ。そんで、泣いてたよ」坂本さんはその時の状況を思い出しているのか、俯いている。

 坂本さんの前でも泣いていたとは、更に山下の涙の謎が深まる。
「まぁ林のアパートでも大号泣でしたけど」
「浮気相手と一緒にいるところにバッタリ会ったら、まぁ泣いて怒るでしょう」
「怒ってはなかったですけど」
「えー、ビンタの1つや2つお見舞いするかと思ったけど」
「俺も林がボコボコにされるところ見たかったですけど、それは起きなかったですね」
「それだけ林のことを信用していたんだろうね」黒子さんはそう言って、カウンターをダスターで拭いている。
「でも、山下も浮気してましたよ」
 俺が爆弾を投下すると、坂本さんと黒子さんは同時に、「えっ」と口を開けたまま眉間にしわを寄せた。

「ほんとに?」黒子さんが鬼気迫る顔で俺を見る。
「はい。昨日、家に知らない男を連れ込んでるの見ましたもん」
「後つけたの?」坂本さんも動揺を隠せていない様子だ。汗が尋常じゃない。
「はい。家の前までついていったら、男と一緒に自分の部屋に入っていきましたよ。日曜に林と別れて、昨日までに新しい彼氏ができるのは、それはそれでヤバいですけど、以前から男がいたって考えるほうが普通かと」俺は憎たらしく山下の事を報告した。坂本さんも黒子さんも、被害者だ。あれだけ俺と一緒に山下の事を心配したというのに、あまりにも残酷な結末だ。

「もうストーカーとして目覚めてるね」坂本さんは汗を拭きながら笑っている。
「いやいや、そこは別にいいじゃないですか。あれだけ必死になって林の浮気を暴こうとしてたのにですよ、結局山下も同類だったって、最悪じゃないですか」
「んー、まぁこれも恋愛の形なのかなー? あれだよ、類は友を呼ぶじゃないけどさ」

 坂本さんは、俺が爆弾投下する前以上に顔が明るくなっている。俺は、どんどん顔が険しくなっていくものだとばかり思っていたが、どうも坂本さんはショックを受けていないようだ。黒子さんも黙っているが、特に怒りの感情は見えない。

 黒子さんこそ、林の浮気のスクープを掴んだ張本人で、山下の恋愛事情には他人事ではなくなっているのにも関わらず、俺のような怒りを感じているようには見えない。

「まぁ竹内くん的にはショックだよね。せっかく涼ちゃんを狙えると思ったのにね」坂本さんはさっきの俺のように憎々しく言った。俺が怒っていることを面白がっている。
「別にそれはいいんですよ。そういうつもりじゃなかったし」
「へー、なら、林と別れられたんだから、別に他に男いてもいいじゃん」坂本さんは気味悪いくらいニタついている。

 違う別にそういうのじゃない。山下のことが好きとかってことじゃない。浮気男林の被害者を減らすために俺は必死になっていたんだ。紗華の件で、仕返ししてやりたかったんだ。だから、食らいつきながら林と山下を別れさそうとしてたんだ。山下をどうこうする為の行動じゃない。俺の鬱憤を晴らす為、俺の復習の為だ。

「別に男がいてもいいですけど、浮気してる男から別れさせようとしてたのに、女の方も浮気してたって、なんか本末転倒じゃないですか」
 坂本さんは歯を見せながら少しニヤニヤして、「まぁ涼ちゃんが浮気してたことを隠せたんだから、竹内くんの努力は報われてると思うよ」と、言ってフライヤーに油を注いだ。

 黒子さんもいつの間にか俺のそばから消えていた。
 坂本さん達は、山下が浮気している事実を深く受け止めていない様子だ。それは、俺が山下を気にしていたから、過剰に山下の浮気について反応してしまっているのか? 俺は山下に対して特別な感情は抱いていないつもりでいたが、実は惚れているのか? いや、そんなはずはない。ただ、林から守ろうとしただけ。俺と同じ体験をして欲しくなかっただけだった。結局してしまったけど。

                *

 勇斗の浮気現場に遭遇してから、勇斗には電話で一方的に、「別れます。さようなら」と言って、とりあえず形式的に別れた。日曜日は散々泣いて、食欲もなかったが、寝て起きたら、勇斗は最低な男だった、今までの自分がバカだったと、失恋の悲しみから、怒りの方へ、自分でも驚くほどにケロッと切り替えができた。あの時に勇斗が言い訳もなにも言わなかったのが今になって効いてきていた。私から離れていったことがはっきりと分かってよかった。

 誕生日に貰った財布は、勇斗の部屋のポストへ返却しておいた。女物の財布を返されても困るだろうけど、私なりの勇斗への嫌がらせだ。

 竹内には心配させるような姿を見せていたので、気丈に振る舞って駅での喧嘩のこと謝ろうと、どりーむに行くと、竹内に睨まれた気がした。坂本さんはいつも以上に気が抜けた顔に笑みを浮かべていた。黒子さんは無表情の通常運転だった。

 開店準備をしていても、竹内は私によそよそしい。私が、ハサミ取って、って言った時も、私の方に目線を移すこともなく、わかりやすい無視の姿勢でハサミを渡してきた。黒子さんでも、目線はこちらへ動かすというのに。

 駅での喧嘩のことを気にしているんだろうか。今となれば、竹内が言っていたことは正しかったわけで、私が言い過ぎたのもあるかもしれないが、ここまで拒否されるとは思わなかった。勇斗を信じていた、あの時は、竹内が勇斗をストーカーしてた事実だけが私に火をつけていた。真実を知っていた竹内からしたら、腹が立っただろう。だから、今は申し訳ないとは思っている。

 それとも、あの日泣いてる時に、竹内が触れてきたのを拒否したことを根に持っているのだろうか。だとしたら、あれは勘違いだ。竹内に触れられることを拒否したんじゃない。変に同情されるのが嫌だっただけ。自分が余計に虚しく、泣けなく思えるから断った。拒否の仕方は不味かったかもしれない、はっきりとは覚えていないが、虫を相手するように、はたき落としていたかもしれない。
 
 それは申し訳ないと思う。ただ働いている時は、そういうのは止めてほしい。公私混同しないでいただきたい。

 なんて私の思いとは裏腹に、今日の竹内は終始変だった。いつも変じゃないわけではないが、今日は特に変だ。休憩の時も、一切話さないし、私の方を見ることもなかった。

 そんな煮え切らない態度の竹内に対して、私も最初は謝ろうかと、下手に出ようと思っていたが、そもそも怒っている理由は分かってないし、それなのに私が竹内に謝らないといけないんだと思い始めたら、むしろ私が腹がたった。

 かといって、竹内本人にその怒りをぶつけることはせずに、締め作業が終わって、竹内が颯爽と帰っていったので、坂本さんに、「今日の竹内なんかおかしくないですか? すごいやり辛かったんですけど」と不満をぶつけた。

「んー? まぁ彼も若いんだろうね」坂本さんはよく分からない返事をしながら、冷蔵庫から、残った枝豆を出した。「涼ちゃん1杯どう?」
「え? ……まぁ大丈夫です」私は坂本さんのまさかの誘いに、面食らいながら返事をした。

「お! いいの? そんじゃカウンターに座ってて」
「あ、はい」私は坂本さんから枝豆を受け取り、カウンターに座った。
しばらくして、「はい。今日もおつかれー」と言いながら、坂本さんがカウンター私にレモンサワーを渡してきた。黒子さんも、私の後ろのテーブル席にビールを片手に座っている。

「ありがとうございます」私はあまり慣れない環境での飲み会もどきに、少し体を小さくしながら、両手でグラスを持って、レモンサワーをすするようにして飲んだ。「ここで、飲むこともあるんですね」

「そうねー。開店当初は毎晩締め作業後に愚痴りながら飲んでたよ」坂本さんはビールを一口飲むと首を傾げた。「あれ? 前もこの話したような気がするけど」
「いや、今はじめて聞きました」
「あっ、そう? なら、いいや」坂本さんは安心を笑みに変えた。

「今日の竹内くんは変だったね」黒子さんも私と同じ違和感がしていたようだ。
「ですよね? あそこまで露骨に私と距離置こうとされるとやりづらくて仕方ないんですけど」
「今日1回も話してないよね」
「そうなんですよ。休憩中もずっとスマホいじってましたよ」私が竹内への怒りを黒子さんに吐き出す。
「涼ちゃんの彼氏と喧嘩したことを気にしてるんじゃないの」坂本さんが枝豆をかじる。
「いや、もうあれは済んだことですし、あそこまで拗ねなくてもいいと思うんですけど」

 私がそう言うと、坂本さんは何も言わずに、見守るような笑みで私を見ている。口を開けるのかと思ったが、その様子はなく、口は滑らかな曲線を描いている。
「なんでそんなに笑ってるんですか?」私は変わらない坂本さんの表情が可笑しく思えた。

「涼ちゃんは浮気しない子だよね」坂本さんはそう言うと、先程の口の形に戻る。
「しないですよ。私はされただけで」坂本さんの表情から予測不能な質問に、動揺しつつもはっきり答えた。
「だよねー。昨日新しい男とデートなんてしてないよね?」
「してませんよ」私は当たり前のように答える。私の浮気の疑惑を確認してくる坂本さんを疎ましく思いながらも、昨日デートしてた人物を思い出す。「もしかして、姉と私を間違えてませんか?」
「あー、やっぱり」坂本さんは後ろにひっくり返りそうになるくらい、笑いながら背中を反らした。

「やっぱりって、なんですか?」坂本さんの反応に理解できないまま私は枝豆を食べる。冷蔵庫に入っていたので、冷たい。茹でたての枝豆が一番だなと思った。
「いや、竹内くんが昨日涼ちゃんが知らない男とデートしてたみたいなことを言ってたからさ」坂本さんは腹を抱えて笑い続けている。黒子さんも口元を隠しているが、肩を震わしている。

「それじゃあ、竹内が私と姉を間違えて、私が浮気してたみたいな勘違いをしてるってことですか?」
 坂本さんは大きく何度も頷いた。「いやー、涼ちゃんに限ってそんな悪い子だとは思わないからさ、前に姉がいるとも聞いてたから、もしかして、と思ってたんだよ。それが見事その通りだったよ。竹内くんも早とちりだよ」

「あー、やっと今日の竹内の謎が解けましたよ。あれは、お前も浮気してたんだなっていう軽蔑から来た態度だったんですね」
「そうだね。そうだよ絶対」黒子さんが高揚させた声で言った。

 それは納得だ。浮気されて泣いてた人間が、浮気してたら、関わるのを避けたくなるのも分かる。私だってそんな人は、二重人格のサイコパスに思えるもの。
「双子だから、似てはいますけど、よく見たら違うんですけどね」私が困ったように言うと、何故か坂本さんも困惑した表情で固まった。目線を横に移すと、黒子さんも動きが止まっている。

「えっ? 涼ちゃんって双子なの?」坂本さんは片耳をこちらに向けながら言った。
「そうですよ。言ってませんでした?」
「いやいや、聞いてない聞いてない。ね? 黒子さん」
「うん。聞いてない」
「あれ? そうでしたっけ」
「そうだよー。姉とだけしか聞いてないよ。ね? 黒子さん」
「うん。姉がいるのは坂本さんが言ってたから知ってたけど、双子とまでは聞いてない」黒子さんは坂本さんに同意した。

「最初に言ったものだと思ってました。双子の姉って言うのが面倒だから、いつも姉って言ってるんですよね」
「それはややこしいよ、涼ちゃんー」坂本さんは何故か悔しそうにビールを飲む。「双子だったら竹内くんが見間違えるのも仕方がないってー。ねえ? 黒子さん」
「うん。双子なら見間違えても仕方ない」黒子さんは坂本さんのフリに忠実に同意する。

「いやー、兄弟いるの? なんて聞かれない限り、双子の姉がいるんですよー、なんて言いませんよ。それに言うほど似てませんよ」私はスマホに姉の画像を表示させる。
「いやー、分からないよー」坂本さんはスマホを覗き込んでなお、言い分は変わらなかった。
「うん。分からない」黒子さんは坂本さんに共感を求められる前に、共感していた。
「いやいや、髪型とか服装とか、結構違うんですけどね」

 私はTシャツにジーンズといったシンプルな夏服だが、姉は服装にはこだわりがあるようで、私とは全く趣味のことなるブラウスやスカートとかが多い。髪型も私はショートヘアだけど、姉はミディアムヘアだ。全く違う。

「いやー、竹内くんは、とにかく涼ちゃんに似た子が知らない男と歩いてるのを見て、そこまで気が回らなかったんじゃないかな」
「……そうですね、竹内ですし」
「そうね。あの竹内くんだし」黒子さんは私に同意する。
「あの子も災難だねー」坂本さんは何故か竹内を憐れむ。
「いや、勝手に勘違いされて、避けられた私もいい迷惑ですよ」
「そうだね。ごめんよ涼ちゃん。ただ、それならそうと誤解を解く必要があるね。2人が気まずいままだと、僕たちも気まずいし。ね? 黒子さん」
「あぁ。気まずいね」黒子さんは素直に答える。
「あの日竹内が見たのは、私じゃなくて双子の姉なんだ、って言ったらいいですよね?」
「どうなんだろ。変に勘違いをこじらせてたら簡単には信じないかもね」黒子さんがボソボソと言った。
「じゃあ、姉と彼氏の写真を見せたらいいですかね」私がそう提案すると、坂本さんが、「いや、それもいいかもしれないけど、お姉さんに店に来てもらった方が面白いかも」と提案した。

「面白いってなんですか」
「竹内くんが、「山下が2人?」ってなる姿を想像したら、面白いなって思って」
 坂本さんの言った様子を、想像してみる。確かに滑稽な竹内のうろたえる様子が鮮明に想像できる。

「でも、姉の彼氏は埼玉県民じゃないですし、あまり埼玉にも来ないですよ?」
「なら、お姉さんとお姉さんの友達に来てもらえないかな。双子割引するし」
「なんですか、そのマイノリティな割引制度」坂本さんのふざけた発言に笑いながら、レモンサワーを飲んだ。「それじゃあ、来るようにお願いしておきます」
「楽しみにしてる。 ね? 黒子さん」そう坂本さんに名前を呼ばれると、「実に楽しみだ」と黒子さんは言った。

「ちなみに、竹内くんは涼ちゃん的にどうなの? ありなの?」
 坂本さんは母親のように、私の好みを聞いてきた。私の想像だが、坂本さんは店の若い子の恋バナを聞くのが、生きがいの一つになっているような気がする。中年の男性にここまで深く私の恋愛事情を聞かれるとは思わなかった。

「悪い奴ではないと思いますけど、好みではないです」
「あらら、それは残念」坂本さんは竹内と私が付き合うのを期待していたような言い方で反応した。
「まぁ、仲良くはしたいなとは思ってますよ」私は本音だった。そうすると、「おぉいいねー」なんて坂本さんは期待したような反応をした。

 竹内は勇斗のことを知っていたから、あそこまで私に忠告してきたのは、正直迷惑ではあったが。その行為の根源には、嫌がらせではなく、浮気をしている男から私を別れさせようとしていたと考えたら、悪いやつではないはず。付き合うとかは別にして、仲良くはしておきたい。店で気まずくなるのも嫌だし。

 飲み会の場のノリで決まった、無関係な姉には迷惑な計画ではあったが、家に帰って、姉に話してみると、「別にいいよー。なら日曜にでも、最近誕生日だった後輩ちゃんの初飲みで行くね」と快諾してくれた。一応、「なんか双子割引してくれるらしいよ」とも言っておいたのも効果があったのだろうか。

 日曜日、どりーむに行くと竹内は木曜日同様のぶっきらぼうのままだった。だけども、私は前よりも余裕を持って竹内を見ていられる。今までの竹内とのギャップがあって面白いくらいだ。そんな今の竹内から、いつも通りのバカ丸出しにうろたえる竹内になる瞬間を早くこの目に収めたい。その思いは坂本さん達も同じようで、竹内の後ろで私とニヤついた目配せをして、笑いを堪えたりしていた。

「いらっしゃいませー」
 私は開いた入り口を見る。そこには姉と、姉よりも背が拳ひとつ分高い女の子が立っていた。後輩と聞いていたが、姉よりも身長が高いその子のほうが先輩にも見えた。その子は私を見て、ギョッと目を見開いた。よくある反応だ。姉の知り合いと会ったら、大抵この反応。そして、姉と違う箇所を探してくる。

「2人で」姉はあくまでも客として言ってきた。

 周りから見れば、似たような顔の2人が店員と客で話しているのは、不思議に思うだろう。私も姉がバイト先に来て変な感じだ。恥ずかしい訳ではないが、小学校の参観日に親が来ているのか来ていないのか分からない時のソワソワする感じだ。

「こちらのテーブル席へ、どうぞ」
 私は入り口から一番近いテーブル席、坂本さんが焼鳥を焼きながらでも見ることができる位置へ案内した。今日はその席を一番後回しに案内するようにキープしておいてよかった。案内する時に坂本さんを見ると、双子であることは知っているはずなのに、姉を凝視していて驚いている様子だった。

 テーブルに着くまで、姉の後輩ちゃんにはジロジロと見られた。他のお客さんに呼ばれて私がテーブルから離れたら、後輩ちゃんは即座に姉に向かって、小声で確認したはずだ。

 私が注文を取って、厨房に入る時に竹内とすれ違った。そして、注文のハイボールを作って、厨房を出ようとすると、竹内が血相を変えて、厨房の入り口に立っていた。

「え? いるよな? 山下、今働いてるよな? おかしくないか?」さっきまで私に対しては押し黙っていた竹内が、流暢に疑問を口にしている。

「なに言ってるの? そこ、どいてくんない?」私は仕返しとばかりに、竹内の心情を理解しながらも冷たくあしらう。実際早く注文を届けなきゃなかったし。

 私が客席に出ると、「すいません」と再び姉に呼ばれた。私は注文をお客さんに届けると、メモとボールペンを出して、姉の座るテーブルの前に立った。

「凛(りん)さんの双子の妹さんなんですね」後輩ちゃんが姉から聞いたであろう事実を確認してくる。

「はい。妹の涼です」私は丁寧な接客で対応する。
「この子は夢ちゃんね。双子ってこと言ってなかったんだよね」姉がしてやったりな笑顔を見せる。
 夢ちゃんはニッコリ笑い会釈した。「もー止めてくださいよね。ただ飲みに行くだけだと思ってたら、凛さんそっくりの店員さんがいるんだもん。びっくりするじゃないですか」夢ちゃんは困りながらも嬉しそうに姉を責める。

 姉も私と同じ考えだったんだろう。夢ちゃんに双子だからできるドッキリを仕掛けたようだ。

「ご注文はお決まりでしょうか?」
 このままだと話し続けてしまうと思い、姉のせいでプライベートモードになりかけてた自分を、仕事モードに切り替えて注文を急かす。

「あっ、そうだそうだ。とりあえず私はレモンサワー。夢ちゃんはピーチウーロンだよね」姉がそう言うと、夢ちゃんはコクリと頷いた。「あと、焼鳥の盛り合わせと、唐揚げと、特製サラダ」
「はい。ありがとうございます」
 私は注文を書き終え、厨房に戻ろうと、体の向きを変えると、竹内が厨房の入り口の暖簾の下から、こちらを覗き込んでいた。

「いやー、やっぱそっくりだって。ドッペルゲンガーじゃねえの?」
 私が厨房に入ると、早速竹内が話しかけてくる。チラと竹内の後ろに目をやると、黒子さんの顔が緩んでいるのが見えた。

「バカじゃないの? ドッペルゲンガーよりも先に姉妹とかいう考えは浮かばないの?」冷たく言ってやろうと思ったが、予想していたとはいえ、実際にテンパっている竹内を目の前にして、笑いを堪えられなかった。

「あ、姉妹ね? え? でも似すぎじゃね?」
「双子の姉」今度はグラスに氷を詰めながら、冷たく言えた。
「あー、納得だわ。双子ね。おーすげー」竹内は特に嬉しくもない感想を述べている。
「とりあえず、サラダお願いしていい?」
「あ、うん」
 私はレモンサワーとピーチウーロンを届けると、「ありがとう。多分、作戦成功」と姉に伝えた。夢ちゃんは何のことか分かっておらず、目で姉に私の発言の解説を求めていた。

 いつもよりも穏やかな今日は早めの休憩をもらった。今日のまかないは鶏そぼろ丼。坂本さんが食べたかったから、ということで鶏そぼろ丼。美味しいから文句はないけど、ここは、そぼろの量が多すぎる気がする。卵とそぼろが1対1ではなく、1対2。体育会系の肉至上主義が料理に出ている。

「水曜日、私が男といたって思ってるんでしょ」
 私は休憩に入ると、黙々とまかないを食べる竹内に辟易しながら言った。さっきまでのうろたえのバカさはどこへやら、私への冷たい態度を思い出したらしい。

「思ってるって言うか、実際に見たし」竹内は丼をかき込む。どうやら勘や、ひらめきは働いていないようだ。
「あれ、姉なんだけど。今店に来てる」
「へ?」竹内は箸を止めた。
「男ってのもこの人でしょ?」私はスマホで姉と姉の彼氏のツーショットを見せる。

「あっ」画面を見た竹内は口を開けたまま一時停止した。「確かに」
「この人、姉の彼氏なんですけど。変な勘違いしないで欲しいんだけど」私が竹内を睨むと、竹内は口閉じて、申し訳なさそうに体を縮めた。「私は浮気するような女に見える?」
「いや、見えないです。見えない、見えない。すいませんでした!」ついさっきまで、思っていたのだろうけど、竹内は頭を振って必死に否定した。その否定の仕方は逆効果な気がする。とりあえず、慌てふためく竹内を見れて、誤解も解け謝罪を聞けたので、とりあえずは満足した。

「そういうことなんで」
 私は鶏そぼろ丼を控えめにかき込む。やはり私は肉が少ないほうが好きだ。

 休憩から戻っても、姉達は飲んでいた。姉も私と同じ飲める人間ではあるが、夢ちゃんもそこそこ飲めるようだ。20歳なりたてで大したもんだと感心した。

「今日の坂本さんおかしくないか?」
座敷の片付けを竹内と2人でしていると、竹内が言った。
「え? そう?」坂本さんは、いつもちゃんとはしてないが、おかしくはないだろうと思う。
「いや、いつも焼き場じゃ、焼鳥から目離さないのに、山下の姉貴の方をずっと見てたぞ。レジから見てて、なんか変だったもん」
「坂本さんは私が双子なの知ってるんだけどな」
「さっきも結構見てたから、ドッペルゲンガーかなんかだと思ってるんじゃないの」
「それは絶対ない」
「いや、それじゃないと、あの坂本さんが焼鳥焦がさないだろうよ」
「え? マジ?」
「マジ。だから俺それ貰ったもん」
「あんたも、なにやってんのよ」私は少し自慢げな竹内に呆れる。

「俺のことはいいんだって、とりあえず、坂本さん見てみなって。変だから」
 最初、姉が来た時も知っている割に驚いてはいるなと、思ってはいたが、変だとは思わなかった。

 私は座敷の片付けを終えて、厨房から坂本さんがいる焼き場を見ると、確かに坂本さんは手元の焼鳥と、目の前の席に座っているだろう姉の方を交互に見ていた。変と言われれば、変なのかもしれない。そんな考察をしていると、坂本さんに、「1番さんお願い」と言われた。1番は1番テーブルのこと、姉が座っている席。

「はい、お待たせしました」
「んーと、お茶漬け2つと、お冷2つお願いします」姉の顔色は何一つ変わっていないが、口調は少々気が緩んでいる。家にいる時と同じだらけた口調だ。

 後輩の夢ちゃんはどうなんだろうと、目線を夢ちゃんに移すと、可愛く顔を赤くしていた。両手で顔を抑えて、少しボーッとしている。その時に私は夢ちゃんの左手首に輝きに目を奪われた。

 店の照明に照らされ、桜色の光沢を放つ腕時計。控えめながらも、存在感を表すその腕時計に私は見覚えがあった。そして、それは一度しか見たことがなかった。 
 ここのパソコンでしか見たことがない腕時計。
 私と坂本さんがいいと言った色の腕時計。
 それを20歳に成り立ての女の子がつけている。学生が買えない値段ではないことはないが、夢ちゃんが隣の椅子に置いているバッグを見る限りは、高いバッグではない。どこにでもありそうな白のショルダーバッグ。そんなバッグと時計の値段が釣り合っているとは思えない。特別お金持ちのようにも思えない。

 私がテーブルを離れる時に、坂本さんに目を向けると、坂本さんと目が合った。坂本さんは、しまったというように、即座に目線を焼鳥に戻した。それを見て、これは、と自分の中で違和感のパズルが完成しようとしていた。

「いい時計ですね」お茶漬け用の、ご飯を茶碗によそう際に、後ろにいる坂本さんに話しかけた。

 坂本さんは視界の端でピクッとして、「あぁ、そうだね」と珍しい小声で答えた。

「だから、チラチラと見てたんですね」私も小声になる。
「入ってきた時に、まさかとは思って……。時計も目に入ったから、どうしてもね」坂本さんは参ったように言う。
 これが父性というものなのかと、自分の父を思い浮かべた。

「やっぱり変だろ?」
 私がお茶漬けを届け終えると、洗い物をしていた竹内が再び聞いてきた。

「坂本さんはいつも変だよ」私は軽く流す。
「いや、まぁそうだけどさ。今日は特に変だよ」
「ここ最近の竹内も大分変だと思うけど」
 私が冗談交じりに嫌味を言うと、「あ、はい。すいません」と言って、大人しく洗い物をし始めた。

 作業台の前で気を抜いている黒子さんを見る限りは、さすがの黒子さんも坂本さんの娘が来ていることは分かっていない。それに夢ちゃん自身も、実の父の店に来ていることを分かっていない気がする。すでに酔っちゃってるし。

 黒子さんと、竹内に、坂本さんの娘のことを説明するよりも、夢ちゃんに父親が目の前にいることは教えられないものかと迷った。ただ、ここは父娘間の問題で、他人が土足で入るものじゃないと悩む自分と、坂本さんも娘と話せたら、幸せなことは間違いないという自分が戦っていた。

 そんな自分間協議の結果、夢ちゃんに教えると言うより、自然に気づいてもらえれば、私の介入は最低限で、坂本さんを幸せにできる方法が1番だと結論出た。
 その時はすぐに訪れた。私がカウンター席の片付けをしていると、ご機嫌な姉に、「お会計お願いしまーす」と声をかけられた。

「はーい」と、私は言いつつ、目の前の坂本さんを見ると、名残惜しく夢ちゃんの方を見ていた。

 私はお会計と言われたのにも関わらず、カウンターに残されていた空の皿とグラスを持って厨房に入った。そして、竹内にその皿とグラスを任せて、坂本さんのもとに駆け寄った。
 坂本さんは私がレジに行かなかったので、焦った様子でこちらを見ていた。

「坂本さん、レジお願いします」
「え?」
「私、今レジできる気分じゃないんで、坂本さん、レジお願いします」
 私の無茶苦茶な理由で、レジをお願いしてもなお、坂本さんは、「え?」と硬直している。その時、私の目の端で、素早く動く人の姿を捉えた。黒子さんだ。

「黒子さん!」私は、躊躇なく大きな声で黒子さんを呼び止める。
 黒子さんは怒鳴られた子供のように即座に止まった。カウンターにいたお客さんと、テーブル席に座っていた一組のカップルに注目を浴びたが、ここは気にしない。

「店長、レジお願いします」坂本さんの脇腹のシャツを掴んで、これでもかっていう眼力で訴えかけた。坂本さんは、普段私が見せないような奇行に、恐れつつ、「はい」と返事をした。

 坂本さんがレジに着くと、姉が、「あのーなんか、双子割引が効くって聞いたんですけどー?」とフワフワと浮ついた口調で尋ねていた。

「あっ、はい。双子割引」坂本さんは、レジに表示された合計金額から二千五百円を引いた。
「えっ、そんなのあるんですね」夢ちゃんが割引に驚いて、姉の後ろから顔を覗かせる。
「はい。当店では、双子割引をしています」坂本さんが夢ちゃんをじっと見ながら答えた。

 周りからすると、ただ単にお客さんに優しく言う店長の姿ではあるが、私には娘の成長をじっくりと大事に感じている父親に見える。

「へー、双子割なんて初めて聞いた。いい店ですね」
 私からは夢ちゃんの顔は見えなかったが、きっと歯を思い切り見せて笑ったはず、坂本さんが今そうだから。

 姉が夢ちゃんの分も払い終えると、「ありがとうございました。また来てください」と坂本さんは、入り口のドアを開けて、その大きな体を深く折り曲げた。姉と夢ちゃんは、「ごちそうさまでした」と声を揃えて店を後にした。

 坂本さんは入口のドアを閉めずに、少し顔を外に出して、夢ちゃん達の後を見ていた。
 夢ちゃんは坂本さんの顔を見ても父親と気づいたような言葉は発してなかったが、坂本さんの満足そうな顔を見ると、別にこれで良かったと思える。

 0時になり、お客さんもいなくなったところで、坂本さんは店の前の暖簾を下げに出た。暖簾を肩に担いで店に戻ってきた坂本さんに、レジの精算をしていた私は、「「どりーむ」っていい名前ですね」と声をかけた。
「でしょ」と坂本さんは得意げに笑った。「今日はありがとね。涼ちゃん」

                *
 今日は山下が2人いた。従業員の山下と、客の山下。山下は何の恐れもなく、自分と同じ顔をした客を接客していた。

 どうかしている。俺なら間違いなく、自分と同じ顔した客が来たら、問答無用で年齢確認をする。そして、年齢だけでなく、名前も確認する。もし、歳も名前も俺と同じだったら、接客どころではなくなるはずだ。不思議な世界に迷い込むこと間違いなしだ。もう何も信じられなくなる。パニックになるはずだ。

 でも、山下は何やら雑談をしている。「同じ顔ですねー」なんて軽い感じで会話を交わしているというのか? 相手は、いずれ自分を乗っ取ってくるかもしれないドッペルゲンガーかもしれないんだぞ? 山下の危機管理能力の無さには、もううんざりだ。

 なんて心配も、山下に、「双子の姉」と説明されたときには、また余計な心配をしていたのかと、あっけにとられた。双子なんて聞いてないし、新潟出身の山下の姉が、埼玉にいるなんて思わないだろ。姉妹揃ってどんだけ埼玉好きなんだよ。

 俺は余計な心配を度々裏切ってくる山下に腹がたって、俺は再び山下との友好を断絶したところ、山下に俺の心を読まれたような、説明を受けて、すぐに元の状態に戻された。

 双子の姉がいることを知らない人間が、姉と山下が一緒に住んでいるなんて想像できるわけがない。山下を悪い女じゃない、と信じなかった俺も悪いんだが。

「なんで、姉が食べに来てたの?」
 どりーむの帰り道、俺は山下に尋ねた。
「ん? 後輩の子が20歳になったばかりだから、居酒屋デビューさせたかったんだって」
「なるほどね。姉御気質だな」
「それがね」山下は、ちょっと奥さんと言うような主婦みたいな手振りで言った。「姉が連れてきた後輩っていうのが、坂本さんの娘だったんだよ」
「は? マジで?」
 俺は山下が2人いるって思い込んで、山下の姉を見たときよりも驚いた。思わず飛び跳ねて、歩みを止めた。思考も止まっていた。山下も俺の反応に満足そうに笑って、立ち止まった。

「マジマジ。私も途中で気づいたんだけどね。だから、姉の会計を坂本さんに押し付けたんだよ」
 山下の姉に注目を全部持っていかれていたので、その坂本さんの娘となる人物の印象は、女ってだけだが、山下が不可解にも坂本さんをレジにお願いしていた理由が分かった。さらに、今日の坂本さんの様子が変だなと感じた理由にも納得がいく。山下の姉を見ていたんじゃなくて、我が子を見ていたわけだ。

「そんなに坂本さんに似てたの? よくわかったね」
「まぁ坂本さんの娘って見たら、似てなくもないけど、まぁ分からなかったよ」
「じゃあなんで?」
「その子がつけてた時計だよ」
「時計なんかに、私は坂本さんの娘ですなんて書いてあったの」
「まぁそうだね」
 俺はボケたつもりだったのに、山下にツッコまれなかった。「なに言ってんの。バカじゃないの」なんて強めに言われると思ったのに。

「あの子がつけてた時計は、坂本さんがあげたやつなんだよ。選んでるところを見てたから分かったんだ」山下は歩き始めた。「それに、その子の名前は、「夢」だったから、より確信に近づいたよね」
「夢? え、それがなんで?」
「ほんとに、勘とか、ひらめきがないね。竹内は」
 なぜかここであしらわれる。
「夢だよ、夢。夢は英語で?」
 突如の英単語の問題に、俺は戸惑いながらも、「Dream」と答えを出した。そして、「あ」と、ひらめきも口に出した。

「わかった?」山下は、待ちくたびれたような言い方だった。

「あー納得だわ。いや、「どりーむ」って平仮名だからさ、ぱっと英単語としてカウントしてなかったんだよ」
「口に出したら、一緒でしょうが」
「いやー、平仮名の、「どりーむ」は店名、アルファベットの、「Dream」は英語で夢って俺の中の辞書に登録されてたんだって」
 俺が正直に言い訳がましく言うと、「なに言ってんの? バカじゃないの」とお得意の煽りを山下から頂いた。

「でも、竹内から、坂本さんの様子が変だ、って聞かなかったら、私は夢ちゃんが坂本さんの娘だなんて気づかなかったな」
 山下はアメとムチを使い分けるように、俺の指摘を褒めた。素直じゃないやつだ。

「俺だって、山下が言うほどバカじゃないんだよ」
「本気でドッペルゲンガーを信じてたのは?」
「少年の心を忘れてないんだよ」
「やっぱり、バカだよ」山下は笑った。そして、「あ、そうだ」と何かを思い出すように言って立ち止まった。

「どうかしたの?」
「竹内から誕生日プレゼント貰ってないな。じゃがりこ3つ」
「え?」まさかの2ヶ月前の話で、俺は記憶を巻き戻すのには時間がかかった。「あぁ、たしかに渡しそびれてたな」
「それじゃあ、次のバイトの時にお願いね」
 山下は2ヶ月遅れの誕生日プレゼントを俺に催促すると、体の後ろでトートバックを持ったまま、歩きだした。
 

 俺は山下と別れてから、どりーむに舞い戻った。店に入ると、坂本さん達は俺が来るのを分かっていたようで、テーブル席に座っていた。

「いやー、おつかれ様だねー、竹内くん」坂本さんは銀色のバケツのような入れ物に入っていたボトルを、ワイングラスに注ぐ。
「え? これなんですか」俺は自分のグラスに注がれた、スパークリングの白ワインのような液体を見て言った。
「これが、噂のドンペリだよ」坂本さんは変に澄ました顔で、ドンペリのボトルを拭いた。

「は? ドンペリ?」
「そ、ドンペリ」
「え? なんでまた」
「んー。ずっとこの店に置いてあったからね。そろそろ飲んであげないとなー、と思って」
「はぁ」
 俺は閉店後の居酒屋で飲むなんて、想像もしなかったドンペリの入ったグラスを持って、まじまじと、底から水面に向かっていく泡を見つめる。ドンペリと聞いたら、ただの炭酸の泡ではないように見える。1泡1円くらいするのかなんて、庶民的な考えが浮かんだ。

「はい。乾杯!」
 坂本さんと黒子さんが傾けたグラスに俺も、それっぽく傾けて、グラスを鳴らす。

 ただ、ドンペリと聞いて飲んでも、特別美味しくは思わなかった。すごい飲みやすいが、だからといって、声を上げて感動するほど、美味いと思えなかった。バーベキューで夏空の下飲む缶ビールのほうが、唸り声をあげる。どうやら、俺はお子様のようだ。

「いやー、久しぶりに飲んだけど、いいねー。シャンパンは」坂本さんは、贅沢とシャンパンの味を噛み締めながら言った。
「そうだねー」黒子さんも、気を抜いた共感を口にする。
「よかったね。竹内くん。涼ちゃんが浮気してなくて」坂本さんは焼鳥の皮を歯で串から引き抜く。シャンパンのつまみに焼鳥ってどうなんだ。ある意味贅沢なのか。それになんで知ってるんだ?

「そうですね。これまでの苦労は無駄じゃなかったですね」
「だねー。竹内くんはこれからが大変だろうけどね」坂本さんが、何か勘違いしたままニヤつきながら言うと、「チャンスは十分あるからね」と黒子さんもニヤついて、俺に言ってくる。

「別に山下にはそういうつもりじゃないですから」俺は相変わらずの煽りをかわす。
 俺は林への復讐がしたかっただけ、そこにたまたま山下が絡んでいただけだ。

「まぁ楽しみにしているよ」坂本さんはドンペリをグッと飲み干す。気品のある紳士が飲む様子とはかけ離れている。天下のドンペリ相手に、安酒の扱いをしている。

「そうだ、坂本さん」俺が呼ぶと、坂本さんは、「ん?」と眉を上げた。
「どりーむ、っていい店名ですね」
「だろ? 自慢の店名だよ」坂本さんは目尻に皺を寄せた。


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