居酒屋 どりーむ⑥

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 8月になって、大学の前期の授業が終わり、無事にテストも終わった。多分、俺の成績も終わった。それもこれも、俺に張り込みをさせた林が原因と言っても過言ではない。

 部活漬けの夏休みの俺は、肌の黒さに限界が来て、山下に、「竹内の腕、ミルフィーユみたい」と引かれたくらいだ。

 埼玉が暑さに本気を出して、1ヶ月経とうが、埼玉生活6年目だろうが、この暑さには慣れず、耐えられずで、夏バテ気味だ。どりーむでの賄いは、メニューにはないが、冷やし中華を特別に作ってもらっていた。ただ、その麺を茹でている坂本さんは汗だくになっているのが申し訳なく思う。

 お盆休みはチェーン店とは違い、どりーむは一週間の休みになったのは有難かった。お盆の半分は合宿で潰れたが、残り半分は地元に帰省することができた。

 山下は相変わらず林と付き合っており、このお盆休みの半分は、京都に旅行に行ってきたらしく、お盆休み明けには八つ橋を持ってきていた。
 林との旅行のお土産なんて食べるもんか、と意地を張っていたが、坂本さんが、「これ、うめえな」と衝撃を受けていて、黒子さんも声には出していなかったが、すぐさま2個目の八つ橋に手を付けていたので、結局食べた。美味かった。

 俺の中で山下と林の熱愛発覚から1ヶ月経って、特に山下も林に疑いをかける様子もないので、俺は以前ほどの焦燥感はなくなっていた。林が改心することは絶対ないと思うが、山下が林と仲良くやっているところに、横やりを入れるのが疲れた。どれだけ俺が必死になっても、どこか墓穴掘っているように思われるだけだ。

「今日1杯いけるかい?」
 8月の最後の週、いつも以上に暇だった日曜日の締め作業を終え、山下が先に更衣室で着替えている時に、黒子さんが誘ってきた。

「はい。大丈夫です」林のことについて相談してた7月以来の、どりーむでの飲み会の誘いに少し戸惑った。「山下を送ってからでいいですよね?」

「そうだね。その方がいい」黒子さんは、してやったりな笑みを浮かべた。

「んじゃあ、おつかれー」山下はいつも通りの道に曲がっていく。

「ん。おつかれー」俺はいつも通り別れを告げ、そのまま少しだけ進む。そして、立ち止まってスマホを数分いじり、もと来た道を引き返す。シャッターの閉まった店の端から、山下が曲がっていった道を覗き込んで、山下がいないことを確認する。人1人いないことが確認できると、素早く道路を渡り、どりーむまで小走りで戻った。

「お、きたきた。いらっしゃい」

 俺が店に入ると、今日の坂本さんたちは一番手前のテーブル席に座っていた。黒子さんが自分の隣の椅子を引いたので、導かれるようにそこに座る。

「はい。おつかれー、甘くないやつ」
 どこかで聞いたことあるようなセリフを言って、坂本さんは俺に焼酎の水割りを渡してきた。俺は受け取ると、「お疲れ様です。いただきます」と、頭をグラスの下に下げ、一口飲んだ。坂本さんの言う通り甘くない。特別うまいとも思えなかったが、飲めなくはなかった。ただ、甘くはない。

「あれから、1ヶ月位経つけど、どうよ」坂本さんは残った鶏刺しを頬張る。

「いやー、特にないですね。京都行くくらい仲良いままみたいですし」
 林については特に進展がなかったので、坂本さん達には何も言ってなかった。

「ねー、羨ましいよ。旅行なんて」坂本さんはしかめっ面でカウンターの方を眺めている。「そう思わないかい、黒子さん」

 共感を求められた黒子さんは、コクリと頷いた。そのまま何も言わないのかと思いきや、「でも、心の底から羨ましいとは思えないな」と、聞こえるか聞こえないかギリギリの声量で言った。

「ん? なんで?」坂本さんが問いかける。

「えー、今日集まってもらったのは他でもない」黒子さんは何やら集会でリーダーが言いそうな言葉を口にする。「その、涼ちゃんと林のことについてなんだが」

 そう言うと黒子さんは、ポケットから数枚の写真を出した。

「あっ」俺は、なんの写真か理解すると声が漏れた。

 坂本さんは1枚の写真を手にとって、透視でもするように目に力を込めて眺めていた。その甲斐なく、「誰だ、これ?」と降参を告げ、写真をテーブルに置いた。

「それが、涼ちゃんの彼氏だよ」黒子さんはグラスに入っていた焼酎を飲みきる。「隣にいる子は涼ちゃんじゃない女の子のはず」

 坂本さんは驚いて、テーブルに置いた写真を覗き込む。「え? あ、ホントだ。こんなに髪長くないもんね」と、声を大きくした。

 黒子さんが出した写真は、林と思われる男が、山下じゃない女と並んで歩いている写真だった。顔ははっきりとは分からなかったが、紗華とも違う女であることは明らかだった。身長が全然違う。写真の女のほうが高い。

「そう。この前撮った」
 黒子さんは当たり前のように、撮った、と言ったが、黒子さんの出した写真のアングルは、全て、近距離かつ低位置で撮ったものだった。全部の写真を見てみると、時系列で林と歩道ですれ違っていた。林の正面、林の横、後ろ姿の写真。週刊誌に載っていそうな、隠し撮りとしか思えないアングルだった。同じアングルをスマホで撮るには明らかに怪しまれるはず。

「これは間違いなく林ですよ。どうやって撮ったんですか?」
「どうやってって、カメラで」黒子さんは無表情で分かりきった答えを言う。
「いや、写真なんでカメラを使ってるのは分かりますけど、こんな近距離で写真撮れますか?」俺が疑問をぶつけると、黒子さんじゃなく、坂本さんが、「黒子さんはね。昔探偵だったんだよ」と答えた。

「え? 探偵?」俺が黒子さんを見ると、「そう。元探偵ね」黒子さんは照れくさそうに言って、グラスに焼酎を注いだ。

 その発言で、黒子さんの盗撮技術の高さに俺は納得がいった。心のどこかで、もしかしたら、黒子さんはそういう趣味があったのかと疑ってしまったが、違ったようだ。よかった。

「探偵って、すごいですね! 推理で犯人見つけたりしてたんですか? 一時は見た目は子供になってたとか」
「元探偵ね。それにそんなかっこいいもんじゃないよ。俺はただの浮気調査をしてただけ。麻酔銃付きの腕時計も持ってないし、子供になる薬も飲まされたことはないよ」黒子さんは俺のノリにノッてくれた。「浮気調査用の道具はまだ持ってたから写真を撮ってみたんだよ。竹内くんも必死だったし」

「ありがとうございます!」黒子さんには感謝だ。ただ色々と疑問が残った。「でも、1回店に来ただけの林の顔をよく覚えてましたね」
「いや覚えてはいなかった」黒子さんは俺から目を逸らした。
「じゃあどうして?」坂本さんが聞くと、黒子さんは自身のスマホを取り出し、画面をこちらに見せてきた。

 その画面には林がSNSに載せている写真が表示されていた。「大学名とフルネームが分かれば大体特定することはできるんだよ」
 俺も坂本さんも画面を見たまま、何も言えなかった。まさか林のアカウントまで特定しているとは思いもしなかった。

「へー、すごいねー」坂本さんは簡単に納得していたが、俺は簡単には納得できなかった。「でも、林のアカウントって――」と、俺が口に出しかけると、黒子さんは、「そう、非公開だったよ」と、俺が言おうとしたことを言った。

「じゃあどうして林が載せている写真を見れてるんですか?」俺は疑問が余計に積もる。

「ん? 非公開って?」坂本さんはそもそもSNSについてよく分かっていないようだ。

「娘にアカウントを借りて、林をフォローしたんだよ。一応、娘も西大生だから特に怪しまれなかったよ。それなりの小遣いを要求されたけど」
「あーなるほど」俺はやっと納得がいった。
「フォローってなに? なんか助けたの?」坂本さんは益々訳が分からなくなっていた。

「SNSで林の顔が分かったのは理解できたんですけど、浮気現場はどうやって押さえたんですか?」
「それは、前に竹内くんが言ってた、林が働いているかもしれないコンビニに張り込んで、バイト帰りの林を尾行したんだよ」
「だから、ここのところ早めに帰ってたんだね。珍しいなと思ってたんだよ」今度は坂本さんが1人理解していた。

 俺がいる日は、そんなことはなかったが、最近黒子さんは早めに上がっていたようだ。俺のためにわざわざ。

「よくバレなかったですね。さすが探偵!」
 俺が再び尊敬の念を口に出すと、黒子さんは、「元探偵」と訂正しようとしたのか、「も」と言いかけたが、途中で面倒になったようで焼酎を一口飲んだ。

「竹内くんと一緒にされたら困るよ。何日も尾行してたら、ある日、林が自分の家に帰らずに違うアパートに入っていったんだよ。そして、そのアパートの前で少し張り込んでいたら、すぐに写真の女と2人で出てきて、コンビニに行ったんだ。その帰り道に、この写真を撮った。それから2人はアパートに戻っていったよ」

「うおー探偵だ。探偵だ」
「で、恐らく、その女はバイト先が林と一緒の子みたいだな。名前は立石(たていし)優(ゆう)」黒子さんは元探偵という訂正をする素振りを一切見せずに言った。
「どうして名前まで分かるの?」坂本さんは俺が言いたかったことを代弁する。
「林が入っていった部屋番号のポストの中を確認したら、「立石優」宛の郵便局からのお知らせが入ってたんだ。名前まで特定できたのは偶然だよ。入っていく部屋が見えて、ポストが1階にまとめてあるアパートだったから」

「ちなみに、その立石優のSNSのアカウントは……」俺がまさかと思って聞くと、「もちろん特定済み」と黒子さんは当然のごとく答えた。

「いやー、ついに浮気の証拠を掴んだ訳だ。あっぱれだね、黒子さん」さっきまでの俺と黒子さんの会話についていけず、あまり発言できずにいた坂本さんが息を吹き返すように言った。

 名探偵クロコさんのおかげで、林の悪事を遂に暴けた訳だ。この写真を元手に、林が山下の思っているような好青年でないことを伝えることができる。それに過去の悪事も全て話してやる。こちらに揺るぎない証拠がある以上は、林も慌てふためき、いつもの余裕ぶった笑顔は消えて、しどろもどろの言い訳をする姿が想像できる。実に愉快だ。

「どのタイミングで、そのことを言うかだね」坂本さんはいつの間にかウイスキーをロックで飲んでいる。
「林と山下が一緒にいる時に言いたいんですよねー」
「おー自ら修羅場を作り上げるのか」
「そこで、林をギャフンと言わせるには、そうするしかないですよ」
「それじゃあ、僕がうまいこと涼ちゃんから次のデートの予定を聞き出してみるよ」
「ありがとうございます。よろしくおねがいします」
 俺は頭を下げて、グラスを坂本さんに向けて掲げた。

 9月になってはじめての出勤の時に、事務所で坂本さんが、「涼ちゃん、土曜日デートらしいぞ」と嬉しそうに伝えてきた。山下が近くにいる訳でもないのに、俺の耳元に手を当ててまで伝えてきた。坂本さんもこの状況をずいぶんと楽しみにしているようだ。

「土曜日ですか。どこに行くって言ってました?」俺も坂本さんのノリに合わせて、声を潜める。
「とりあえず、東京の方でデートらしい」
「なるほど。じゃあ、夜中に電車で帰ってくる可能性は大ですね」
「あぁ、電車で行くって言ってたし」
「そこまで、調査済みなら、土曜の夜に、駅の改札前に張り込んでいたら、山下coupleに会えますね」
「そうだよ。そうだよ。頑張ってくれよ、マジで。黒子さんもあんなに動いてくれたわけだし」
「ですよね。ここまでしてもらって不発に終わるわけにはいきませんよ。山下が林にビンタする姿が目に浮かびます」俺がそう言うと、坂本さんは口元がほころんでいた。

「座敷の掃除手伝ってもらっていいですか?」
男2人が事務所でコソコソ話している所に山下が乱入してきた。山下は並んだように立っている俺と坂本さんを見て、表情筋をこわばらせたのが分かった。図体のでかい男2人が、密室で近所の主婦が噂話をする時のように立っていたら、無理もない。

「分かった。すぐ行く!」
坂本さんは気まずさを払拭するような元気な声で返事をすると、俺の背中を押した。山下もバカにしたような溜息をついて、厨房に引っ込んだ。

 土曜日、俺は駅の改札前に張り込んだ。張り込みと言っても、前の紗華のアパート前の駐車場で、不審者と紙一重の張り込みとは違う。改札口から、駅構内の商業施設に続く道の間にあるベンチに、あたかも待ち合わせをしている雰囲気をかもし出して座っているだけだ。

 とはいえ、21時からここに座って、すでに1時間経過している。ベンチの向かいにある、カレー屋の店員に何やら噂をされている気がする。2人の店員が小声で話しながら何度もこちらを見ていたから。まぁ不審者とよりも、ひたすらベンチに座っている、約束を破られた悲しい男として見られていると思う。不審者に思われるくらいなら、別に悲しい男で構わない。

 俺は定期的にスマホに保存した林の浮気現場の画像を睨む。写真だったら、失くすか、破るか、してしまいそうだったので、黒子さんから電子データをもらっておいた。充電が切れたら元も子もないので、モバイルバッテリーも準備している。完璧だ。

 俺が何十回目かの林の浮気現場の画像を表示した時だ。小さな群衆の雑踏が聞こえてきたので、改札の方を見ると、20人程の人の波の最後尾に浮かび上がるようにして、山下と林の姿が見えた。

 改札の向こうで楽しそうに話しながら歩いてくる林を見て、俺は別に殴るつもりはないが、手の指の関節を鳴らせるだけ鳴らした。そして、腰を上げ、改札をくぐってきた人たちの間を縫って、改札を通った直後の林の前に立ちはだかった。

「あれ? 竹内くんじゃん。偶然だね、こんなところで」林は俺の全力の睨みを無視して、とぼけたように、いつもの作り笑顔で話しかけてきた。
「ほんとに、何してんの?」山下は俺の顔を見て、不満げに聞いてくる。俺の表情からこの反応が普通のはず。
「あんたは、本当に懲りない男だな」俺がドスを利かした声で言うと、「えっ、なにが?」と、林はいつもとは違う困った笑顔を見せた。

「「あんた」って、あんたこそ何言ってるの? 誰に言ってるか分かってるの?」山下は俺の左腕を引っ張って林から離そうとしたが、俺は目線を林から外さず、一切動かないように踏ん張った。さすがの林も口角が下がり、奥歯を食いしばっている。

「何が言いたいのかな?」林は俺の因縁に答えるようにガンを飛ばした。
「あんた、紗華と4月まで付き合ってたろ」
「紗華? もしかして、芦田紗華?」聞き慣れない言葉を聞いたような反応をして、林はとぼけた。
「そうだよ。芦田紗華」
「同じバイト先の子だけど、付き合ったりなんかしてないよ?」さっきまでの怒りの感情を消して、林は自分にまとわりつく蚊でも見るような顔になっている。
 どこまでも、演技がうまい男だ。売れない俳優にでもなればいい。

「去年の夏頃、紗華のアパートにあんたは行ったはずだ。そして、紗華とヤッてる最中に隣の部屋から壁を殴られたはずだ」
「紗華ちゃんの家なんて知らないし、そんなことになったことないよ」林の表情は変わらない。
「あぁそうか、じゃあ、これは誰だ?」俺は警察手帳を見せるようにスマホを持って例のスクープ画像を表示する。

 林は目を絞るように細めて画像を睨む。さっきから黙りこくって事態を見守っている山下も、首を伸ばしてスマホの画面にかじりついている。

「これ、優さん?」そう言ったのは山下だった。
「そうだね。優だね。確かに最近コンビニでバッタリ会ったけど」林は何の後ろめたさもなく答える。

 浮気相手の画像を見ながら、よくもまぁ心拍数の1つも上がっていないような表情で、彼女と話せるな。もうこれはサイコパスの域だ。
「優さんて、勇斗の元カノだよね?」俺が更に追求しようとすると、山下が思いもよらない発言をした。
「そうだね。去年別れた」林はスマホから俺に視線を移して、「写真まで撮って僕に嫌がらせしたいの? そこまでして僕と涼を別れさせたいの?」と、俺が林から落ち着いて追求をされた。山下も、「これ盗撮だよね? なにやってんの? マジで」と怒りを露わにして追求してくる。

「いやいや、あんたが俺の当時の彼女の紗華を寝取って、かつ山下と2股して、紗華と別れた今は山下と付き合いながらも、その優さんの家に行ってたんじゃねえかよ」
「なんか、色々と誤解してないかい? それに君がしていることは犯罪だよ? この前も僕の後ろを歩いていたのはそういうことだったんだね」林は自分の事を棚に上げて、俺の行動が犯罪だと言ってくる。

 盗撮行為に、尾行に、犯罪と言われてもそれは間違いないのだが、問題はそこじゃないんだよ。
「後ろを歩いていたって?」山下が聞くと、林は俺を見ながら、山下の耳元で、「少し前に、バイト帰りの僕の後ろを竹内くんが歩いてたんだよ」と言った。それを聞いた山下の俺を見る目がより一層キツくなった。小さい虫なら殺せそうな眼力だ。

「ただ、普通に2人で歩いてる写真を見せつけられて、この後、優の家に行っただろ、って、でまかせもひどいもんでしょ。それにこの写真も最近のじゃなくて、去年僕が優と付き合っていた時の写真なんじゃないの? 紗華ちゃんを奪った相手を僕と思って盗撮した時の写真とかなんじゃないの?」

「俺は、ただ事実を言ってるだけだ」
「なに? 涼が好きだから、とりあえず俺と涼を別れさせたいの?」
「はぁ? 別にそういうわけじゃねえよ。あんたが紗華を寝取った上に、同じバイト先の子を2股にかけてたって知ったら、放って置けなくなったんだよ!」
「だから、僕は紗華ちゃんとは無関係だし、優の写真のでっち上げが過ぎてるよ」
 俺と林がヒートアップしだしたところで、ホームから改札への階段に、人がぞろぞろと降りてきた。

「もういいよ、さっさと帰ろ」山下は、林の手を引いて俺の側を通り過ぎた。
 林も山下に手を引かれながら、俺に殺意をぶつけてきた。やっと、本性を表しやがった。今見た林が本当の林、悪魔だ。

 改札口から、人が流れ出てきたが、俺は動けなかった。みんな、俺を煙たがるような目で見ながら通り過ぎていく。非常に申し訳ないが、場違いなところで精神状態が不安定になっているということで見逃してほしい。時間が朝の通勤ラッシュの時だったら、突き飛ばされても文句は言わない。

 画像まで準備していたのに情けない。結局感情に流されて、説得力がなくなった。なんで、元カノと夜中に一緒にいる写真を見せて、黒子さんから聞いた事実を言っても、山下は浮気と疑わないんだ。

 くそ、今まで俺がしてきた林に対する言動が影響しているのは間違いない。俺が山下に惚れて、林と別れさせようとしているように見られちゃ、もう無理だ。俺はただ、あの憎き林を懲らしめて、林の被害者を減らしたいだけなのに。

 うなだれながら、俺はやっとこさ石にでもなったと思った足を動かした。改札から離れるように歩きだすと、カレー屋の店員と目があった。俺を見る店員の目が気の毒そうであるから、痴話喧嘩、修羅場ともとれる、さっきまでの一部始終を見られていたのだなと察するのは余裕だった。話の内容まで聞こえていたのであれば、結局の所、俺は好きな女の彼氏を盗撮して、浮気をでっち上げたクソ野郎と認定されたはず。それなら、まだ不審者のほうがマシな気がした。

                 *
「もう、あの子がいるバイトは辞めたほうがいいんじゃない?」
 東京デートからの帰り道。勇斗が私に提案してきた。それは無理もない、この前、竹内に変質者扱いされたと思ったら、さっきは浮気男扱いされたのだから。

「んー。まぁそうだよね。これから気まずいし」
「そのうちに涼のことをストーカーしてくるかもしれないし……。僕から守るためとか言って」
「あー、そうだよね」
 珍しく勇斗が怒っている。変質者扱いされたときは、竹内を面白がっていたが、今回は仏の勇斗でも我慢できなかったようだ。彼女の目の前で、元カノとの盗撮写真や、本当かどうかよく分からないことを言われたのだから、仕方ない。私だって勇斗と同じ気持ちだ。竹内はバカだが、あそこまでするような、無駄に行動力のあるバカだとは思わなかった。

「でも、あのバイト先より条件いいバイト先はあまりあるとは思えないから、私がやめるというより、竹内に辞めてもらおうかな」
「そうだね。涼が辞める必要はないよね。ごめん、色々ややこしくしちゃって」
「謝らないで、悪いのは竹内なんだから」
 勇斗は優し過ぎる。そんな勇斗に迷惑をかける竹内に腹が立って仕方がない。せっかく楽しかった東京デートが、埼玉に着いた瞬間に竹内にぶち壊された。

 とはいえ、画像を見せられたときはドキッとしなかったと言えば嘘になる。勇斗のことは信頼している。浮気してるんじゃないか、なんて疑うことはなかったとはいえ、いざ画像まで見せられて、これが浮気相手だろ? なんて言われたら、動揺せざるを得ない。ただ、私が焦っても、当の本人は冷静にしていたのだから、浮気現場を押さえられた人間には見えなかった。

 冷静沈着な勇斗を見て、私は一呼吸おくと、まず、そんな画像を撮った竹内に不信感を覚えた。なんで、竹内がそんな写真を? という疑問が私の脳内のほとんどを占めた。明らかに盗撮。しかも偶然道端で見かけたとかいうわけはない、竹内の家は逆方向だし。

 写真も元カノと勇斗とのツーショット。ここ最近の写真であるかどうかも怪しい。昔から勇斗に恨みを持っているようなことも言っていたし。

「サヤカちゃんて、誰なの?」
「バイトが一緒の子。1個下だから、涼と同い年の西大生。ただ、さっき竹内が言ってたような関係じゃないし、2股なんてするわけがないよ」
 勇斗は私の手を握って、神に誓うように言った。私も信じたい。前から、「林さんて浮気したりしないの?」なんて言ってくる竹内の、勇斗への嫉妬からゆえのでまかせだと信じたい。もし事実でも信じたくもない。

「だよね。勇斗がそんなことするわけないよね」一応確認も込めて言う。
「そうだよ。涼がいるのに、他の女の子に手を出すわけがない」勇斗も確認するように言った。

「おざまーす」
 どりーむに行くと、相変わらず腑抜けた挨拶が返ってきた。昨日の今日で竹内に会うのは非常にストレスだと思い、先輩の小谷さんに代わってもらおうと連絡したら、先に竹内くんと代わちゃった、と言われたので、私は休まずに出勤した。どうやら今回は竹内でも出勤してくることはできなかったようだ。小谷さんはまだ来ておらず、事務所には坂本さんだけがいた。

「そうだ、涼ちゃん! デートはどうだったの?」坂本さんは私が靴を履き替えていると、椅子を回して、こちらを向いた。

「あー、まぁ楽しかったですよ」今一番聞かれたくなかったことを、聞かれたが、とりあえず当たり障りのない返答をした。ただ坂本さんは、「えっ?」と一瞬固まってから、慌てたように、「それはよかった」と付け足した。

 坂本さんの反応がどうも引っかかった。坂本さんはどこか納得いかない様子で、パソコンに向き直した。
「もしかして、坂本さん。私が土曜日デートすること竹内に言いました?」私がそう言った瞬間に、坂本さんは分かりやすく巨体を揺らした。「え? なんで?」
「土曜日に竹内が駅にいたんで」大事なところは言わなかった。

「え? あーそうなんだ。別に僕は何も知らないけど」坂本さんは私を見ずに、椅子の背もたれに肘をついて、更衣室の方を眺めている。

「そこで、竹内が私の彼氏に向かって、浮気してるだろとか騒いで、盗撮した画像まで見せつけてきたんですけど」私が昨日の出来事を伝えると、「彼氏浮気してたの?」と坂本さんは、わざとらしく声を大きくした。

「してませんよ。竹内の妄言ですよ。彼の尾行までしてたんですよ。信じられませんよ、あの変態」
 私が竹内に対する嫌悪感を露わにすると、坂本さんは立ち上がった。

「ごめん、涼ちゃん。それは、竹内くんだけの行動じゃないんだ」坂本さんは頭を下げた。正確には、首だけ曲げた。
「どういうことですか?」
「竹内くんから色々話を聞いてて、僕と黒子さんが竹内くんに加担したんだよ」坂本さんは頭を上げたが、目線は下を向いたままだ。「竹内くんが見せた画像は、実際は竹内くんが撮ったものじゃないんだ。竹内くん本人は写真も撮っていないし尾行もしていないんだよ」
「え?」
 私は理解できないままいると、坂本さんは机の引き出しから、写真を数枚取り出して机の上に置いた。その写真の一枚は竹内が見せてきた画像と同じものだった。

「まぁ写真はこれで全部。データの方は削除しておくから、竹内くんのことは許してあげてほしい。彼も、涼ちゃんのことを思っての行動だから」
「いや、坂本さんも竹内の嘘に乗せられて手伝ってたんですか?」
「ごめん。竹内くんがあまりにも必死だったから。それに嘘とは思えなかったし」
 私は写真を全部手に取った。

「私は竹内の言うことなんて信じられないです」
「僕だって、なにか証拠を見せられたわけじゃないけど」坂本さんは弱った表情で、私が持っている写真の中から1枚の写真を取り出した。「でも、このバッグって、涼ちゃんがあげたバッグじゃないの?」
 坂本さんが手にとった写真を見ると、勇斗と優さんの後ろ姿の写真で、勇斗の背中には私があげたバッグが背負われていた。

「このブランドのバッグのデザインすごい特徴的だし、ネットで見る限り、この柄は今年の柄なんじゃないの? だから、もしかしたら、この男は涼ちゃんの彼氏なんじゃないかなって勝手に思ってたんだよ」
 あの時、駅で見せられた画像では確認できなかった、勇斗が背負っていたバッグの柄が、坂本さんの写真ではちゃんと確認できる。

 私が今持っている勇斗の正面からの写真と、坂本さんの持っている後ろ姿の写真の場所は、ほぼ同じ。同時刻に撮られたもので間違いない。となると、この写真は今年の写真。しかも勇斗の誕生日の後に撮られた写真。ここ最近の写真で間違いない。そうなると、勇斗が言っていた、優さんと付き合っていた当時の写真ではないわけだ。

「いやでも……」
 そんなわけがない。勇斗が嘘をついているわけがない。乱心状態の竹内を目の前にして、動じなかった勇斗が私に嘘をついているわけがない。

「正直な話、この写真を撮ったのは竹内くんでもなく、僕でもなく、黒子さんなんだ。この写真を撮った後、尾行して、林くんがこの写真の女の子の家に入って、出てこなかったのを確認したのも、黒子さんなんだ。黒子さんは元探偵で、この手のプロだった人なんだよ」
「え?」

 いやだ。信じたくない。竹内の嫉妬による空想の話じゃないのか。ただただ、私と勇斗を別れさそうとするための、でっち上げた嘘じゃないのか。分からない。何が本当か分からない。もちろん勇斗を信じたい。ただここまで、色々と見せられ、聞かせられると訳が分からなくなってしまう。あの誓いのセリフは嘘だったのか?

「ごめん。涼ちゃん。ごめんよ。若者の恋愛に、おっさんが首を突っ込むのが間違いだった」坂本さんは机の上にあったティッシュ箱を渡してきた。

 混乱状態の私は、泣いていることに気づいていなかった。
 坂本さんに椅子に座らされて、私は涙を拭いた。ボロボロの顔と、精神状態で今からバイトだなんて考えられない。そんな余裕がない。

「もう今日は帰りな。とりあえず、僕が誰か来れないか聞いとくし」坂本さんはしゃがんで私を見上げている。涙でにじみながら見えた坂本さんの顔は、娘を心配する父のような、浮かない顔をしていた。

「森下くんが来れるって」黒子さんの声が聞こえた。
振り向くと、事務所のドアが少しだけ開いていた。黒子さんの姿は見えなかった。
「そうか。なら、涼ちゃん今日のところは店は大丈夫だから、帰んな。ごめんよ。ほんとに」坂本さんは私の両肩を掴む。

「はい。帰ります。すいませんでした」
 私は真っ赤になっているであろう顔を伏せて、更衣室に入った。
 竹内の言っていたことよりも、勇斗の言葉を信じている。あの表情、あの声色、全て真実を言っているようにしか感じなかった。そう感じ取った、私の五感も信じたい。でも、今は自分を説得できることが出来なくなった。納得できることができなくなった。矛盾が発生している。

「彼氏の言うことしか信じない!」なんて、お花畑な思考ではない。もちろん勇斗を信用はしているが、他に信用している人から話を聞いていると、さすがに真っ白の無実の状態から少し淀んでくる。

 ただ、はっきりさせるのは恐怖でしかない。容疑者は有罪判決がでるまでは、無罪であるわけだ。疑いが浮上しても、実際に私が有罪判決をくださなければ無罪だ。だからこそ、はっきりさせたくない。浮気をするにしても、私の知らないところで、浮気をしてくれたほうがよっぽどマシだ。

 今回だって、竹内が関わらなければ、私が彼に不信感を抱くこともなく、今までどおりの平穏なまま付き合い続けられたわけだ。

 浮気は浮気でも、一時の感情と欲に流された過ちなら、まだ引っ叩いて、許せないけど許せるかもしれない。でも、竹内達の話が事実なら、浮気相手は元カノ。そうなると、一時の感情じゃない気がしてならない。がっつり恋愛感情を持っていかれている気がしてならない。

 私はどりーむを出て自宅に帰らず、勇斗の家に向かった。自宅に帰ったところで、抱えてどうしようもなくなるのが目に見えていたから。

「山下、山下」
 私が勇斗のアパートの前に着くと、潜めた声で誰かが私を呼んだ。私は辺りを見渡すと、道路の向こう側の駐車場に人影が見えた。竹内だ。

「なにやってんの?」私は竹内が隠れていた車に近づく。竹内は私が近づくと車に体を隠した。
「いや、お前こそなにやってんだよ。今日バイトでしょうが」竹内は私が近づいてもなおボソボソとした声だ。
「あんたも今日バイトでしょ? それに勇斗の家の前でなにやってんのよ」
「今日のバイトは小谷さんに代わってもらったんだよ」
「小谷さんに代わってもらって、なんでここにいるの?」
「いいんだよ別に、山下には関係ねえよ」竹内は、長い間ここにいるのか汗だくで、言葉を吐き捨てる。

「あ、そう。でも、ここ私の彼氏の家の前でもあるんだけど」竹内は私を無視して、車のガラス越しに勇斗のアパートを見ている。「また、張り込んで盗撮するつもりなの?」
竹内はツバを飲み込んだ。「とりあえず、今日のところは自分の家に帰れよ」
「嫌よ。彼氏の家に行くのに、なんであんたに指図されなきゃならないの?」益々、竹内の言動に意味がわからず、馬鹿らしくなった。

 そんな竹内を放置して、私が勇斗の部屋に向かおうと歩きだすと、竹内は私の腕を強く引っ張った。その強さに私は小さく叫び声をあげて転けそうになった。
「もう! なにすんの!」私は竹内の手を振りほどこうとするも、竹内の手は離れない。
「今日はあいつの家には行くな!」
「だから、なんで? 意味がわからない」私は腕を必死に自分の方に引くも、竹内の手は頑なに離れない。「痛いから離してよ!」

「離すから、今日はもう帰れ」竹内の握力が少し弱まった。私はそのスキを逃さず、思い切り腕を振り下ろすと、竹内の手から抜けた。

 私の腕は、竹内に掴まれた部分がはっきりと赤く浮き出ていた。
「最悪。マジでなにしてくれてんの」
「ごめん。お願いだから、今日のところは帰ったほうがいい」
 竹内はしゃがんだまま、頭の上で手を合わせていたが、私はその場を離れた。
 勇斗は今日バイトはないと言っていたので、家にいるはずだと分かりながらも、合鍵は持っていたが、インターホンを鳴らした。

 ピンポーン、と2回インターホンから音が鳴り終わっても、勇斗は出てこなかった。ただ、部屋からは足音が聞こえた気がした。寝てるところを起こしてしまったのかと思い、私は合鍵で鍵を開けた。

 玄関に入ると、まず目に入ったのが、今まで見たことないスニーカーだった。赤色のスニーカー。サイズは私と同じくらい。勇斗が履けるサイズでは明らかなかったし、くたびれた靴紐から使用感が漂っていて、私へのプレゼントな訳がなかった。

 玄関のドアを開けると部屋全体にきしむ音が響くので、誰かが来たことは部屋にいれば把握できるはずなのに、勇斗は姿を現さない。玄関及びキッチンから奥の部屋への扉は閉まったままだ。

「勇斗―?」私はドアの向こうにいるであろう勇斗に向かって問いかけるも、返事はない。ただ、人が動いている生活音は微かに聞こえてくる。

 靴紐を解いて、部屋に入ろうとすると、ガンッと大きな音が聞こえた。リビングからと思ったが、その音は私の後ろから響いてきた。私はかがんだまま背後を見やると、竹内が玄関のドアを開けて立っていた。

「なにやってんの? どれだけ私に付きまとうの? いい加減にしてくれない?」
「部屋に入らないほうがいいって」竹内は懇願を顔に出した。
 これ以上相手にしてられないので、私は無視して、靴紐を解く。両足の靴紐を解いて部屋に上がろうとした時だ。リビングのドアが開いた。

「えっ?」
 寝ぼけた勇斗が、ボサボサの頭を掻きながら出てくると思った。でも違った。整った茶髪のロングヘヤーの優さんが出てきた。

 優さんは不機嫌そうな顔で私を冷たく見つめて、「「別れる、別れる」って言いながら、まだ付き合ってるじゃん」と、部屋に居る勇斗を茶化すように言った。

 そのまま優さんは、私を押しどけるように赤のスニーカーを履いて出ていった。私は優さんと目が合って、石になった。開放された部屋の、ベッドの上にある勇斗の脚を動けずに呆然と眺めていた。

「だから、言ったんだって」竹内の小声が後ろから聞こえた。
 私は動けないし、勇斗の脚も動いていない。
 動けないだけでなく何も言えなくなった。実際には1分も経っていなかっただろうが、時間も止まったように思えた。だから、私は動けず、勇斗も動かないのかと思ったくらいだ。

 石像の私を動かしたのは竹内だった。今度は私の腕を優しく引っ張った。私は抵抗することなく、引かれる方へガクガクと足を下手くそに動かした。

 勇斗が主張していた無罪を、私は受け入れていた。それは証拠不十分だから無罪だと私は信じていた。

 しかし、私は揺るがない証拠を目の当たりにした。ゆえに勇斗は有罪だったわけだ。竹内の主張は本当だったんだ。勇斗に反省している様子はない。だんまり黙秘をしている。追求すれば自白するのかもしれないが、この様子だと更生の余地はない気がする。

 あぁバレた、さぁ煮るなり焼くなりどうぞご自由に、といった態度だろう。脚しか見えてなかったが、この状況でベッドに横たわり続けているということはそういうことで間違いない。

 そうは思っても、まだ私はこの玄関のドアが開いて、勇斗が裸足のままでてきて、土下座でもしてくれたら、許すことは出来ないけど、一発叩くことは出来る。だから、早く出てきて。叩いて、許せないけど、許そうとするから。

 私は願いを込めてドアを見続けた。初めてここに来た時、先に部屋に入る勇斗が閉まらないように左腕で抑えていたこのドアを。私がインターホンを押したら、毎回笑顔で開けてくれたこのドアを。私は見続けた。

 けど、開かない。部屋から足音すら聞こえない。残暑というにはまだまだ暑く、夜を前にして精一杯鳴いているセミの声が遠くから聞こえるだけだ。

 視界の端で、竹内が同情するような表情でこちらを見ながら、ハーフパンツのポケットを探っていた。「あぁ、ない」なんて独り言を言っている。
自分の顔から何かが落ちるのが分かった。

 あぁまた泣いていたのか。どうも涙腺がゆるいというより、涙腺の感覚がおかしくなっている。私の涙腺は自動水栓のようだ。意図せずともセンサーが反応すると水が出る。実に面倒な仕様だ。拭っても、拭っても、私の顔は濡れたままだ。

 私は泣いた。涙は止まらないから、せめてものの声は殺した。しゃがんでなんとか殺した。壁の向こうの勇斗に聞こえないように殺した。

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