居酒屋 どりーむ④

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 暑い。
 夏になるたびに俺は毎回思う。なんで埼玉にいるんだと。千葉も暑いのだろうけど、埼玉は暑いと言われる限りは、埼玉の方が暑く思える。それこそ千葉よりも、山下の実家の新潟なんかの方がよほど涼しいんじゃないかと羨ましくなる。冬は豪雪と極寒の地でも、夏は軽井沢のような避暑地になりえるんじゃないかと、想像が膨らむ。

 今日も家からバイト先までの短い距離でも俺はTシャツを汗で濡らしながら、どりーむに着いた。どりーむに入った瞬間に、外との温度差に思わず身を強張らせる。さすがの俺でも寒い。

 最近のどりーむはものすごい冷房がキツい。おそらく坂本さんがものすごい暑がりなのと、営業中の焼き場は灼熱で、焼いている本人が、焼かれそうなになるからだと思う。別に俺は焼き場に入って注文を作ることはないが、坂本さんを見ていたら大体そんな感じ。火の前で立ち続ける焼き場は揚げ場よりも苦行なはずだ。

「おざまーす」
 店に入ってすぐ、俺が坂本さん同様の適当な挨拶を厨房に向かってしても、返答がない。おそらく今日も仕込みは早めに済んでるんだろうなと、今日の仕事が少し減ったことに足取りを軽くし事務所に入ると、坂本さんが椅子にもたれかかり、パソコンの画面を睨んでいた。黒子さんも、坂本さんの後ろで顎を触りながら難しい顔をしている。

「おはようございます。何やってるんですか?」
「あぁ、おはよう。いやーねぇ……」坂本さんは俺が挨拶してやっと、俺が来たことに気づいた。「涼ちゃんの誕生日プレゼント何がいいかなって、悩んでたんだよ」
「誕プレですか? 山下に?」
「そうそう。うちじゃ、誕生日の子にはプレゼントあげてるんだよね」
「あーいいですねー。なんなら、本人に直接聞いたらいいじゃないですか」
「いやー、一応サプライズじゃないけど、いつも僕が独断と偏見で選んだものをあげてるんだよね。だから今回も例外なく、僕が選んであげようと思ったんだけど。なかなか決まらなくて」

「21歳の女子へのプレゼントですもんね。酒とかでいいんじゃないですか?」
「いやー居酒屋の店長が酒あげるなんて面白くないじゃん」
「まぁそうですけど」
店長と店員の関係でのプレゼントは難しいなと坂本さんに同情して、パソコンの画面に目をやると、通販サイトで、酒のページが開かれていた。

「いや、酒見てるじゃないですか」
「とりあえず、見てただけだから」坂本さんは酒をあげるつもりではないと、眉間に皺を寄せて顔を小刻みに横に振った。
「まぁ財布とか変に高いものもあげられないですけども」
「そーなんだよねー。馬肉とかでいいかな」
「思考を一旦、酒関係から切り離したほうがいいですよ」
 俺なら馬肉でも嬉しいなと思ったのは口に出さずに胸にしまった。

「いやーどうしたもんかねー」坂本さんは、椅子にもたれかかり、降参とでも言うように腕を伸ばした。
「他の女の子には今まで何をあげたたんですか?」
「サンダルとか、Tシャツとかあげたりしてたかなー、でも2人は趣味がわかってたからあげれたんだけど。涼ちゃんの趣味は把握できてないからなあ」坂本さんはこちらに顔だけを向ける。「竹内くんは涼ちゃんの趣味わかんないの?」
「全然知らないですねー。服とかあまり興味ない感じですし。シンプルなTシャツとかだと無難だとは思いますけど」
 そうは言っても俺は彼女でもない女の子にあげるプレゼントの基準は持ち合わせてはいない。あったら便利なものとか、実用的なものが一番だとは思う。

「結構仲いい感じだから知ってるものかと」坂本さんはフフフと笑いを付け足した。
「いやいや、いいように使われてるだけですよ」
「あ、そう? 一緒に遊んだりしたことないの?」
「いや、そういうのは全くですね」山下との出来事を思い出しながら言った。

 上がり時間が一緒だとは言っても、帰りの少しの時間で特に何か話している記憶がない。話しても学校のことかバイトのことしか話していないし、なんなら、「おつかれ」だけの一言しかかわさない日もあるくらいだ。仲がいいわけでもないし、悪いわけでもないから、お互い自由で気を使っていない。

「涼ちゃんて彼氏とかいないのかな?」坂本さんは近すぎるんじゃないかってくらい、前のめりにパソコンの画面を眺めている。
「いやー聞いたこともないですけど、いないんじゃないですか?」
「えーあんな可愛いのに? ああいう子は年上の男に甘えてそうだけど」
 俺からは坂本さんの後頭部しか見えていないが、坂本さんはえらくニヤついているように思える。

「確かに、同い年と年下はガキっぽいとか言って相手にしてなさそうですけど」
「ぜひ今度聞いといてよ」振り向いて、こちらを見た坂本さんは予想以上に顔に笑みを含ませていた。喧嘩を煽る野次馬のように、俺と山下を、自分は安全なところから見物しているようだ。
「いやですよ。なんか勘違いされそうだし」
「それがまた面白いのに」
 ほら楽しんでる。若者の青春恋愛劇場を見て楽しもうとしている。
 山下は可愛いが、だからといって、どうしてやろうかなんて思わない。雑に扱われてるのもあるし、興味を持たれているとも思わないから。別にいいんだけど。

 坂本さんが何か検索をしようとした時、突如黒子さんがキーボードに手を伸ばした。坂本さんは何も言わず、椅子を横にずらし、黒子さんにパソコンの使用権を譲った。
【バーバリー グロス】と黒子さんは打ち込み、検索をかけ、バーバリーの公式オンラインショッピングサイトにアクセスした。

「バーバリー?」坂本さんは、間違いを指摘するかのように黒子さんに言った。
「そう、バーバリー」黒子さんは平然とバーバリーと口にする。
 俺はバーバリなんていくらするんだと、聞き覚えのあるハイブランドの価格設定に生唾を飲み込む。
読み込みに少し時間がかかりながらも、表示された画面に、俺は桁が一つ違うんじゃないかと目を疑ったが、3780円と表示されていた。

「え? 3000円台?」
「案外安いね」俺が驚きを口にすると、坂本さんも少し驚いたように言った。
「まずグロスってなんなんですか?」俺は坂本さんと黒子さんを交互に見た。
「俺も初めて聞いたんだけど」坂本さんも知らないようで、黒子さんの方を向いた。
「いや、俺も知らない」黒子さんは探しものをするようにグロスの色を選んでいる。「ブロッサム……これか」

 黒子さんは目的だった色を選択すると、パソコンから離れ、腕を組みながら画面を眺めた。画面には光沢があり白に近いピンク色のグロスとやらが表示されている。透明なガラスの長細い瓶の中に、ピンクの液体が入っており、ピンクの液体は底に近づくに連れて尖っている。ピンク色の太いボールペンが瓶に入っているようにも見えた。瓶の隣には綿棒のような、液体を取るためであろう棒があった。

「黒子さん、なんでこれを選んだの?」坂本さんが黒子さんに尋ねる。
「娘が買ってたのを見たんだよ。色もブロッサムとか言ってたから、恐らくこの色」黒子さんは画面から目を離さず、相変わらずの淡々とした無感情だ。
「え? 娘?」俺は声が大きくなった。なってしまった。
「あれ、知らなかったの?」坂本さんは平然と俺に言った。
「いや、全然知らなかったです。それに化粧品買うくらいの歳の娘さんがいるなんて思わなかったです」黒子さんをまじまじと見るが、娘がいると言われても尚、黒子さんが家族でいる姿を想像できなかった。

 そもそも、結婚しているなんて思ってもみなかった。だって、いつも無表情で無感情だから。黒子さんが満面の笑みで小さな我が子を持ち上げる姿なんて、普段の黒子さんとのギャップがありすぎて、微笑ましい親子の姿として受け入れられない。

「もう大学生になったんだっけ?」坂本さんは椅子の背もたれをブランコのように揺らしている。
「そう、今年の4月から。早いもんだね」娘の成長の速さに感慨深く言うこともなく、表情を変えることもなく、自宅近くにできたコンビニの事を言うように、黒子さんは言った。
本当に娘がいるのかを疑いたくなるくらいだ。

「でも、化粧品は違うな」自分で調べておきながら、黒子さんはそう言うと、ブラウザを閉じた。
「まあねー、彼氏でもなければ、娘でもないしね」坂本さんは両膝をパンと叩いた。「うん。やっぱり酒だな。酒にしよう。モエでいいか」
「それが、無難だね」黒子さんは坂本さんに同意すると、厨房に行ってしまった。
「モエってなんですか?」俺はこれまた聞き慣れないワードを坂本さんに聞いた。
「シャンパンだよ。まぁ女子ウケはすると思う」
「え、シャンパンていくらするんですか? 凄い高いんじゃ……」
俺がシャンパンというワードに恐れをなして余計な心配を口にすると、「さっきのグロスと何ら値段は変わらないよ」と坂本さんは笑いながら、キーボードを打った。

「そもそも、山下の誕生日っていつなんですか?」
「7月1日。その日は金曜日だけど、涼ちゃん前日の木曜にバイトだから、上がりの時には誕生日になってるんだよねー」
「あーちょうどいいタイミングですね」
「でしょ? とりあえず、6月30日に届くように頼んどこうかな」坂本さんはどこかの通販サイトの決済ボタンを押した。

        
「まだ届かないのか……」事務所のパソコンの前で、坂本さんは頭を抱えた。
 6月30日の15時を過ぎても、山下へのプレゼント用のシャンパンは届いていない。
「時間指定はしなかったんですか?」
「うん。店の仕入れと一緒に配達されると思ってたから」
「結構まずいですよ。そろそろ、山下来るんじゃないですか?」
「だよね。とりあえず、荷物受取る時にバレないようにしなきゃね」と、坂本さんが言った瞬間、事務所のドア開いて、「おはようございます」と、20歳最後の日を迎えた山下が入ってきた。
「おお、おはよう」坂本さんは明らかに挙動不審な挨拶をしたので、俺は誤魔化すように、「おはよう!」と初出勤並みの元気のいい挨拶をした。

 山下の怪訝そうな顔を見て、俺はごまかしたと言うより、怪しさを加えてしまったと気づいた。
 山下が靴を履き替えて、「あっ」と言って、分かりやすく何かを思い出したように坂本さんの方を向くと、坂本さんは、「さっ、仕込み仕込み」とわざわざ言わなくてもいいことを口に出して、山下から逃げるように事務所から出ていった。山下は不本意な表情を浮かべている。
 俺も、何か言われそうな気がしたので、軽く伸びをしながら事務所を出た。

「なにやってんですか」
 俺は作業台に手をついて、大きく息を吐いていた坂本さんに文句を言う。
「いやいや、タイミングが悪すぎるよ」
「にしても、明らかに怪しすぎますよ。サプライズ下手なんですか?」緊張で体に力が入っている坂本さんが可笑しかった。
 自分もサプライズが上手い方ではないな、と坂本さんに言ってから気づいた。いや、あの場合はこの上ないサプライズか、俺にとっても、紗華にとっても。
 なんて、嫌な思い出を脳裏によぎらせていると、「よし、コンビニ行ってくる」と、坂本さんは厨房から出て、そのまま店からも出ていった。
 ここで働き始めて約3ヶ月、坂本さんが開店前に店の外に出ていくことなんて、なかった気がする。ますます、山下に不信感が持たれるんじゃないかと危惧した。今までのサプライズは成功していたのか気になった。作業台で鶏を捌いている黒子さんに聞こうかなんて思ったが、刃物を持った集中状態の黒子さんに話しかける勇気は持っていなかった。

「坂本さんは?」手洗いを終え濡れた手を拭きながら山下が聞いてきた。
 変に嘘をついても、ボロが出す気しかしなかったので、「コンビニに行ったよ」と事実だけを伝えた。
「へー珍しいね」特に怪しむことはなく、山下はサラダの仕込みを始めた。俺も、野菜の串焼きの仕込みを始める。

「いや、にしても、今日の坂本さんおかしくない?」やはり、坂本さんの行動に腑に落ちていないのか山下は俺に確認してきた。
「いやー、いつもどおりじゃない?」俺は何も気にしていないように嘘をつく。
 俺から見ても今日の坂本さんは明らかにおかしい。多分、今日の俺もおかしい行動はしてしまっているはず。
「だって、仕込み仕込みって言ってたくせに、何もせずに、普段行かないコンビニに行くって、なんかなー」山下は首を傾げながら、レタスを洗っている。
 さすが、山下は鋭い。坂本さんは鈍くさい。この状況で、普段この時間帯に来ない宅急便が来たら、どうなるか。むしろ坂本さんの誤魔化し方が気になる、墓穴を掘るのは間違いない。

 開店時間の直前になって、坂本さんは戻ってきた。ただでさえ外出するのが珍しいのに、その時間が長すぎる。
「もーどこ行ってたんですかー」山下は不満をぶつける。
「いやーごめんごめん。コンビニ行ったら、常連さんに絡まれちゃって」そう言って、坂本さんはコンビニで買ってきたのであろう、チョコバーを俺と山下に渡した。黒子さんには丁寧に断われていた。

「私、明日誕生日なんだよね」
 休憩中、事務所で鶏そぼろ丼を片手に山下は俺に言った。
「え、あぁおめでとう」俺は、なにか勘づかれたのかと思って焦りながらも祝ったが、「なんかちょーだい」と即してきたので、恐らく気づいてはいないのだと分かった。坂本さんへの不信感と、自分の誕生日については関連したものだとまで、勘ぐっていないらしい。

「なにが欲しいの?」俺は鶏そぼろを頬張りながら聞く。化粧品が正解だったのか、酒が正解だったのかが気になった。
「んー変に高い物を貰ってもあれだから、お菓子とか、食べ物とかがいいな」
「んじゃあ、じゃがりこ3つで」
「あざす。じゃがりこ好きなんだ」山下はニコリと笑い、頭を軽く下げた。
「なら、今度の日曜とかに持ってくるよ」
「ありがと! 竹内は誕生日いつなの?」
「俺は2月よ」
「あー直前くらいに教えてくれたら、じゃがりこ買ってくるね」
「あざす」俺は頭を斜めに下げた。「でも、じゃがりこよりポッキーの方が嬉しいかな」
「おけ。ポッキー3箱ね」
「ありがてえ」

 誕生日プレゼントを要求してくる山下を見て、坂本さんと悩んでかつ、隠そうと必死になるんなら、最初から本人に直接聞いたほうがよかったんじゃないかなんて思った。じゃがりこ3つで喜ぶ女だ、ブランド物や高級な酒よりも、もっと安価なものを欲しがったんじゃないか? それこそ、馬肉でも正解だったのではないか?

「山下って馬肉好き?」俺は確かめるように山下に聞いた。
「好きってほどでもないけど、昔食べた馬肉のユッケは美味しかったな」
「あぁユッケね。馬刺しも美味しいよね」
「馬刺し食べたことあるんだ。いいな、馬刺し」山下は丼を持ち上げて、最後の一口をかきこんだ。
「飲み屋とかに、たまにあるよ」
「あー、私はハイボールと鶏カラが多いからねー」
「その組み合わせ結構飲める人じゃん」予想だにしなかった山下の返答に俺は目を丸くした。
 甘い系のカシスオレンジとかを好む女子かと思えば、気が強いのと酒が強いのは比例しているのか、山下は飲めるようだ。

「どうなんだろ。潰れるくらいまで飲んだことないから、分かんないや」
山下が飲み干した水が日本酒に見えたのは、突如現れた酒豪オーラのせいだろう。山下が、「酔っちゃった」なんて、ハートマークが語尾につくような、男に甘えるセリフは似合わないし、想像がつかない。悪酔いして、一升瓶片手に誰かしらに肩を組んで、一方的に愚痴を垂れ続ける方が似合うし、想像がつく。言わないけど。

「それ、潰れるくらいまで飲んだことがない、じゃなくて、飲んでも飲んでも潰れない、の間違いなんじゃないの?」俺は顔をひきつらせたまま山下を見る。
「いやいや、馬鹿みたいな飲み方をしてないだけだよ」
「それじゃあ、ハイボールとか何杯くらい飲むの?」
「んー最高10杯くらいじゃない?」
「いや、だいぶ飲める方だな」

 俺がハイボール10杯飲めるかって言われたら、無理だ。飲み会なんて楽しいもんじゃなく、試練と化する。無事に10杯飲みきったところで、無事に家にたどりつける気はしない。それこそ、前のアパートの方に帰ってしまうかもしれない。まぁ洒落にならない。山下は将来、会社に入ると、後輩の男性社員を居酒屋で説教するんだろう。俺は、先輩の女性社員に説教されるんだろうな。なんとなくそんな気がする。

「ありがとうございました!」
 俺が最後のお客さんに挨拶して、入り口を閉めて振り返ると、カウンター前の焼き場で坂本さんが俯いていた。
それもそのはず、昨日届くはずの山下へのプレゼント用シャンパンは届かずに、7月1日の0時を過ぎてしまったのだから。坂本さんの見てられない必死の誤魔化しが無駄になったのだと思うと、俺はやるせなくなった。黒子さんもカウンターを片しながら、坂本さんに、「仕方ない」と声をかけていた。

 俺が厨房に入ると、坂本さんは、「涼ちゃん」と、厨房の奥で洗い物をしてる山下に声をかけた。
山下は坂本さんに呼ばれると、「なんですか?」と泡がついた手を洗った。
「涼ちゃん誕生日おめでとう!」坂本さんは頭の上で手を叩いた。黒子さんも、「おめでとう!」と言って坂本さんの後ろで笑っている。黒子さんが、従業員に笑顔を向けたのは初めて見た。2人に続くように俺も山下に向けて手を叩いて、「おめでとう」と2回目の祝の言葉を口にした。

「あ、ありがとうございます」山下は濡れた手で口を抑えた。
坂本さんと黒子さんに誕生日を祝われるとは思っていなかったのだろう、顔に驚きがでている。これでも十分なサプライズなんじゃないか? と、俺は坂本さんプロデュースのサプライズは完全な失敗ではないと思ったが、祝福ムードに包まれた厨房に、「そして、ごめん! 涼ちゃん!」と坂本さんの謝罪の言葉が響いた。

 俺は手を、合わせた状態で一時停止させ、首を回すと、坂本さんは角度90度程に頭を下げていた。
「え? なにが? え?」山下は分かりやすく困惑している。それもそうだ。おめでとうと祝われた直後に全力で謝罪されたら、誰だってそうなるはず。これもある意味サプライズ。

「今日、涼ちゃんにプレゼントを渡せないんだ。ごめん!」坂本さんは頭を上げると、慈悲を乞うような目で山下を見た。
「いやいや、そんなの全然いいですよ! おめでとうって言われただけでも有り難いですよ」
「本当は今日プレゼントが届くはずだったのに、届かなかったんだ。ごめんよ。日曜日には渡すから」

 坂本さんは腰の角度が元に戻っても尚、神様に何かを必死に願うかのように顔の前で手を合わせている。山下は、先ほどまでの坂本さんを宥めるような笑顔から、首を傾げて何かに引っかかっているような顔に変わった。
「プレゼントってもしかして、このくらいの箱に入ってますか?」山下は胸の前で、肩幅ほどに腕を開いた。

「あぁ、そのくらいのはず」
 俺は山下が腕で表した大きさと、シャンパンの大きさを頭の中で比べて、答えた。実際にシャンパンは見たことないけど、ワインの瓶とサイズは変わらないはずだから、大差ないはず。
「それなら今日、坂本さんの家の方に置いといたんですけど」
「え?」男3人の声が被った。さすがの黒子さんでも驚いたようだ。

「どういうこと?」坂本さんは、「え?」と驚いたままの表情で山下に聞いた。俺も同じ顔で、坂本さんと山下を交互に見た。
「いや、今日店に入る時に、宅配の人に声を掛けられて、荷物を一つ受け取ったんですよ。宛名を見たら、店宛じゃなくて坂本さん宛だったんで、坂本さんの、家の方に置いといたんですよ」

 それを聞くと、坂本さんは慌てて、店の入口の方に走っていった。そして、「これだ! これだ!」と長い間ずっと探していた物を見つけたように、はしゃぎながら厨房に戻ってきた。坂本さんが作業台の上でダンボールを開け、中の梱包を外すと、白地に金色の文字で、「MOET」と書かれた箱が出てきた。

「はい、これ! これを渡したかったんだよ!」歓喜しながら坂本さんはシャンパンの箱を山下に手渡す。
「え、なんか凄い高そう……」見当がつかないプレゼントの箱に、山下は全方向から舐め回すように見ている。「開けていいですか?」
「もちろん」坂本さんは今日一番の満足そうな笑顔で答えた。
 山下は、「おぉ、すごい! やばい!」とテンションを上げながら、箱のからエメラルドグリーンのボトルを取り出した。ボトルの口は金色のフィルムで封がされており、ボトルには、「MOET &CHANDON」という文字と王冠のイラストが描かれたシールが貼られていた。
「なんですかこれ!」山下はボトルを赤ちゃんを抱えるようにして持っている。
「モエ・エ・シャンドン・ブリュット」坂本さんはプレゼントを渡せた達成感からか、ドヤ顔でネイテイブな発音でシャンパンの名前を口にした。

「もえ、え?」
山下は聞き取れていなかった。俺も最初のモエしか分からなかった。
「モエ・エ・シャンドン・ブリュット。シャンパンだよ」坂本さんは今度はゆっくりと言った。
「え、シャンパン? いくらするんですか! これ!」
 山下は俺と同じ反応をしていた。無理も無いよなと共感する。ドラマ、映画でセレブが豪遊するシーンではシャンパンというワードがお馴染みだから仕方がない。

「バーバリーのグロスと同じぐらい」黒子さんが坂本さんの後ろからボソッと呟いた。
「いや、よくわかんない」山下はシャンパンを抱えたまま眉をひそめた。それもそうだろうと、俺は山下の表情に納得する。おそらく黒子さんの高度なボケだったと思う。

「バーバリーのグロスも候補に出てたんだよ」坂本さんが山下に優しく教える。
「バーバリーって、それもまた高そうな……」山下はシャンパンを眺めている。「シャンパン以上に、化粧品がプレゼント候補に出てるなんて意外……」
「バーバリーのグロスなら、敏感肌でも大丈夫みたいだから」黒子さんは優しい目で山下を見ている。「でも、居酒屋の男性店員が化粧品あげるのはなんか違うなってなったから、やめたけど」
「そんなことないですよ。グロスでも嬉しかったですよ!」
「なら、来年はグロスかな?」坂本さんは口角を上げる。
「それはもう、最高ですね」山下は拳を握る。
「馬肉とグロスならどっちがいい?」俺がそう聞くと、「いや、グロスでしょ」と山下はさっきまでの笑顔が嘘のような真顔で答えた。
「この流れで、馬肉はないでしょー」と坂本さんが言うと、厨房に全員の笑い声が響いた。

「ありがたいなー」
 どりーむからの帰り道、山下はいつになく上機嫌でシャンパンが入ったトートバックを抱えている。
「山下が酒飲める人でよかったよ」
「ね、自分じゃこんなの買うことなんてないから嬉しいよ」
「ちなみに、シャンパンは一度開けてすぐに飲みきらないとダメらしいよ」
山下は余裕を見せた表情で、「そんなの余裕だよ」と言い切った。さすがだ。

「これに見合う料理を準備しないとダメだね」山下はシャンパンと釣り合う料理を思い浮かべているのか、夜空を見上げている。「ステーキとかかな……」
「たしかに。チータラをつまみに飲むような物じゃないしね」
「チーズならありかな?」
「まぁワインだし、いいんじゃないの?」
「いや、やっぱりステーキ――」
「ステーキが正解だと思う」ステーキにチータラが勝てるはずがない。俺は素直に白旗を挙げた。そもそもチータラでは向かったのが間違いだった。「だよね」

「あ、そうだ」俺は坂本さんも、黒子さんも気にしていなかったことに気がついた。「なんで、坂本さんに荷物が届いてたこと伝えなかったんだ?」
「だって、今日の坂本さん、私を見るなり事務所から出ていっちゃうし、私が厨房に行ったら、コンビニに行ってるし、伝えるタイミング失って、忘れてたんだよ。私も悪かったけど、坂本さんも変だったから」
「あぁ、それは仕方がない」俺は思わず吹き出した。

 坂本さんがサプライズを仕掛けるつもりで、山下を避けた結果、山下にサプライズを仕掛けられたことになったのだ。変に緊張したり、謝ったり、喜んだり、今日の坂本さんの感情の波は大しけだなと同情する。
 山下はいつもの生活道路に差し掛かると、「じゃあ、今日はありがとね」と、手を振って曲がっていった。

 手を振って別れるなんて、今までなかった気がする。「じゃ、おつかれ」俺は山下の背中に向かって手を振った。
 なんとかサプライズは成功したのか、と安堵しながら歩き進んでいると、心なしか山下の声が聞こえた。驚いたような声の気がした。

 シャンパンでも落としたのか? と思い山下が曲がっていった道路まで戻る。道路の先には、山下の後ろ姿が見え、その山下の前には長身の男がいた。
 街灯があるとはいえ、男の顔は見えない。何か話しているように見えるが、こんな時間に、1人の女に話しかける輩の十中八九は変質者だ! と思った時には、俺は荷物を捨てて走っていた。

 俺が山下の元に駆け寄ると、足音で気づいたのか、山下が振り向いた。長身の変質者も、こちらからは、はっきりと顔は見えないが、俺を見た。近づいてみると男の背は俺と変わらない。
 
 顔も体も細く、筋肉はなさそうだ。得体の知れない変質者は不気味ではあるが、部活でそれなりにトレーニングをしている俺からしてみれば、勝てない相手ではないはず。喧嘩なんて中学校以来してないが、蹴りには自信がある。サッカー部の人間が人を蹴るのは、ボクサーが一般人を殴る位の罪の重さを感じるが、これは正当防衛だ。致し方ない。

「おい! 変質者! 何する気だった!」山下を男から遠ざけるように、俺は男の前に立って持ち前の声量を怒号に変えた。「さっさと目の前から失せろ!」
「え?」と、男は声に出した。わいせつ行為を働こうとした矢先に、男が飛び出してきたら、驚くのも無理はないだろう。
「え? じゃねえよ。さっさと消えろ! 警察呼ぶぞ」
「え……」

 今度は男じゃなく、山下の声だった。
「早く、山下は坂本さんの所に戻れ!」俺は男を睨みながら、山下をこの場から離れるように言い放った。
「いや、その」山下は動揺からか、言葉を失っている。
 まぁ無理もない。山下が放心状態のこの場合は、男を放って山下と一緒にどりーむまで逃げるべきか、と俺が打開策を考えていると、「いや、この人、私の彼氏なんだけど」と、山下は俺の背中をトントンと叩いた。

「え?」今度は俺が言った。
 最初は男に向かって、俺のことを彼氏と言ったのかと思えば、山下は男の隣に立ち、掌で男を指して、「この人、私の彼氏」と紹介した。すると男は、「どうも、林(はやし)勇斗(ゆうと)です」と、名乗って、恐る恐る頭を軽く下げた。

「え? 林? 彼氏?」
 俺はまだ理解できていない。長身の男は変質者で山下の敵かと思えば、山下の彼氏の林勇斗で、今、山下が俺を見る目こそ、敵を見る目、変質者を蔑むような目になっている。どうやら全ては俺の勘違いで、深夜、道端で話していた山下coupleの元に現れて、急に騒ぎ始めた俺が変質者のようだ。

「僕は変質者じゃないよ。落ち着いて」林は笑っている。突然変質者という濡れ衣を着せられたのにもかかわらず、優しく笑っている。「ひとの彼氏を変質者呼ばわりするのはやめてよ。僕そんなに怪しいかな」
「変な言いがかりはやめてよね」山下は彼氏の手前か、声にはそこまで怒りを露わにしていない。顔はすごいことになっている。鬼の形相というのはまさにこのことか。一応お前を助けようとしたのに、と言いたくなったが、この状況下で俺は、「す、すいませんでした。自分の勘違いでした」と、とりあえず謝るしかなかった。

「いやいや、全然いいよ。涼を守ろうとしてくれたことには感謝だよ」林は山下の頭に手をおいた。俺の行動を評価してくれたが、嬉しくは思えなかった。優しい雰囲気をかもしだしているが、どうも気に食わない。そして林って言う名前も気にならない。

 山下は林の手を両手で優しく頭から剥がした。「怖い彼氏だったら、今頃ボコボコにされてるかもよ」と俺を脅した。
彼氏の前で俺に対して言える最大の嫌味といったところか。普段以上の勢いがない山下が可笑しい。

「はい。この度は本当に申し訳ありませんでした」とにかく俺は謝る。
はやくこの場から離れたい。サプライズ後のハートフルなまま帰りたかった。
「彼も西大生なの?」林は山下の顔を軽く覗き込むようにして聞いた。
「そうだよ。西大の3年だよ」山下は俺を見ながら答える。彼氏に顔見られて、表情はゆるくなったとは言え、目つきは未だにキツい。
「ここらへんだと、若者はほとんど西大生だよね」林は俺を見る。「僕も西大なんだ。西大の4年」
「あっそうなんですね。先輩に失礼な事を言ってすいませんでした」
 そういった会話は俺がいないところでしてくれ、俺のプロフィールくらいなら、あんたの彼女から聞いてくれと、心の中では悪態をつきながらも、西大の4年と言われ、自動的に後輩モードが発動したが、自分の中で嫌な予感が、自然とどんどん膨らんでいる。

「もしかして、コンビニでバイトしてますか?」俺は聞いた。嫌な予感が膨らんで、いつのまにか口から言葉になって出た。
 紗華はあの時、「林さん」「バイトの先輩」と言った。1個上かは分からないが、紗華の浮気相手の林は年上。そして、紗華のバイト先はコンビニだ。

「えっ、そうだけど……、来たことあるの?」
「あっ、いや、はい」
「え? どっちなの?」
 林は俺の戸惑い具合に笑った。気に食わない。
「そうです。何回か行ったことあります」今度ははっきりと答えた。

 暗闇ではっきりと顔が見えない状況で、数回しか行ったことのないコンビニ店員の顔だと分かるなんて、おかしいだろと自分でも思ったが、この状況の俺に、他の上手い言い方は思い浮かばなかった。自分の中で目の前の林が浮気男林の可能性が更に高まったのだ。致し方がない。

 林はまだなにか言おうとしてたが、「本当にすいませんでした。お疲れ様でした!」と告げ、俺は走ってその場から去った。そうでないと、正当防衛でもなんでもなく、林に手が出るかもしれなかったから。
 幹線道路沿いの歩道まで戻ると、俺は手と膝を地面につけた。走ったせいか、日中の熱が残っているせいか、汗がひどい。Tシャツは背中に張り付いて、腕や脚には汗が滲み、顔には汗が伝う。気持ち悪い。

 くそ、熱帯夜の不快さには反吐が出る。

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