見出し画像

憲法は自分たちで常にアップデートするライブドキュメントへ!

ラウルとクララのRICを翻訳してて初めて知ったのだけど、かつてスイスには、一般法に関するイニシアチブ制度があった。でも、利用する意味がほとんどないので、すぐに廃止されて、それから、国レベルでできる市民の提案は「憲法改正」だけになっている。人口の1%あまりの署名を集めたら市民の提案が国民投票に付され、結果が法的拘束力をもつ。政府や国会は諮問、つまり助言しかできない。

だから、「自転車道路の整備」まで憲法に盛り込まれる。かたや日本は、70年も前にアメリカの要求に従って戦争放棄を撤廃しようとしたけど、できかなった。憲法9条は、天皇制を守りたい総理大臣の幣原喜重郎がマッカーサーに提案したことだ。マッカーサーが賛成して盛り込まれたはいいけど、お陰で、朝鮮戦争から日本を戦争に引っ張り込めないことになり、だから、変えろとアメリカが要求しだした。

問題なのは、改憲は、それから70年、いまだにその話しかないことだ。あとは、緊急事態とか、時代に逆行するような話ばかり。さらに、学者もマスメディアの多くも、憲法に指一本でも触れようものならタタリでも起きるかのように、憲法論議をタブーにして、同調圧力をかけまくっている。おそらくは戦前の御真影がそのまま憲法に置き換わったようだ。この権威主義に染まりきった気質はどこから来たのか、本当に謎だ。

「憲法は自分たちで常にアップデートするライブドキュメント」という価値観と「憲法は御真影」という価値観、これで社会はどれほど違うかと思うとゾッとする。未来はどうなるのか?ほんと、ゾッとする。未来って、今やってることの延長線だからね。これが、世界一豊かな国と、昔、経済大国と呼ばれたこともあったっけ?という国の現実だ。

そして、スイス方式「市民イニシアチブによる国民投票制度」の導入は、イタリアでは第1党、フランスでは巨大市民運動、韓国では、大統領の憲法諮問委員全員の目標だ。

さて、世界で最初に生存権が明文化されたワイマール憲法の151条は、「人たるに値する生存(menschenwürdigen Daseins相当な生存)の保障を目標とする」で、目標だった。日本の憲法は、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」目標が権利に進化している。でも、わざわざ最低限度という但し書きがあるのは、1人でつくれる食料がせいぜい10人分くらい、保障が簡単じゃなかった時代だからだ。そして、4年前のスイスの改憲案は、「ベーシック・インカムは、すべての国民が尊厳をもって存在し、公共生活に参加するために設けられる」。否決されたのは大増税が避けられないと政府/国会が反対したからだけど、いよいよ生存権が確固たるものになっている。

ベーシックインカムが生存権として憲法に明記されることが、私の目標だ。貧困のない世界は、現実として、私たちの合意次第なんだ。

もちろん、市民イニシアチブによる国民投票制度の導入も必須だ。とめどない政治の腐敗は、つまるところ代議制自体の欠陥、そう明言する。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?