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生きるための10のルール ブレグマンのヒューマンカインドから

伝説によると、デルファイのアポロ神殿の前庭には2つの言葉が刻まれていた。GNOTHI SEAUTON、汝自身を知れ。
心理学、生物学、考古学、人類学、社会学そして歴史の最新の証拠を考慮すると、人間は何千年もの間、不完全な自己イメージによってナビゲートされてきたと結論づけることができる。長い間、私たちは、人は利己的で、私たちは、獣かもっと悪いものと仮定してきた。文明がほんのわずかな挑発で割れる薄っぺらなベニヤであると信じてきた。今これはまったく非現実的であることを知っている。
結局のところ、ほとんどの人がきちんとしていて親切であると私たちが信じるなら、すべてが変わる。学校や刑務所、ビジネス、デモクラシーをどう組織するかを完全に再考できる。そして、私たちがどう生きていくのかも。
私は自助のファンではない。内省しすぎて外省が少なすぎる時代、より良い世界は私からではなく、私たち全員から始まる。私たちのメインの任務は、違う法制度をつくることだ。キャリアのはしごを登ったり、富への道を見えるようにする100のヒントは、私たちをどこにも導かない。
人間の本性を現実的に見つめることは他の人とのやりとりに大きな影響を与える。
過去数年学んだことに基づいて、私自身の生きるための10のルールが以下だ。

I:疑わしい時は、最善を想定する

自身に対する最初の戒めが最も難しい。人間は繋がるために進化したが、コミュニケーションには注意が必要だ。
同僚が自分を好きではないと思うとする。それが本当であるかどうかに関係なく、確実に、自分の行動は関係をよくしないものに変わる。人間には否定性バイアスがあることが分かっている。1つの不快な発言は、10の褒め言葉を組み合わせよりも深い印象を与える。そして、疑わしいときは、最悪の事態を想定する傾向がある。
非対称フィードバック、あなたの誰かへの信頼が見当違いなら、真実は遅かれ早かれ表面化する。しかし、誰かを信頼しないことにしたら、フィードバックは得られないから、それが正しいかは決して分からない。
他人の意図に疑問があるとき、最善を想定するのが一番現実的だ。ほとんどの人が善意を持っているので、通常これは正しい。
でも、それでも詐欺に遭ったら?
詐欺やペテンの第一人者の心理学者のマリア・コンニコワは、本の中で話している。彼女のヒントはいつも警戒しろだと思うだろうが違う。はるかに良いのは、あなたがたまに騙されるという事実を受け入れて理解することだ。それは他の人を信頼するという一生の贅沢のために支払う小さな代償だ。ほとんどの人は、信頼が見当違いだった時に恥ずかしいと思うが、リアリストは、少し誇りに思うべきなのだ。実際、もっと前に進める。もし一度も騙されたことがないなら、自分の態度は、十分に人を信頼しているかと見つめるべきだ。

II:ウィン・ウィンのシナリオを考える

トーマス・ホッブズが友人とロンドンを歩いていて、物乞いにお金を渡すために突然立ち止まったという話がある。友人は驚いて、それはホッブズが不快感を消すための利己的な動機なのだと解釈した。
数世紀にわたって哲学者と心理学者は、純粋な無私無欲のようなものがあるかどうかという疑問に頭を悩ませてきたが、私にはあまり興味がない。素晴らしい事実は、私たちは、良いことをすると気分がいい世界に住んでいるということだ。食べ物がないと飢えてしまうので、私たちは食べ物が好きで、セックスがなければ絶滅してしまうので、セックスが好きだ。お互いがいないと枯れてしまうので、助けあうのが好きだ。よいことをするのは、それがよい事だから、通常は気分がいい。
悲しいことに、企業や学校などは、互いの競争に監禁されるのが私たちの本性だという神話に基づいて組織されている。ドナルド・トランプは著書で、「大いに勝って、相手はそうじゃない取引」、敵を粉砕してよりよいものを手に入れるのだ。
実際、これはまったく逆に機能する。最高の取引は誰もが勝つものだ。ノルウェーの刑務所はより良く、より人道的でより安価だ。ジョス・デ・ブロークのオランダの在宅看護の組織は、より低いコストでより高い品質を提供し、より多くの従業員に支払い、そしてスタッフと患者の両方をより満足させる。これらは、誰もが勝つシナリオだ。
同様に、許しに関する文献は、他人を許すことは私たち自身の利益になることを強調している。許すことは、反感や恨みにエネルギーを浪費するのをやめることだ。生きることに自分を解放する。 神学者ルイス・B・スメデスは書いている。「許すことは、囚人を解放すること、そして、囚人があなただったことを発見すること。」

III:もっと多く問う

「己の欲せざる所人に施すことなかれ」2500年前に孔子が言ってから事実上すべての哲学の黄金律は、ギリシャの歴史家ヘロドトスとプラトンの哲学で言われ、その数世紀後、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の経典にコード化された。今でも、何十億もの親が子供たちに繰り返す。一部の神経学者は、これを何百万年もの人類の進化の産物であって、脳にプログラムされているとさえ信じている。
それでも、私はこの黄金律が不十分だと信じるようになった。すでに共感が悪いガイドになる可能性があることを確認したが、単純な事実は、人が何を望んでいるかを私たちがいつも知ることはできないということだ。自分たちはやっていると思っているマネージャー、CEO、ジャーナリスト、政策立案者はすべて、事実上人の声を奪っている。だから、難民がテレビでインタビューされるのをめったに見ないし、デモクラシーとジャーナリズムが一方通行で、福祉国家は家父長主義に陥る。
質問をすることから始めるのがはるかによい。ポルトアレグレの参加型デモクラシーのように、市民が発言する、ジャンフランソワ・ゾブリストの工場のように、従業員が自分のチームを指揮する、シェフ・ドルメンの学校のように、子供たちが自分が学ぶことを計画する。
プラチナルールとしてジョージ・バーナード・ショーがまとめている。
「人があなたにすべきと思うことをやってはならない。好みが違うかもしれない」

IV:共感を和らげ、思いやりを訓練する

プラチナルールは、共感ではなく、思いやりを求める。違いを説明するために、伝説的な思想の指揮官である僧侶マチウ・リカールを紹介する(これがアピールするなら、彼の5万時間の間瞑にグッドラックと言えるだけだ)。
少し前、神経内科医のタニア・シンガーは、リカールにルーマニアの施設での孤独な孤児たちのドキュメンタリーを見てもらった。翌日、スキャナーの下で脳をスライドするとき、彼らの空虚な目や、とげのある手足を思い出すように頼んだ。1時間後、リカールは共感のために疲れ切った。別のグループに、毎日目を閉じて15分間共感して過ごすように依頼すると、彼らは1週間しかもたなかった。電車に隣り合わせる人を見るだけでも、その人が苦しんでいるように思えた。
もう一度シンガーは僧侶にルーマニアの孤児について考えるように頼んだ。今度は、苦痛を分かち合うのではなく、暖かさ、関心、そして気遣いの気持ちを呼び起こすことに集中してもらった。
モニターですぐに違いは分かった。共感は主に私たちの耳のすぐ上にある前島皮質を活性化するが、今回は彼の線条体と眼窩前頭皮質が点滅していた。
リカールの新しい考え方は、思いやりで、共感とは違って私たちのエネルギーを奪うことはない。実際、リカールはずっと気分が良くなった。 それは、思いやりが、制御できて、遠隔で建設的だからだ。分かち合わないが、認識して行動するのに役立つ。それだけでなく、思いやりは私たちにエネルギーを注入する。まさに助けるために必要なものだ。
そして、瞑想が私たちの思いやりを訓練できるという科学的証拠がいくつかある。脳は順応性のある器官で、体の形を保つために運動するなら、心にも同じことをしてみよう。

V:相手の素性を知らなくても理解するようにする

ズームアウトの他の方法がある。理性、知性。物事を合理的な視点に置く私たちの能力は、私たちの脳のさまざまな部分を参加させる心理的プロセスだ。私たちが知性を使って誰かを理解しようとすると、これは前頭前野を活性化する。額のすぐ後ろにある、人間では非常に大きい領域だ。
さまざまな研究は、私たちが結局それほど合理的でも冷静でもないことを明らかにしているが、それを誇張しないことが大事だ。私たちは、日常生活の中で常に合理的な議論と証拠を用いて、法律と規則​​と合意に満ちた社会をつくってきた。人間は私たちが考えるよりもはるかによく考える。そして、私たちの理性の力は、私たちの感情的な性質を覆う薄いコーティングではなく、私たちが何ものか、何が私たちを人間にするのかの本質的な特徴だ。
ノルウェーの刑務所へのビジョンは、私たちの直感に反するようだが、私たちの知性を使って再犯統計を調べることで、それが犯罪者に対処する優れた方法であることがわかる。 または、ネルソン・マンデラの政治家精神。 彼は何度も何度も言葉を飲み込んで、感情を抑え、鋭く分析し続けなければならなかった。 マンデラは心優しいだけでなく、同じように鋭かった。他人を信じることは、感情的な決断と同じくらい合理的な決断だ。合理的なレベルで他人を理解することはスキルであって、トレーニングできる筋肉だ。
理性の力が必要なのは、ほとんどの場合、気持ちよくなりたいのを抑えることだ。私たちの社交的な本能が真実と平等の邪魔になることがある。誰かが不当に扱われているのに、不快にならないように黙っているのを見たことはないか?平和を保つためだけに言葉を飲み込んだのではないだろうか?ボートを揺さぶる権利のために戦う人びとを私たちはみな非難していないか?
大きなパラドックスは、人間は根本的に社交的な生き物として進化したが、時には私たちの社交性が問題になることがある。歴史が教えるのは、進歩はしばしば、ビュートゾルフのジョス・デ・ブロークやアゴラのシェフ・ドルメンのような人びとから始まるが、他の人びとは彼らを説教じみてフレンドリーじゃない人だと感じる。演説台に乗る神経をもち、不安をもたらす不快なテーマを取り上げる人。彼らは進歩の鍵なので、こうした人びとを大切にして欲しい。

VI:他の人が自身を愛するように、自分自身を愛する

2014年7月17日、マレーシア航空のボーイング777がウクライナの親ロシアの分離主義者によって撃墜され、乗客は298人全員が死亡、うち193人はオランダ人だった。
最初、死亡報告は抽象的だったが、死亡した若いカップルの搭乗直前の自撮り写真が広まるにつれて、多くの人にとってオランダ人であることが今までになく意識された。家族は、私たちの痛みを国と世界に見せたいと言ったが、それは正しかった。
なぜ人は自分たち似た人たちをより気にするのだろう?
悪は遠くで仕事をする。距離があるから、知らない人をインターネットで叩くし、距離は、兵士が暴力への嫌悪感を回避するのに役立つ。そして、距離は、奴隷制からホロコーストまで、歴史上最も恐ろしい犯罪を可能にした。
しかし、思いやりの道を選ぶと、知らない人とほとんど距離がないことに気づく。思いやりは自分自身を超えて、近くの愛する人びととそれ以外の世界の大事さが変わらなくなる。なぜ仏陀は家族を捨てたのか?なぜイエスは、弟子たちに家族を置いてくるように言ったのか?

でも、やりすぎることがある。
人が仲間を愛するのは小さく始まる。自己嫌悪でいっぱいだと人を愛せない。家族や友人を見失ったら、世界の重荷は引き受けられない。小さなものを手に入れないと大きなものは引き受けられない。
人間として、私たちは違いをつくり、人は自分を一番気にかける。それは恥ずべきことではなく、それが私たちを人間にする。一方で、遠い見知らぬ人も私たちと同じくらい人間的だということも理解しないといけない。

VII:ニュースを避ける

距離感の最大の源泉はニュースだ。夕方のニュースは、現実と同調した気分にさせるかもしれないが、真実は、世界観を歪めている。ニュースによって、政治家、エリート、レイシスト、難民のようなグループを人びとが一般化する。もっと悪いことに、腐ったリンゴにズームインする。
同じことがソーシャルメディアにも当てはまる。ヘイトスピーチを遠くに吐き出すいじめっ子のカップルが、アルゴリズムによってFacebookとTwitterのフィードの上位に押し出される。人間の否定性バイアス、悪い行動がより注意を引くので、それを利用して、悪い人びとの行動を広告という利益に変える。これでソーシャルメディアは私たちの最悪の品質を増幅するシステムに変えた。
神経学者は、私たちのニュースとプッシュ通知への欲求は、完全に中毒症状だと指摘している。シリコンバレーの企業のマネージャーは既にこれをよく知っていて、子供たちの時間を制限している。
私の親指のルールはいくつかある。テレビのニュースやプッシュ通知を避け、特集記事を読む。画面から離れて、直接人と会う。
食べ物が体に与える影響について慎重に考えるように、情報が心に与える影響について考えよう。

VIII:ナチスを殴らない

ニュースの熱心なフォロワーなら絶望にとらわれるのは簡単だ。義務を怠るポイント、皮肉とは単純に怠惰という他の言葉であることを忘れてはならない。責任を取らないのは言い訳だ。ほとんどの人が腐っていると信じるなら、不正について悩む必要はない。いずれにしても世界は地獄に堕ちる。
皮肉のような怪しいある種の行動主義もある。いつも自己イメージにばかり関心を寄せる良いことをする人。他者を尊重せずにアドバイスをする最善を知る反逆者。悪いニュースは、彼らがずっと正しいかったことを証明するから、よい良いニュースだ。

しかし、ドイツの小さな町、ヴンジーデルのように、別の方法がある。1980年代後半、ヒトラーの副官ルドルフ・ヘスが地元の墓地に埋葬されると、ヴンジーデルは急速にネオナチの巡礼地になった。今でも、スキンヘッドは、暴力、暴動を扇動しながら、ヘスの命日の8月17日に毎年町を行進する。
そして毎年、ネオナチがまさに望むものを与えるために反ファシストがすぐにやってきて、誇らしげに打ってかかるビデオが流れ出す。それは逆効果となり、中東を爆撃することがテロリストのマナであるように、ナチスを殴るのは過激派を強化するだけで、彼らの世界観を検証して、新たなリクルートを容易にする。
2014年、ファビアン・ウィッチマンは、ルドルフ・ヘスの行進をチャリティーウォークに変えると提案し、町の人たちがそれに賛成した。ネオナチが1メートル歩く度に町の人たちはウィッチマンの団体EXIT-Deutschlandに10ユーロを寄付する。団体は極右グループから抜け出すのを助けるのだ。町民はスタートとゴールに線を引いて、歩く人たちの努力に感謝する横断幕をつくった。そして歩く人たちに歓声をおくり、ゴールでは紙吹雪を浴びせた。ネオナチは何が起こっているか見当もつかなかったが、結局、寄付は2万ユーロ以上集まった。ウィッチマンは、このようなキャンペーンの後の重要なことはドアを開けておくことだと強調する。2011年の夏、彼の組織は過激派のロックフェスティバルでTシャツを配った。極右のシンボルが刷られたシャツは、洗濯すると別のメッセージが現れた。Tシャツができることはあなたもできる。あなた自身を極右から解放するのを私たちは手伝う。その後の数週間で、EXIT-Deutschlandへの電話の数は300%増加した。嫌悪感と怒りを期待していたところに、彼らは手を差し伸べた。

IX:クローゼットから出よう、恥ずかしがらずによい事をしよう

手を差し出すのに何よりも必要なのは勇気だ。
「貧しい人びとに与えるとき、ラッパを鳴らしてはいけない」イエスは山上の説教で警告した、そして「祈るときは、部屋に入ってドアを閉め、秘密の父に祈りなさい」。
現代の心理学者は、人が心の良心に背く何かをするとき、よく利己的な動機をつくりあげることを発見した。
寡黙はノセボのように機能する。善行を隠すことによって、それは検疫される。そこでは、他の人の模範となることができない。ホモ・パピーは真似することがとても得意なのに、それは残念なことだ。
山上の説教で、イエスは弟子たちに警告する一方で励ました。「あなたは世界の光だ。丘の上にある街は隠せない。ランプに火をつけてカゴの下に置くのではなく、スタンドの上に置くと、家の中のすべてに光を与える。同じように、あなたの光を他の人の前に輝かせて、彼らがあなたの良い行いを見ることができるようにしなさい」。
2010年、よいことをするのは伝染することが、2人のアメリカの心理学者によって実証された。誰も知らない120人のボランティアが4人のグループに分けられ、最初にいくらかの現金をもらい、公共積立に寄付するかどうか、その金額も自由に選べるようにする。その次に、すべてのグループがシャッフルされ、2人が同じグループに2回参加することはない。
次に起こったことは、本当の掛け算トリックだった。誰かが最初のラウンドで寄付したら、グループの他のプレーヤーは、違う人びととプレイしても、次のラウンドで平均20セント多く寄付した。この効果は第3ラウンドまで持続し、プレーヤーは平均5セント多く貢献した。最終的な集計では、1ドルの寄付はすべて2倍以上になった。
すべての善行は池に投じられた小石のようなもので、あらゆる方向に波紋を送る。
優しさはキャッチされる。そして伝染性が非常に高いので、遠くから見ているだけの人にも感染する。心理学者のジョナサン・ハイトは、人びとが単純で寛大な行為にしばしば驚いて感動することを発見した。どんな影響があるかと質問すると、「外に出て誰かを助けたいという抑えらえない衝動だ」と答えた。
ハイトはこの感情を「気高さ」という。人間は、単純な親切によって、文字通り、暖かい、ゾクゾクした感じになるように配線されている。魅力的なのは、話を聞いただけでも、この効果が発生することだ。まるで冷笑的な感情を一掃するメンタルリセットボタンを押すかのようで、私たちはもう一度世界をはっきりと見ることができるようになる。

X:現実的になろう

そして今、私の最も重要な生きるためのルール。
この本で私がやろうとしたことが一つあるとすれば、それは「リアリズム」という言葉の意味を変えることだ。悲観的な見通しをもつ人にとって、現実主義者は皮肉屋の代名詞ではなかったか?
本当は、現実を知らないのは皮肉屋だ。私たちが住む惑星Aでは、人びとはお互いによい事をする傾向がある。
だから現実的になろう。勇気を出そう。あなたの本性に正直になって、信頼を与えよう。真っ昼間に良いことをし、寛大である事を恥じない。あなたは最初は、騙されやすくナイーブだから退けられるかもしれない。でも、今、ナイーブなことは、明日は常識かもしれないことを忘れないように。
新しいリアリズムの時が来た。人間に対して新しい見方をする時が来た。


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