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ルソーが描いた理想社会

以下は、「ダイレクトデモクラシーの旅」の抜粋です。

真に自由な国では、市民は自分の手ですべてを行い、金銭ずくでは何もしない。

ジャンジャック・ルソー「社会契約論」より

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ベーシックインカムの国民投票には友人と一緒に行ったので、せっかくだからと外国人用のパスを買ってスイスを一周した。その中で、ジュネーヴにも立ち寄った。朝、宿を出て散歩していると、レマン湖から流れ出たばかりのローヌ川の中洲の真ん中に、銅像を見つけた。ロダンの「考える人」のような様子のジャンジャック・ルソー。ルソーと真面目に向き合ったことはないのだけど、いつも、何か自分と似たような個性を感じる存在だ。そして、何年か前に「社会契約論」を買って読んだら、すっかり没頭してしまった。何だろう、時空を超えた思想書とでも呼べばいいだろうか。今の社会を250年前に予言しているようだ。

近代民主主義の祖ともいえるジャンジャック・ルソーは、フランス革命が勃発する11年前に亡くなっているが、彼が革命の思想的なバックボーンとなったことは、バスティーユの襲撃の翌月に議決された人権宣言をみると明らかだ。全部でわずか17条からなるこの宣言の第6条の冒頭部分は、こうだ。

第6条(一般意思の表明としての法律、市民の立法参加権)法律は、一般意思の表明である。すべての市民は、みずから、またはその代表者によって、その形成に参与する権利をもつ。

この一般意思という概念こそ言うまでもなくルソーがつくったものだが、この条文にはすでに「その代表者によって」という言葉が挿入されている。ルソーは、一般意思について語った「社会契約論」で、同時に、代表者や代議制を強く否定している。

「怠惰と金銭のせいで、彼らはついに祖国をドレイ状態に陥れるために軍隊をもち、祖国を売り渡すために代議士をもつにいたるのだ」

社会契約論のこの一節はとても激しい言葉だが、他にも「人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなる。もはや人民は存在しなくなる」とまで明言している。

代議士だけでなく、軍隊についても極めて否定的だったルソーだが、興味深いことに人権宣言には、第12条に「人および市民の権利の保障は、公の武力を必要とする」。第13条に「公の武力の維持および行政の支出のために、共同の租税が不可欠である」。と定められている。革命当初から、徴税の最大の目的は、軍隊にあったのだ。人権宣言を起草したラファイエットは、代々軍人貴族の家柄で、アメリカの独立戦争に義勇軍を送って戦功を立てることで国民的な英雄になった人物だが、その後の混乱の中で急速に権力を失っていく。しかし、程なく始まったオーストリアによる干渉戦争をきっかけに、この軍事国家のプランは膨張主義をともなって強大なものになっていく。忘れてはならないのは、フランスはこの革命をきかっけに、史上初めて国民皆兵の徴兵制を実施し、国民軍をつくったということだ。

さらに面白いのは、人権宣言の翌月には、国会の議場の右側に保守派、左側に革新派が陣取ったことをきっかけに、右翼、左翼という言葉が生まれ、それが世界に広まった。その現象のお陰で、世界中の本当に多くの人びとは、デモクラシーの政治とは、議会の左右対立が前提にあるという固定観念をもつようになっている。

しかし、そもそもルソーはどう考えていたのか?
「社会契約論」の中で、一般意思について端的に表現している部分を引用する。

多くの人間が結合して、一体をなしているとみずから考えているかぎり、彼らは、共同の保存と全員の幸福にかかわる、ただ一つの意志しかもっていない。その時には、国家のあらゆる原動力は、強力で単純であり、国家の規律ははっきりとして、光かがやいている。利害の混乱や矛盾はまったくない。共同の幸福は、いたるところに、明らかにあらわれており、常識さえあれば、誰でもそれを見分けることができる。平和、団結、平等は、政治的なかけひきの敵である。正直で単純な人間は、単純さのゆえに、だまされにくい。術策や巧みな口実をもってしても、彼らをだますことはできない。彼らは、あざむかれるだけのずるさすらない。世界中で、もっとも幸福な国民の間で、農民の群がカシの木の下で、国家や諸問題を決定し、いつも賢明にふるまっているのを見るとき、他の国民の、洗練されたやり方を軽蔑せずにおられようか?それらの国民は、数多くの技術と神秘によって、有名にはなったが、不幸にもなったのである。
こういうふうに素朴に治められている国家は、きわめてわずかな法律しか必要としない。そして、新しい法律を発布する必要が生ずると、この必要は誰にも明らかになる。新しい法律を、最初に提出する人は、すべての人びとが、すでに感じていたことを、口に出すだけだ。他人も自分と同じようにするだろうということが確かになるやいなや、各人がすでに実行しようと、心に決めていたことを、法律とするためには、術策も雄弁も問題ではない。
理論家たちが間違いをおかすのは、次のような事情による。すなわち、彼らは、当初から悪く構成されている国家だけしか見ていないので、いま述べたような政治を、そこで維持することは不可能だと、思いこんでいる。彼らは、ずるい人間や口のうまい人間が、パリやロンドンの人民をまるめこむ光景を想像して、笑う。彼らは、ベルヌの人間ならクロムウェルをこき使い、ジュネーヴ人ならボーフォール公を訓練しただろうということを、知らないのである。
しかし、社会の結び目がゆるみ、国家が弱くなりはじめると、また、個人的な利害が頭をもたげ、群小の集団が大きな社会に影響を及ぼしはじめると、共同の利益はそこなわれ、その敵対者があらわれてくる。投票においては、もはや全員一致は行われなくなる。一般意思は、もはや全体の意志ではなくなる。対立や論争が起こる。そして、どんなに立派な意見でも、論争をへなければ通らなくなる。
最後に、国家が滅亡にひんして、もはやごまかしの空虚な形でしか存在しなくなり、社会のきずなが、すべての人びとの心の中で破られ、最もいやしい利害すら、厚かましくも公共の幸福という神聖な名をよそおうようになると、その時には、一般意思はだまってしまう。すべての人は、人にはいえない動機にみちびかれ、もはや市民として意見を述べなくなり、国家はまるで存在しなかったようである。そして、個人的な利害しか目的としないような、不正な布告が、法律という名のもとに、誤って可決されるようになる。

ルソーを敬愛したロベスピエールは、自分の指示を一般意思だと言って人びとに強要し、独裁を正当化したが、ルソーの言う一般意思とはそれと真逆のものだと言うことは、これを読めばよく分かる。ルソーは帝王学さえもはっきりと否定している。

他人に命令するために育てられた人間は、周囲が寄ってたかって正義と理性を奪う。支配するための学問などいくらやっても無駄で、もしそれがあるとしたら、支配者に服従してみて自分が喜べることかどうかで判断できる

と言っている。

さて、このルソーの一般意思はどこから来たのだろうか?

1712年、ジュネーヴの時計職人の子供として生まれたルソーは生後間もなく母親を無くした。そして10歳の時に父親が貴族と暴力事件を起こして逃亡し、以後、孤児のような扱いを受けて各地を転々として暮らす。さまざまな職につき、それが長続きすることはなかったが、自身の孤独を忘れたいかのように読書にふける習慣は幼いころから続き、高い教養が育まれていった。やがて1750年、38歳の時にパリで懸賞論文に応募、入選して一躍名を馳せた。それによって、著名な文化人たちとの交流も生まれるが、そこでさまざまな軋轢がおこった。ルソーは社交の場を苦手として、自然に恵まれた土地での孤独な環境を好んだ。そして、1762年に「社会契約論」とほぼ同時に出版した教育論「エミール」の中で、自然宗教観を示して原罪や教会権力を否定したために、それが焚書扱いとなり、パリで逮捕状が出て亡命を余儀なくされる。ルソーは、自然界が一定の法則で動いているのを見て、そこに何らかの意思、英知を感じ、それこそ神に違いないと思った。そして、これが世界のあらゆる宗教のもとであって、さまざまな宗教に固有の教義や儀式は、その根本原理を独自の風土の中で解釈し表現したものだとした。現代の私たちからすれば自然で、そうかもねと言えることだが、当時の宗教界にとってルソーの考え方は、決して受け入れることのできない危険思想だった。ルソーは故郷のジュネーヴに逃れたがそこでも迫害を受け、転々とする。やがて精神的な変調をきたすようになり、心身ともに衰弱し66才で亡くなっている。

さて、スイスの26あるカントンのうち、グラールス州とアッペンツェル・インナーローデン準州では、今でもランツゲマインデという青空議会が開催されている。それぞれ年に1度、5月の第1日曜日と4月の第4日曜日に広場に市民が集い、誰もが等しく発言権を持って会議が営まれる。その場では、カントンの閣僚や判事の任命や、政府提案や市民発議の法改正など、大事な議題が話し合われ、最後には、投票ではなく挙手で採決される。どれぐらい古くからこうした会議が行われて来たのかははっきりしないが、かつては、さまざまな地域で行われていた。フランス語圏であるジュネーヴは少し様子が違ったかもしれない。ルソーが生きていた頃は、すでにジュネーヴは共和国になっていた。16世紀にカルヴァンが招かれて宗教改革の拠点となる中で、サヴォイア公国から独立している。ジュネーヴは、今では、ルソーの生家が観光スポットとして整備され、大きな銅像もあるわけだけど、ルソーが生きている間は、有名になってからでさえ、生まれた街に歓迎されることはなかった。しかし、ルソーは、故郷に最大限の敬意を払い、理想の政治が行われている街として紹介している。幼い頃の記憶で、職人だった父親の傍には道具に混じってタキトゥスやプルタルコスやグロティウスの本があった。それで父親が特別教養があったのではなく、普通の市民もおよそそうだった。そして、そうした市民に選ばれた政治家たちは確かな見識があり、市民に対して敬意をもって政治をしていた。市民が直接関与することと政治家に任せることのバランスもとれている。ルソーの描くジュネーヴはそういう社会だ。長く故郷から離れていたせいもあって、きっと美化しすぎているに違いないが、そうした要素は確かにあって、その後移り住んだ街よりも人びとが人間らしく生きていたと言う実感はあったのだろう。

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