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戦争の本質、そして世界の実相

第二次世界大戦をうけて、国連ができて国の侵略行為が禁止された。その後、世界の食料生産能力は飛躍的に高まり、経済発展に土地も資源もほとんど必要としない時代になった。武器の能力も呆れるほど高くなった今、戦争のメリットはどこにも見出せないし、実際に紛争で犠牲になる人の数も激減している。私たちが戦争含む暴力によって死ぬ確率は、交通事故、ましてや自殺で死ぬ確率よりもはるかに低い。もはや平和問題を声高に叫ぶ必要がない時代に入っているのが本当のところだ。軍事産業とその関係者だけが、自分たちのビジネスのために「脅威だ」「危機だ」とマスメディアを巻き込んで叫んでいる。そもそも人間は、自分が殺されても殺したくない存在だという事実は、ブレグマンがしっかりまとめている。

それでもニュースで紛争が取り上げられると心が痛む。いつでも戦場に行かされるのは貧しい人たちだし、巻き添え食うのは罪もないまともな人たちだ。

スペイン内戦で前線で戦って銃弾が喉を貫通し、九死に一生をえたジョージ・オーウェルは、『スペイン内戦回顧』というエッセイの中で「戦争は悪である」と断言した上で、こう書いている。戦争について、これ以上的確な表現もないだろう。

軍隊生活の本質的な悍ましさは(兵隊だったことのある者なら誰でも何のことかわかるだろうが)、どの戦争を戦っているかというその戦争自体の本質とはまず無関係である。たとえば、規律といえば根本的にはいかなる軍であっても同じである。命令には従わねばならないし、必要があれば罰を用いてそれを強要せねばならない。将校と兵卒の関係は上下関係でなくてはならない。
『西部戦線異状なし』のような本に書かれている戦争のようすはだいたいにおいて真実だ。弾丸は人を傷つけ、死体は悪臭を放つ。砲火を浴びた兵士が恐怖のあまり小便を漏らしてズボンを濡らすのもしょっちゅうだ。

そして戦争で巻き起こる世論についてこう書いている

大衆に関する限り、今日起こっているような極端な意見の転回や、水道の蛇口みたいに簡単に出たり止まったりするような感情は、新聞やラジオによる催眠術のせいである。インテリの場合はどうかと言えば、金と、単に自分は肉体的に危害の及ばない場所にいることが理由だ。その瞬間瞬間で「戦争支持」にも「反戦」にもなるが、どちらの場合も心の中にいかなる現実的な戦争像も描けてはいない。

存命中は900冊しか売れなかったオーウェルの『カタロニア讃歌』を読んでいると、数年前に訪れたバルセロナのランプラス通りの秋晴れの澄んだ街並みや長距離バスから眺めたピレネー山脈の木がまばらで乾いた埃っぽい山並みが蘇ってくる。オーウェルは80年も前にあの場所で塹壕掘ったり、バリケードつくったりして激動の時を過ごしたんだなと感慨を覚える。

1936年暮れ、スペイン内戦を取材して新聞記事を書こうとしてバルセロナを訪れたオーウェルは、街の雰囲気に圧倒されてすぐに義勇兵として前線に行くことを決める。

石炭、砂糖、石油が不足し、とくにパンの欠乏は深刻だった。このころでさえ、もうパンの行列は、しばしば何百ヤードの長さに及んだ。しかも、それでいて、判断できるかぎりのところでは、人々は満足し希望を持っていた。失業はなく、物価はまだきわめてやすかった。貧民とわかる者の数はごく少なかったし、乞食はジプシー以外ひとりもいなかった。なによりもまず、革命とその未来が信じられていた。思いがけず平等と自由の時代に生きる喜びがあった。人間が資本主義機構の歯車としてではなく、人間として生きようとしていた。床屋の中には、床屋がもはや奴隷でない旨を宣告するアナーキストのビラがあった(床屋はたいていアナーキストだった)。街には、夜の女たちに商売をやめるよう呼びかける色刷りのポスターがあった。理想家肌のスペイン人たちは、こういう革命のきまり文句を、文字どおりに受けとっていた。冷静で意地のわるい、英語を話す文明圏から来た者からみれば、それは痛ましいくらいであった。

しかし数ヶ月後に前線から戻ってくるとバルセロナは一変していた。街の様子はもとにもどり、労働者たちはトロツキストだとレッテルを貼られて弾圧が始まり、市街戦にまで発展、オーウェルの戦友の多くは逮捕投獄されて帰らぬ人となり、自身は命からがらスペインを脱出した。フランコに率いられ、ヒトラーとムッソリーニに支援されたファシスト軍と戦ったスペイン共和国政府はスターリンのソ連に支援されていたが、彼らは労働者が主役の社会を望んではいないことは明白だった。オーウェルは「歴史は1936年で止まってしまった」とも言っている。知識層の多くが共産主義に理想社会の夢を抱いていた頃、オーウェルにはその行先がはっきりと見えてしまった。

そして、戦争を取り巻くマスメディアいついて、こう書いている。

人生の初期から私は、どんな出来事も新聞で正確に報道された例はないと気づいていたが、事実とは全く関係のないことが報道されたり、普通の噓に含まれる程度の事実さえ含んでいないような噓が報道されるのを見たのは、スペインが初めてであった。戦闘などなかったはずの場所で大激戦があったと報じられたかと思えば、数百人の死者が出ても何も報道されない、といった具合だ。勇敢に戦った部隊が卑怯者だとか裏切り者だと非難されたり、一発の銃弾さえ目にしなかったような部隊が架空の大勝利の英雄として称えられる。次にはロンドンの新聞社がこのような噓を受け売りして広め、頭の熱くなったインテリたちは実際には起こらなかった出来事に基づいて、感情に流された理論を組み立てるのである。私が目にしたのは、実際に起こったことではなく、各組織の様々な「政策路線」に照らして、起こるべきだったことをもとにして、歴史が書かれていく様である。

戦争時代、日本の大本営発表が嘘ばかりだったということは多くの日本人が知っている。でも、情報戦争は戦時下に限定されていないとオーウェルは見ていた。だから『1984』では、あらゆるニュースが政府によるでっちあげになっている。そもそも、戦争が終わったらからと、きっぱりとでっち上げを止めるはずもない。

そんな今、コロナ報道で、それを感じる人はどれだけいるだろう?



最後に、オーウェルはどんな社会を望んでいたのか?

じゅうぶんな食物、つきまとう失業の恐怖からの自由、子供が公正な機会をもつ保障、一日一度の入浴、かなりしばしば下着を取りかえること、雨の漏らない屋根、一日の仕事が終っても少しはエネルギーの残るくらいの労働時間。こういったものなしに生きて行くことが可能だと、「物質主義」を非難する連中の誰が考えているだろうか。この最少限くらい、せめて二十年それに心を砕く気になれば、容易に実現されるであろう!全世界の生活水準をイギリスのそれまで引きあげるのは、われわれが戦ったこの戦争にくらべて、そうむずかしい仕事ではないだろう。それによって、問題そのものが解決される、と言っているのではない。誰もそんなことは言うまい。搾取と野蛮な労働が廃止されないかぎり、人間の真の問題に取り組むことはできないというだけのことである。現代における最大の問題は、個人の不滅に対する信念の衰えたことであるが、ふつうの人間が牛のようにあくせく働き、秘密警察の恐怖におののいている間は、その問題に取り組むこともできない。労働者が「物質主義」をとるのは何と正しいことか!価値の問題としてではなく、時間の問題として、腹が魂より先に来ることを自覚することは、何と正しいことか!それを理解すれば、人間が長年どんな恐怖に堪えてきているかが、少なくともわかるようになる。ペタンとかガンジーといった人の猫なで声、戦うためには手を汚さねばならぬという避けがたい事実、口に民主主義をとなえながら苦力帝国を支配しているイギリスのいかがわしい道徳的立場、ソヴェート・ロシアの不吉な発展、左翼の政治のきたならしいファルス──こういった、人をたじろがせるようなことはすべて忘れられて、少しずつ目ざめつつある一般大衆が、有産階級とそのおかかえの噓つきや寄生虫どもを相手に戦う戦いだけが見えてくる。問題はきわめて単純である。あのイタリア人の兵士のような人たちが、人間らしいまともな生活をすることが許されるか、許されないかである。今日の技術は、すべての人が人間らしい生活を送ることを可能にしているはずである。民衆は泥の中に押しもどされるのか、されないのか?ぼく個人としては、その根拠はあまり確かではないが、民衆がいずれ戦いに勝利を収めるものと信じている。勝利の日が少しでも早く来ることを、一万年以内というようなことではなくて、まあ、百年以内くらいに来ることを望んでいる。これが、スペイン戦争の真の問題点であった。これが、この世界大戦の、そして、たぶん今後も起る戦争の、真の問題点である。

オーウェルが亡くなって70年すぎた。そろそろ真剣に向き合っても悪くないと思う。

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