誰がために。

ピアサポートや当事者活動の話題になると、分野や職種によって温度差が大きいことを強く感じている。
福祉の分野ではピアサポートは不可欠なものになっていて(それは本人のためというのと同じくらいに資源やマンパワー不足の問題もあるのだが)、医療の分野でも「当事者の言葉」を理解しようとする姿勢は進んできている。
一方で、特に批判が大きい分野がある。それが臨床心理の分野だ。専門家から、「他人を支えようとする前に自身の課題に向き合えていない」という旨の言葉を聞いたことは、一度や二度ではない。

これはもっともなことだと思うし、臨床心理の分野を批判することはできない。私もワーカーの端くれとして人の話を聴いたり自身の考えを伝えたりしているけれど、知識や経験を身につければつけるほど、こころや言葉を扱うことの怖さを感じるし、生半可な状態で他者と向き合うことなど、とてもじゃないができないと思っている。

ピアサポートや当事者活動が広まり、それに関わるひとはこれからも増えていくだろう。そのなかで、心理の分野からの批判は正直に言って耳が痛い。だけど、謙虚に耳を傾けなければならないと思う。かつての私がそうだったように。

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病気や障害の有無にかかわらず、「ひとのために生きる」ことは容易なことではないし、どんなひとであっても、いつかは真正面から向き合わなければならなくなると思う。そして何より、(言うまでもないが)ひとは自分自身のために生きなければならない。
けれど、「ひとのために生きようとする」ことは「ひとのために生きる」こととはまた別なものではないかと思う。だとしたら、前者を頭ごなしに否定してよいのだろうか、ということを最近考えている。

当事者がひとのために何かをしようとする場合、それが独り善がりなもので、自身にも他者にも好ましくない影響を与える場合は、本人も周囲もストップをかけなければいけないと思う。
けれど、「ひとのために生きよう」とすることで初めて、そこから「自分のために生きなければならない」ことに気づくということも、きっとあると思う。どこかの段階でそのひとがそれに気づくことができたら、「ひとのために生きよう」とすることは悪いことではないのではないか。
そして、もしかしたら当事者にとっては、「ひとのために生きよう」とすることが、そのひとにとって、数少ない選択肢だったりきっかけだったり望みだったりということもあるのかもしれない。少ない選択肢であるそれをすぐに摘み取ってしまう前にその背後にあることを考えることが私たちにはできるのではないか。

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医療でも福祉でも心理でも、「ひとのために生きよう」とするだけでは、結局はどこかで「自分のために生きなければならない」ということにぶつかざるを得ないと思う。それはきっと、障害者であっても健常者であっても関係ない。

「ひとのため」という気持ちがあって、「自分のため」の大切さを知る。
面倒くさい文章を書いていて、他愛ない会話の大切さを知る。
数字でエビデンスを示そうとすることで、数字を超えたものの大切さに気づく。
そういうものに世界は満ちているのだと思う。


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