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Paris-Roubaix 1997 #1

 子供の頃から作文は書き始めるまでに時間がかかる悪い癖がある。これは誰かに読ませるものではなく、あくまでも記憶の地層にどんどん埋もれていく、大切な事を書き留めておく自分の為の備忘録なのだから、気楽に書き始めればいいものを、困ったものだ。

 初めてベルギーで自転車レースを取材したのは、1997年の春。前の年の冬に、どんな心境でそれを決めたのかは、面白いくらい覚えていない。でも、目的地が本当はベルギーではなかったのは確かだ。ずっと観たかったのは、フランスのパリ~ルーベだった。自転車レースに出会った初期は、多分ツール・ド・フランスを観戦したいと思っていたのだろうが、1996年の冬に観に行こうと決めたのはパリ~ルーベだった。

 そんな時、偶然雑誌で見つけたのが、ベルギーで日本の自転車選手のお世話をしていたSさんファミリーの投稿記事だった。地図を見て、その家が北フランスのルーベに近い事を知り、自転車選手でなくてもホームステイができるかどうか、問い合わせたのがベルギーを訪問する最初の一歩だった。それがフランス在住のファミリーだったら、今の自分はなかったのかもしれない。

 Sさんのファミリーが住んでいたのは、ベルギー北部、西フランダース州のホーグリードという小さな町の、さらに郊外のセント・ヨーゼフ村だった。そこは日本人のSさんの、旦那さんの地元だった。セント・ヨーゼフ村は鉄道駅から遠く、車がなければ生活できない田舎だったが、自転車選手がトレーニングするには最高の環境が整っていた。そこから北フランスのルーベは、車で1時間ほどだった。Sさんの所はホームステイの宿泊費、送迎などの車代がきちんと決まっていたので、取材のサポートをお願いするのもスムーズだった。

 当時はインターネット黎明期で、パソコンすら持っていなかったから、海外のレースを取材する上での情報を入手するのは今ほど簡単ではなかった。古い事であまりよく覚えていないのだが、いくつかのレースは三宅寛カメラマンのような先人たちの恩恵で、編集部に主催者からのファックスや手紙が届いていたのだと思う。1997年に、主催者の連絡先が分からなかったのはヘント~ウィーブルヘムだけで、他のレースは出発前に取材申請を済ませる事ができていた。勿論、申請は全て国際電話を使ったファックスだった。

 右も左もわからずに始めたレース取材。ドライバーはSさんに有料でお願いできた。しかし、パリは遠いからと言われ(当時はスタートがコンピエーニュだという事も把握していなかった)、最初のパリ~ルーベはルーベのベロドロームまで、ゴールだけを観に行った。

 午後、何時頃ルーベに到着したのかは覚えていないが、ゴールまではまだ時間があり、ベロドロームでは前座のトラックレースが行われていた。その日はMTBのレースもあって、ゴールしたばかりのアドリー・ファンデルプールを発見して写真を撮ったりしていた。オランダ人のファンデルプールは当時まだ現役選手で、ラボバンクに所属していて、ルーベの前に観に行ったレースで知り合ったソワニュールが一緒に居たのだったと思う。Sさんはシクロクロスの日本人選手もお世話していたから、世界チャンピオンに会えてとても喜んでいた。

 当時すでにデジカメはあったが、まだ高価で普及はしていなかった。プロですら90年代はまだまだ銀塩の時代だった。いっちょ前にも初級機の一眼レフを使ってはいたが、ポジフィルムはどうも苦手で、ネガフィルムを入れて撮影していた。フィルム1本で24枚撮り、36枚撮りの時代である。今のようにパシャパシャ無駄には撮れないから、厳選した被写体しか撮影していなかった。そのせいだろうか、アナログ時代の写真の方が、デジタルよりもクオリティが高く感じる。

 アナログ写真は全て現像してあるので、当時のアルバムを引っ張り出してくれば、また色々思い出すのだろうが、今回はそこまでしない事にした。あくまでも記憶の浅い層に残っているものだけを書き留めておく。

 パリ~ルーベはおそらく現存するプロレースで唯一、ベロドロームのトラック内でゴールする。スイスのチューリヒ選手権もそうだったが、もう随分前になくなってしまった。2017年当時は、まだルーベのベロドロームには屋根のない屋外トラックしかなかった。メディア、ソワニュール、チーム関係者は、ゴールが近づくとベロドローム中央の芝生に入って選手の到着を待つ。選手が走るトラックを横切って芝生に入るのだが、その瞬間は今でも鮮明に覚えているほど特別なものだった。

 その年は小集団がベロドロームに到着し、ゴールスプリント勝負になった。勝ったのはフランスのフレデリク・ゲドンで、彼はその時から自分にとって特別な存在になった。フィニッシュラインにはフォトグラファーしか近づけなかったが、パリ~ルーベはベロドロームのトラック内を1周半するので、反対側にいてももう一度、選手たちが通過するのが観られた。まだインターネット・メディアもいない時代で、今よりも芝生の中は空いていたから、何の障害もなく疾走する選手たちの写真が撮影できたのをよく覚えている。下手くそな写真でも、それは今でも大切な宝物だ。

 ベロドロームからの帰り際に、もう一度トラックを覗いたら、誰でも中に入れるようになっていて、芝生の真ん中に残されていた表彰台に上がり、記念撮影をしているレースファンたちがいた。子供の頃から写真を撮られるのは好きではなく、あまり記念撮影をする方ではないのだが、おそらく初めてのパリ〜ルーベで舞い上がっていたのだろう。この時だけはSさんにお願いして、表彰台の上でバンザイしている写真を撮影してもらった。

 その時、魂はルーベのベロドロームの芝生の下に埋めてきた。そして、自分の魂を訪ねるために毎年ここへ戻ってくると誓った。2019年まで、その誓いは破られる事がなかった。様々な障害があっても、毎年ベロドロームの芝生に立っていた。いつかはそこに戻れない時が来るだろうとは分かっていた。しかし、今はその時ではないとも分かっている。もう少し、もう少しだけ辛抱すれば、また自分の魂と再開する為に、あの芝生の上に立って、勝者の到着を待つ事ができるはずだ。

[追記]アドリ・ファンデルプールの件をネットで確認しようと試みたが、1997年のパリ〜ルーベに前座のMTBレースがあった事実は見つけられなかった。記憶違いで一般参加レースだったのかとも思ったが、確かこの時ファンデルプールは優勝者だったと思うので、ちゃんとしたレースだったと思う。もしかしたら、当時の新聞か雑誌を探せば出ているかもしれない。以前からインターネットには1998年あたりに壁があると感じていて、そこから前の情報はあきらかに少なくなる。昔に比べれば古い情報はかなり更新されているが、やはり限界があるのだなと痛感した。



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