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人類の本物のリーダーとは?

悟りに達する道と、社会を発展させる道は、二つの道ではない。同じ一つの道だ。心を清らかにすれば、社会も発展する。世界も幸福になる。心を清らかにするプロセスは、そのまま社会の発展につながる。人を助ける時は、無執着の心で助ける。助けることができたことを喜び、相手が幸福になったことを喜ぶ。執着があると負担になる。仏教の実践者は、「助かったら、もう忘れてください。さようなら」という無執着の心で助けてあげるから、相手には何の負担にもならない。

世の中にモラルを語る人は多いが、モラルを守る人は少ない。道徳を守っていない口だけのモラリストに道徳を教えられても、片っ端からモラルを破りたい気持ちになるだけ。無知な人が説く道徳は、主観的で間違いだらけ。

歴史を見ても、皆に素晴らしい影響を与えて安らぎに導いたのは、自分の心を育てた人だ。マハトマ・ガンディー、キング牧師、ネルソン・マンデラ....真に優れた人々は、まず自分がしっかりした人間になる。自分の道を究めて心を育てた人が、人類の本物のリーダーになる。その人のことは、亡くなっても皆ありがたく思い出す。世界にずっと良い影響を与え続ける。だから何より、自分の心を直すこと。それが正しい答え。哲学者にしても、科学者にしても、心が出来ている人が素晴らしい仕事をする。

仏陀は、自らの心を育てることもせずに人を助けることはあり得ないと説かれた。心が臭く汚れて、混乱、怒り、嫉妬、恨み、差別などで腐った生ゴミのような状態でいて、他人の役に立つ、他人を助けるなんてあり得ない。怒りに燃える人が語る平和は、形を変えた怒り。どんな仮面を被っても、争いは争い。心が汚れた人、心を綺麗にする努力をしない人の平和運動は、チョコレートに覆われた毒で、社会に大迷惑だ。

心を育てていない人にとって、周りのトラブルを解決してあげるのは無理難題。心が落ち着いていて、穏やかにニコッと笑って、人の問題は問題として見ない。人の過ちは「まあいいや」と許す気持ちになれる。人を善人/悪人と判断しない。誰も完全ではないと慈しみの気持ちで観ている。そういう人がいたら、それだけで周りもかなり直る。人の過ちは許さなくて、カンカン怒るという状態では、トラブルを淡々と解決することなどできない。人を助けたければ、自分の心を先に助ける。それしか道はない。

真剣に心の成長に取り組んでいる人であれば、自分の幸福を追求するより、他の苦しみを心配するのは正しい。何の修行も積んでいない人が、自分より先に他人を助けることを語るのは、人助けではなく犯罪だ。盗人が「盗むのはやめなさい。良くないことだ」と人を諭すようなもの。親切心ではなく、みんなが盗むと商売があがったりになるのを心配しているだけかも。「自分のことは後回しにして、まず他人を助けるべき」という利他の思想は、曖昧で不完全で、非道徳的な表現になりかねない。

ティック・ナット・ハンは、1960年代、ベトナムの新たな仏教ムーブメントを「エンゲイジド・ブディズム」(社会参画仏教、行動する仏教)と名付けた。しかし仏教は、誕生のときからエンゲイジド・ブディズムだ。最初から最後までエンゲイジド・ブディズム。真の仏弟子は社会から逃げない。仏陀が悟りを開いた後、ほどなくして60人の弟子たちが阿羅漢の悟りを得た。仏陀はすぐに弟子たちに、「歩きなさい」と言われた。人間だけでなく、神々の幸福も目指して歩きなさいと。

Caratha, bhikkhave, 
比丘たちよ、旅立ちなさい

cārikaṁ bahujanahitāya bahujanasukhāya
人々の利益と安穏のために

lokānukampāya
世界への同情のために

atthāya hitāya sukhāya devamanussānaṁ.
神々と人間に、意義と利益と安楽をもたらすために

Mā ekena dve agamittha
二人で行かず、一人で歩きなさい

60人しかいないから、それぞれ独りでインド全体を歩きなさい。これぞ元祖エンゲイジド・ブディズム。人々に平和の道を教える。平和に生きる方法を教える。仏教は、自分の寺に隠れてするものではない。苦しみに満ちた現実が、そのまま仏弟子にとっての寺になる。今ここで、どう話すか。どう見るか。どう聴くか。どう判断するか。どう生きるか。つまり仏教とは「正しく生きる方法」。始めから終わりまで、エンゲイジド・ブディズム。

仏教の修行そのものが、他の生命と強く関わっている。修行者はまず戒を受けるが、「殺生はしない、盗みはしない、嘘を言わない」など、生命と関わらないと道徳は成り立たない。慈悲の修習も欠かせないが、それも生命との関わりで成り立つこと。「幸せでありますように」と真剣に慈悲の心で生きている人が、周囲に良い影響を与えて生きている。仏道の修行は、自ずから他の役に立つ、他を助ける行為になる。修行者には「自分のため」という気持ちも「他人のため」という気持ちもない。「ただひたすら修行している」というのが答え。自分の心を直す道は、一切の生命に幸福をもたらす最高の善行為になる。

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