いてくれて、ありがとう

いるのが当たり前で空気みたいになってた。

友人との飲み会やレクリエーション行事で約束をすっぽかされることが多くなった。理解のある彼女でいたかったから、もう半年以上我慢していたけれど、自分の優先順位の低さに辛くなって、彼氏に別れを切り出したのは春、ゴールデンウィークの最終日だった。

1日ぐらいは私と遊びに行こう?とゴールデンウィーク前に約束していたのに、彼は会社の同僚とキャンプに行ってしまったのだ。

知らない人の中でもうまくやれるから。
そう言って連れて行ってもらえるよう頼んでみたけど、気難しい人がいるからダメなんだと断られた。

彼がキャンプから帰ってきた日の次の日、朝、まだ寝てる彼のアパートに訪ねて行って、別れを切り出した。

疲れてるんだけど、と不機嫌な彼に、単刀直入に、別れたい、と言った。

何言ってるんだよ、と取り合ってくれなかったので、もう一度ゆっくり、別れたい、と言った。

それ以外の言葉を発さない私に、やっと不安を覚えた彼が、ベッドから起き上がり、居住まいをただして、どうしたの、と言う。

どうしたもあるか。
そう思った瞬間に、これまでの思いが堰を切ってあふれ、ドタキャンをされて悲しかったこと、自分の気持ちなど何も気にしてはくれないのだと絶望したことを一気にまくしたてた。
言葉とともに目からは涙があふれ、その有様に、さすがに彼は私の気持ちがすでいいっぱいいっぱいであることを悟ったようだった。

しばらく別れる別れないでもめたが、後日、彼は私を解放してくれることになった。

別れの挨拶をした私に、彼は言った。

いるのが当たり前で空気のようになっていた、と。

***


5年のつきあいも、終わるときは一瞬だ。自分が耐えられなかったからとはいえ、思う以上にあっさりと、私は独り身に戻った。

はじめのうちは、一人なのだということが寂しかった。休みの日や寝る前に、もうメールや電話をする相手はいないのだと、布団に入るたびに思った。

かといってすぐに誰かを、と思うこともできず、とにかく仕事に打ち込み、友人たちに遊んでもらって、日々を過ごしていた。

***


数ヶ月たち、そろそろ紅葉の季節かというころ、会社の上司から紅葉狩りに誘われた。彼は私の3つ上で、とても優しい人だった。

仕事でもお世話になっていたし、会社の人たちとのイベントごとでも、皆がたのしめるように細やかな心遣いができる人だと尊敬していたので、お誘いには躊躇いもなくOKした。

いつもと違い、二人きりでの紅葉狩り。予感はあったが、帰り際にやさしくキスされ、告白され、付き合うことになった。

***


彼の名前は悟といった。
悟は私と付き合えたことをとても喜んでくれて、毎日会社帰りは送ってくれた。

帰りにレストランに行くこともあれば、私の家で晩御飯を食べることもあった。
抱きしめられて、甘い言葉をささやかれ、私を特別扱いしてくれる悟に、私はおちた。

ある日、彼は私を抱きしめながら、感極まったようにこう言ったのだ。

いてくれてありがとう。
志保がこの世にいてくれることが、嬉しい。

空気のようだ、と元彼に言われた私に、この言葉はとても効果的な麻薬だった。この言葉にすがり、この言葉をまるで世界にただ1つしかない宝石のように大切にした。
彼の温もりと彼の言葉に依存し、私と悟はまるで恋を知ったばかりのティーンエイジャーのように四六時中一緒にいた。

そんな彼が、私とちょっとでも離れるのが嫌だというのは、それほど首をかしげることではなかったかもしれない。

***


数ヶ月経って付き合いも落ちついてきたころ、私は仕事で後輩の男の子と組むことになった。
プロジェクトが佳境に入ると二人きりで残業しなければならない日もしばしばで始めた。

そんな日が一週間ほど続いた時、今日も残業だね、と後輩と話していたら、仕事をおえた悟がやってきた。

悟は後輩がいるのが目に入らないのか、私の目の前に立ち止まると、貧乏ゆすりをするように肩を上下させながら、今日はいつ終わるの、ときいてきた。

残業続きであっても悟とは毎晩会っていた。たとえ疲れて帰ってすぐに寝たくても、家には悟が待っていた。疲れているから休ませて、と言っても、一度は私を抱かないと悟は納得しなかった。
オフィスに男と二人きりなんてありえないと言い、男はバカだから体を重ねたら安心するからといい、疲れた私をとにかく一度は抱いた。

そんな日が続けば、悟以外の人と話をしてリフレッシュしたくなることもある。昼食を同僚たちととった日の夜には、志保は俺との時間から削っていくんだね、それは勝手だよね、とより一層激しく、私を抱いた。

私の疲労は仕事ばかりではなかったのだ。

今日はいつ終わるの、という悟の声は、なんだかイラついたような感じだった。大の男が駄々をこねている、そんな風に私の目にはうつった。
後輩の前でそんな恥ずかしい態度とらないで、と思わず喉の奥から出そうになるのを必死でこらえた。

明日のプレゼンの資料ができれば帰れるから、あと3時間ぐらいかな、と悟の苛立ちには気がついてないかのような、冷静な言葉で答えた。

じゃあ、待ってるから。

吐き捨てるようにいって、悟は自分のデスクの方へと戻っていた。
後輩が少し顔を引きつらせながら黙っていた。駄々っ子のようだ、といっても大柄な悟がイラついている様はどことなく怖い。後輩は気の弱い方だったので尚更だったのではないだろうか。

先輩、僕、一人でやりましょうか?

一人でやるにはあまりにも多い量。後輩一人でとなると、彼は終電をのがすだろう。

気にしなくていいよ。はやく仕上げちゃおうよ。

後輩から悟が見えないよう、体を移動させる。気にしなくていいよといった私の言葉に悟が苛立ちを大きくしていることを後輩に見られたくなかった。悟に向けた背中がヒリヒリとした。

***


嫉妬と束縛、お前は勝手だという彼の叱責。悟との付き合いはやがて辛くなった。

心は乱れ、涙もろくなり、何を言われても取り乱すとようになった。

週末に時折帰る実家でも、私が幸せではないことに気がついたようで、何かあったのかと何度も母に聞かれることもあった。

もう限界だと思った時、怖くて仕方なかったけれど、悟に別れ話を切り出した。

何言ってるの?なんでそんなこと言うの?と悟は貧乏ゆすりしながら声を荒げた。
他に男でもいるの?そんなことも聞かれた。
そうじゃない、縛られるのが辛くて仕方がない。
そういったら、俺の気持ちはどうなるの?自分の気持ちばかり優先して勝手なんじゃないのか、と返ってくる。

そう言って、あなたは私の気持ちをしりぞけるじゃない、そう叫んだ。あなたこそ勝手よ、と。
この時はじめて悟に突き飛ばされた。悟はこれまで、イラついて物にあたることはあっても、私に手を上げたことはなかったのに。

びっくりして、怖かった。
目を見開いて彼を見ると、彼はさらに目に怒りを滾らせて、
女はすぐ暴力だと叫ぶけど、言葉の暴力はいいのかよ、と叫んだ。

怖くともここで引いたら意味がない。
私そんなこと言ってない、もう耐えられないから別れたい。

静かにはっきりと言ったら、悟は少し落ちついて、ごめん、きちんと話し合おう、と言った。

ごめんなさい。もう無理なの。辛いの。泣きながらそう訴えたけれど、悟は納得しなかった。

夜を徹して別れ話は続き、私はもう気力の限界だった。
嫌なところを言え、直すからと言い募る悟に、順につらかったことを話していった。直るわけもないと思うのに直すといい、私にはそれに反論する体力はなかった。
悟の言うがままに私は悟に感じる苦痛を述べさせられた。蜘蛛の巣にからめとられるかのように、ねっとりと悟がまとわりついている感じがする。私の意志とは関係なく、この人は私を動かそうとするのだ。
反論の体力を失いつつある私を悟は優しくだきしめ、他には?ときいた。

他の人の前で、子供みたいに駄々こねないで。悟とつきあっていたことで、恥ずかしい思いをするのは嫌だ…。

ぼそりと言ったその時、悟の体が強張るのを感じた。不思議に思ったけど顔を上げて悟の顔を覗き込む気にもなれない。

悟がゆっくりと私の抱擁をといた。そうかと思うとフラフラと後ずさりし、ベッドまでたどり着いたところで、ドサリと座り込んだ。

片手で顔を覆い、片手で体を支えながら、
もういい、
と言った。

私には何が起きたのかわからなかった。もういいというのは何のことだろう。

崩れ落ちた悟の様子にわけがわからなかった。呆然と立っていると、悟がぽつりといった。

もう、お前の中では終わってるんだな…。

あれだけ嫌だった悟が哀れで抱きしめてあげたいと思った。でも、これを逃せばもはや別れられないとも思った。そして、今なら別れられるとも思った。

狭い部屋に二人きりこれ以上ここにいてはいけない。ここは私の部屋だったけれど、立ち上がりそうにない悟に、合鍵はポストに入れておいて、と言い残し、目の前にあった貴重品と車の鍵だけを持って、アパートを出た。車に乗り込み、とにかくどこかに行かなければと、夜の道を走った。

その日私は、漫画喫茶で一夜を明かす。翌朝にアパートにかえると悟の姿はなかった。

***


あれから数ヶ月。
もともと部署のちがう私と悟。会社でももはや、悟が私に話しかけてくることはない。


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