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第11回 「六義園」を訪ねて/「煉瓦の蹲」をつくる

「建築」と「庭」は二つで一つ

 日本の建築は多くの場合、庭と切っても切れない関係にあります。たとえ都市の真ん中の狭い町家でも、内露地を設けて坪庭を作らずにはいられないのが日本人です。古く平安時代には寝殿の庭がありましたし、中世の庭については下記の記事で禅の庭の一例をご覧いただけるかと思います。

 そんなお庭大好きの日本人が園芸ブームに沸いた江戸時代にあって、日本の庭園のある種の極致をみせているのが「大名庭園」です。

 江戸時代の大名の邸宅が、私的空間である「奥」と、公的空間である「表」で構成されているのは、ご存知の方も多いと思います。邸宅に招かれた客は、主人と親密な「奥」に近いほど重要度が高いとされました。
 このような共通認識を使って、主人は重要度の「ランク」を来客に自覚させることができました。上司を「奥」まで呼んで「あなたのことを大切にしていますよ」とゴマを擦ったり、部下をあえて「表」にとどめて「君の今のレベルはまだこの辺だよ」と煽ったりできるわけですね。今の目で見れば、ちょっと嫌らしいやり方かなと思います。

 江戸時代の大名庭園で興味深いのは、「庭」が「表」よりもワンランク外側の接待空間として政治的に機能していたということです。「奥」と「表」に「庭」が加わることで、来客のランク付けを更にきめ細かく表現できるようになったわけですね。六義園を造営した柳沢吉保(1659-1714)は5代将軍、徳川綱吉のお側用人として権勢をふるった人でしたから、このような庭の政治的な使い方は特に重要でした。

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 六義園はもともと柳沢家の下屋敷の庭です。写真は屋敷があったあたりからみえる景色ですので、吉保もこのような景色を見たのかもしれませんね。これぞお殿様の景色です。

 余談ですが、庭は屋外ですから、雨の日に「庭」に招かれた客はやはり相応の苦労を強いられることになります。
 私は着物が好きで、休日などよく着物で過ごすのですが、雨の日は絶対に着物は着ません。なぜなら、絹のお召しなどはひとたび雨に濡れたら大惨事で、大急ぎで専門のクリーニング店に出さなければ身丈が縮んで二度と着られなくなってしまうからです。綿ならばいくらか気は楽ですが、濡れた着物は冷たく、重く、ともかく不快なものです。
 柳沢吉保のころより時代は下って万延元年(1860年)のことですが、紀州家の酒井伴四郎という藩士が自分のお殿様の下屋敷(現在の旧芝離宮恩賜庭園)に呼ばれた際、雨に降られて風邪を引き、やけ酒を飲んで恨み節を書き連ねたという日記が残っています。(安藤優一郎、「大名庭園を楽しむ お江戸歴史探訪」、朝日新書、2009)

六義園(むくさのその)のうんちく

 六義園は、大名庭園らしい大名庭園です。大きな池を中心に築山でアクセントをつけ、周囲を散歩して景色の変化を楽しむ「回遊式築山泉水庭園」という形式です。ここでみられる景色はすべて人為的に仕込まれたもので、御用造園家チームにより維持されていました。先にも述べた通り、庭は政治的な装置でもありますから、その整備費用はいわば経費のようなもので、ここをきれいに設えることは大名にとっては仕事のようなものでした。
 一方で、庭には一定の自由度があり、特に下屋敷の庭は大名個人の趣味が反映されやす場所でもありました。

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 こちらの写真は、築山に登って池の周囲を上から撮ったものです。池の中にアイキャッチとして、小さな2つの島が作られているのが見えますでしょうか。この島は、「妹山(いもやま)」、「背山(せやま)」と名付けられています。元ネタは吉野川の両岸にある一対の島で、「妹背山」として万葉集や古今和歌集などに登場します。歌枕というやつですね。このネーミングセンスからもわかるように、柳沢吉保は、博学な趣味人で六義園の各所に歌枕に範をとった名所のオマージュが配置されています。

 六義園の「六義」という語からして、「むくさ」と読み和歌の基調を表す言葉だそうです。吉保自身も「六義園」を「むくさのその」と読ませていました。柳沢吉保は晩年、自身の業績を「楽只堂年記(らくしどうねんろく)」(1709)という全229冊の大長編にまとめているのですが、その第108巻をまるまる六義園の解説に充てています。絵図も付されている貴重な一次資料なのですが、池、築山、川、散策ルートなど基本的な骨格が現在と変わらないことを確認できます。

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 写真の石橋は「渡月橋」と名付けられています。藤原定家「新勅撰和歌集」の歌が元ネタです。「国々の名所に範をとれ」とはわが国最古の作庭書「作庭記」も教えるところですね。

 庭園各所の見どころの元ネタは、「森守 、「六義園 (東京公園文庫【19】) 」、東京都公園協会、2015」などで詳しく確認することができます。基本的に元ネタは内外の古典籍です。同書は吉保の経歴などから六義園の背景を丁寧に説きおこしており、六義園を理解するにあたり起点としてよい良書だと思います。ただ、ネタ元の古典籍に関しては少々マニアックすぎて、私のような無教養の者には読み進めるのがちょっとしんどかったですね。そのうちまたリベンジしたいです。

 「大長編の自伝」や「古典ネタ満載の作庭」から透けて見える柳沢吉保の横顔は、ずばり、勉強家でうんちく好きというものです。儒教オタクのきらいがある徳川綱吉と気が合ったのも、さもありなんと思えますね。

大名庭園で楽隠居

 六義園のもう一つの魅力は残存する文献資料の豊富さにあります。庭園というのは手を入れなければあっという間に荒れ地になってしまうものです。なので、当時の姿を伝える文献資料は特に貴重です。
 柳沢吉保の孫、柳沢信鴻(のぶとき)は家督をついだのちつつがなく勤め上げ、1773年に六義園に隠居します。そして「楽隠居」を絵にかいたような暮らしを日記に残します。これが後年、「宴遊日記」、「松鶴日記」と呼ばれる貴重な資料になるのです。

 原書を読んでもよいのですが、気軽に読むなら「小野佐和子「六義園の庭暮らし: 柳沢信鴻『宴遊日記』の世界」、平凡社、2017)がおすすめです。読みやすい語り口で信鴻の暮らしを生き生きと描写してくれています。

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 この写真の石組みも当時からあったものです。吉保の現役時代のような政治的な庭の使い方と異なり、身軽な楽隠居の信鴻は客の選びっぷりも趣味全開です。身分のある武士が相手でも気に入らなければ「体調が……」といって訪問を断り、かと思えば、市井の一般市民に庭を開放したりしています。この小川の辺にも茶屋があり、茶がふるまわれていました。

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 当時の客はこんな景色を見ていたのかもしれませんね。

 鄙びた山奥の風情も、州浜から大パノラマの池を眺める景色も、石と植栽を作りこみ管理する庭師なくしては成立しません。「宴遊日記」には、そんな庭師たちも描かれています。

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 写真に写っているのは、松を害虫(マツカレハ)から保護するための菰です。冬にマツカレハの幼虫を温かい菰の中に誘導して春先にこれを菰ごと焼き捨てます。梅の飾り結びが可愛らしいですね。六義園では庭師によりこのようなメンテナンスが不断に行われていました。

 庭の主役たる池も、現代テクノロジーで管理された今とは比較にならないくらい、信鴻の時代は水位の上下があったそうです。宴遊日記によれば、夏は水位が上がり冬は水位が下がるようですね。特に冬の水枯れは、池の底が見えて魚が浮いてくるほどだったらしく、家中の者をかき集めて魚を桶に移して避難させる様子が記録されています。

 宴遊日記を読んでいると、たとえ大名庭園の規模でも庭の楽しみの本質は「いじる」ことなのだなと思います。大いに技を尽くして、それが終われば荒れ果てて消える。そして残るのは名のみ。なればこそ、今尽くすべき技を惜しむな、名こそ惜しめ。やっぱり、庭という趣味は日本人によく似合っていますね。

これがほしくなった

 六義園の歴史にはもう一人、主役と呼ぶべき人がいます。
 それは、近代になって荒れるがままだった六義園を購入し、再興の立役者となった岩崎弥太郎です。いわずと知れた三菱重工の創業者で、そのルーツにある三菱汽船はこちらで紹介した氷川丸を作った日本郵船の母体でもありますね。

 実は岩崎弥太郎は「鬱を散ずる唯一の趣味」として庭いじりを好んでいたことでも有名です。庭を構成する要素として、「剪定された植栽」の人工物の趣のみならず、「石」の自然物の趣を積極的に取り入れたい、というのが岩崎弥太郎の作庭のポリシーでした。六義園でも、池の中に「臥龍石(がりょうせき)」という奇石を新たに配置しています。

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 一方私は、庭の構成要素の中では灯篭(ろうろう)や蹲(つくばい)など「添景物」に興味を惹かれます。思いっきり人工物ですね。

 そこでこんなものを作ってみました。煉瓦造りの蹲(つくばい)です。蹲とはもともと茶禅の庭などで手を清める設備ですが、実用を排して純粋な添景物として置くこともよくあります。

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 我が家の庭は基本的に洋風なので石造りの蹲では似合わないと思い、煉瓦と素焼きの鉢で構成しました。蹲の構成要素は一般に:
 ・水を張る「水鉢」、
 ・水鉢の右手前、湯桶を置く「湯桶石」、
 ・水鉢の左手前、客の手明かりを置く「手燭石」、
 ・水鉢、湯桶石、手燭石に囲まれ、手を洗った水を流す「海」、
 ・海を挟んで水鉢に正対する「前石」
 と言われています。

 写真の蹲(つくばい)は、「廃棄された煉瓦の塔の基部が形よく残っていたので、それを『湯桶石』『手燭石』に見立てました。スレートを張った素焼きの鉢を適当に置いて『水鉢』としました。石畳がよい「前石」になるでしょう」という体の見立てです。完全にゴッコ遊びです。もちろん煉瓦は自分で並べました。
 プランニングとしては、写真右方向に露地があり、蹲で水を使って写真左方向の待合に抜けるという流れですね。

 我ながらなかなか挑戦的な洋風翻案だと思いますがいかがでしょうか。蹲は自由度の高い構成物ですが、ここまで大胆なものはあまり見たことがない気がします。気に入らなくなれば、すぐに解体してほかに転用できるのも長所だと思っています。

 この蹲は、我が家を訪れる動物たちに大人気で、冬は鉢の中で野良猫が丸まって暖をとり、春先はスズメやヒタギが煉瓦の上にとまっています。安直な感想で恐縮ですが、四季を大いに愛でられる庭というのは、大きくても小さくても実に楽しいものですね。


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