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星と若が君を変えるはず。

起きると誰も居なかった。一階にも二階にも、家族は居なかった。リビングに降りると置手紙があって、母親が冗談交じりに僕にメッセージを残しているのを見つける。「おひるカレー食べなはれ」と記されているその置手紙は、僕がこの家に暮らしている時と変わらない文章だった。

毎日日記を書いていると、自分の行動を大きく見てしまうようになる。朝起きて、何を食べて、何かを読んで、お風呂に入って、寝て、というサイクルは、読んでいる人の想像力の範囲に収まるもので、せっかく日記を書いているのにも関わらず、日記の良さを潰しているような感覚になる。もっと細かいことを書いてもいいんだろうな、と自分の日記を読み返して思う。他人から見て、この文章はどう見えてるんだろうな、と考える。日記を投稿してしばらくすると、どこぞの誰かが僕の日記の投稿にいいねを押して去っていく。どこが良かったのかを聴いて回りたいが、匿名さがそれを阻む。ハートの数だけが増えていく。

今日僕は実家から今暮らしている家に帰る。19時半くらいに父親が車で送迎してくれる予定になっていて、起床したのが12時くらいだったから、ある程度時間がある。そのある程度の時間の中でこれを書いている。起きてしばらくは、カレーを食べた後に本を読んでいたけれど、その本を読めない、という事に気づいてしまって、読むことを諦めた。読めないというのは、受け入れられない、みたいな意味だ。面白いはずなのに、面白いを文章の中から発見することが出来なくなっていた。どうしてだろう、とは思いつつも、無理やりこの本は今読むべき本ではない、という結論を付ける。パラパラと、読む予定だったはずの文章を眺めながら、こんなにも文字があるのにそれを許容できない自分が居てしまうことに変な気分になる。読んでいる本を諦めるという選択肢が自分の中に入れてしまったのはいつからだろう。

読む本を諦めてしまうと、したいことが無くなってしまって、ちょっと呆然とする。眠くもないし、何かを食べたくもないし、欲求が身体の中から蠢いてこない。寒くも暑くもなくて、体に痛いところも無くて、何をする気にもならない。風邪を引けば、転んでしまえば、辛い思いの代わりに、身体の存在を実感することが出来る。反対に、風邪をひかなければ、転ばなければ、身体の存在を掴むことはできない。この状況から脱したいわけじゃない。嫌悪感があるわけでもない。でも、なんか違うなあ、と心の底のどこかで考える。身体が空っぽのような気分だ。無色透明な身体が生きていると思ってしまう。「そんなことする人に見えなかったのに……」という人が罪を犯したり命を絶ったりする時の心境はこういう心境なんだろうな、と思う。「あーーー、別にいいかあ」みたいな心なんだろうな、と。

日記を書くようになると、日々の行動の範囲が拡大する。書く前にはしていないような行動をするようになる。「ちょっと外に出かけたい」という思いが生まれ、「そういえばあそこにあれあったな」という気持ちに変わり、「これにお金を使ってみよう」という風に移り変わっていく。端的に心の発想力が伸びていくような感覚があって、世界の歩き方を一から学びなおしているような気分だ。

でも、そのしなやかに伸びていく感覚は、本来の性格ではなくて、日記を書くようになって無理やり伸ばしているものなんだろうな、と思う。強制的な施術なんだろう。本来の自分からは離れた行動なんだろう。だからこそ、こういう今日みたいな、何もない日になると、本来の自分がひょこっと顔を出す。本来の自分は発想力とか無邪気さがやや欠けていて、突如の行動とかは出来ないような人間なんだという事を実感する。

別にその本来の自分に萎えてるとか憂いてるみたいな気持ちは全くなくて、僕自身の事は十分愛しているし、受け入れられている。でも時々こういう、「無理やり何かをやろうとした日」と「そういえば何もない日」というギャップのある日々を過ごすと、「自分はこういう人間なんだな」と思い返してしまう。別に本当に落ち込んでいるわけではないんだけれど、空いた身体にそういう思いが入り込んできてしまった。

この気持ちをため込んでいたら、もしかしたら良くないかもしれない、と思って、吐き出すために文章で吐き出している。簡単に言えば、早期のがんを発見したから安心したみたいな気分だ。だから落ち込んではいない。本当に。それに、明日は最高友達と最高予定があるので、明日を生きない理由がないわけでもない。それはめっちゃ楽しみだし、ウキウキしている。本当に。ネガティブな文章を書いているけど、全然大丈夫。

けれど、「落ち込む」という気持ちには、詰まっているものがいっぱいになってしまったり、存在しているものが欠けてしまったりすることで発生するものだと思っていた。でも、今日の僕はそうではなくて、「何もないから生まれる落ち込み」も存在するんだという事を発見した。「空っぽ」が「存在する」という主語述語の関係もこの世の中にはあるんだ。僕が今後に人生で対面していく悩みというのは、こちらなんだろう。直感的にそう思うし、多分当たっている。

ここまで考えて、悩み続きの人生に飽き飽きしてくる。最近は悩みが無くなったと思っていたのだけれど、やっぱり悩みは生まれてきた。この悩みは、どうしたらいいんだろうかと、さらに悩む。

人生は分かりにくい悩みが増えていくもので、執念と諦念のバランスがそれを支えている。根性と脱力を使いこなすことが、人生の虎の巻なんだろう。クソが!!!と思ったり、まあそっかあ……と思ったり、毎日無意識の決断をし続けるのだろう。

しかし、「こんな感情ってこの世にあるんだ」という驚きが連続していく人生には道標は存在しない。どうすればいいかの指令は下らない。

でも、最近気づいたけれど、人生にはマリオカートでいうゴーストみたいなものは存在するのだ。マリオカートのゴーストとは、敵がいない、ただタイムを競うモードで、過去のレースの走者が半透明になって走るのだ。同じコースを走っているが、何も言わない。干渉しない。触れない。ただ早く、がむしゃらに走っている半透明のゴースト。その走り方を追いながら、技術を学んでいくのだ。

今僕が抱えている悩みは僕だけのもので、財産だ。だから誰にもこの悩みを譲らないし、あげない。奪わせない。だから一緒に悩みを共有したり、渡したりもしない。でも、似たような悩みを持った先人たちは存在する。その先人の悩みは僕から奪ったわけでは無くて、その人が抱えているその人の悩みだ。その先人こそが僕の人生というマリオカートのゴーストで、僕はそれを端から見ることが出来る。勝手に見て、勝手に考えて、勝手に解決していくのだ。そうやって悩みを晴らすことが出来るのだ。

個人的な話にはなるけど、僕の人生のゴーストはいろいろなところにいる。

あの日、武道館に僕のゴーストは居た。武道館のど真ん中で握手をする二人は、照れくさそうにしていた。「始めようか、武道館」と言われて、歓声を上げた。Welcomeと迎え入れられた世界に飛び込んだ。

あの日、東京ドームにも僕のゴーストは居た。東京ドームで僕の人生のゴーストは余裕で花道を散歩していた。「星と若が君を変えるはず」と言われて、否定したくなった。「はず」なんて語尾では片付かないほどに、僕は変わっているのだ。

あなたのゴーストも、僕みたいに至る所にいるんだろう。

ゴーストの目的は、その走りぶりを見て、さらにタイムを更新することだ。僕はそのゴーストを見て、悩みを消していく。追い越していく。ゴーストを追い越せば、画面には自分しかいない。自分だけが中心にいる。そして、いつの間にか自分もゴーストに生まれ変わっていく。僕のゴーストたちは今日も走っていて、僕も走り続けている。いつかそのゴーストと並び、ファイナルラップまで走りきるまでは生き続けなくちゃいけないもんなのだ。

あなたのゴーストも、僕のゴーストのように走り続けているんだろうと思います。いつか並べる日を願って、追い越せる日を願って、単なるワンシーンの毎日と悩みを引きずりながら、日々を張り切っていきましょう。


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