国の起源をおとぎ話で説明しても愛国心は芽生えない Ver. 1.3

Ver. 1.3:  加筆修正しました。
Ver. 1.2:1  細かい修正を加えました。
Ver. 1.2:  文末に傍証、壹与を追記しました。細かい修正を加えました。
Ver. 1.1:  イコク部分について改変しました。


国を愛していると自認する人でも、わが国の起源をきちんと史実として話せる方っていますか?

日本国の正史とされる「日本書紀」によると、神代と言う事になっていますが、実際には皇紀2600年と言うくらいだから、せいぜい紀元前600年頃、中国では秦の始皇帝が統一する数百年前の春秋時代、群雄が割拠していた時代、我が国には神がいたらしいのです。

日本の歴史書、古事記や日本書紀では国の起源は神話として描かれており、
ある程度信用できる記述となると、神武天皇が建国したとする時期からおよそ1400年後の紀元後800年頃、桓武天皇の9世紀頃の次の史書にならないと、信頼できる記述は多くありません。正しい起源や史実を知る人など、この国には誰一人いないはずです。皇室を含め、真実を知る人はいないと思われます。

古事記や日本書紀の国の起源を記している部分は、神話、創作話しかなく、事実を基にしている部分はあるものの、真実ではありません。
その理由として、領土など真実を言えば国益を損なう恐れや歴史を書き直す必要があるからです。
残念ながら、重要な国の起源や、建国の史実を物語でしか語れず、おとぎ話をいい大人が信じるしかないのが現実なのです。

作り話で国の起源を説明されて、本当に国を愛し、誇りを持って良い国にしようと思えるのでしょうか?国益を損なわず、真実を知る方法は無いものでしょうか。

例えば、日本人なら誰でも「邪馬壹国」を知らない人はいないでしょう。
でも、本当に知っていますか?

これを「ヤマタイコク」と読んだ人は失格です。
「ヤマトコク」でも駄目です。

正解は「ヤマイ(チ)コク」です。
「ヤマタイコク、ヤマトコク」なら、「台」の旧字体は「臺」であり、「壱」の旧字体「壹」はこれとよく似ています。『三国志』魏書東夷伝倭人条の現存する写本では「壹」(壱)となっています。

写本を作る際に誤って「壹」とし、本来は「臺」(台)である、
とするのが現在の日本での通説ですが、証拠はありません。
状況証拠すら信じるに足るものはありません。

むしろ僕は「壹(イ・イチ)」のほうが正しく「ヤマイ(チ)コク」だったのではと考えている者です。その理由は色々とあるのですが、通説である、「ヤマタイコク」、「ヤマトコク」は「台」をタイ、トと読みむのは、倭人伝の写本を作成した際に誤って邪馬「臺」国にしてしまい、ヤマタイコク、ヤマトコクと読んだのを国名としたと考えています。大倭をヤマトだから、倭を良字の和に代えて大和をヤマトと読んだのでしょう。中国史書では「倭」と「日本」は別種であると明記しており、確かに大和日本政権への移行については未だに明確になっていない。後の5世紀に成立した晉書では、写本の誤記が正しい字と誤解され、邪馬「臺」国が一般に使用されるようになり、以降疑問に思う人がいなかったと思われます。

整理すると、そもそも「ヤマイ(チ)」で正しかったものを、「壹(壱)」と「臺(台)」が似ていたので、「臺」に誤写してしまった。台なら「ト、タイ」と読むからヤマト、ヤマタイとなった。それが後に近畿新政権日本が誕生した際に、その地奈良周辺をヤマトと呼んだ。大倭から大和の漢字を当ててヤマトと読ませた。

また、そもそも57年の金印には国名は無く、単に漢が、「やっこの国の王として委ねた」とだけ彫ってあった。「倭」の文字は無く、それを魏志倭人伝の陳寿らが「委」は国名であり、「倭」の文字に替え、「奴国」も作ってしまった。おそらく57年当時から魏志倭人伝が完成するまでは国名が無かった可能性がある。後の人が魏志倭人伝を見て、「倭国」がずっと存在したと勘違いしたと考えられる。

なぜ「ヤマイ(チ)コク」説を支持するかと言うと、北部九州には現在でも「耶馬」、「壱岐」が存在するから。「一支、壱岐」は一の分岐国あるいは島、即ち「一(壱)国との境界の国」と解す事ができる。現在も壱岐は島として存在し、倭人伝にも一大国として登場している(大と支に似た字であり、誤写の可能性がある)。博多の北部の海上の島であり、その先は対馬、その先は現在の釜山、当時の狗邪韓国がある。当時は狗邪韓国までが倭だったとする説もあるが、壱岐、対馬、狗邪韓国辺りが国境だったと思われる。この「一支国と邪馬国」の連合国が「邪馬壹国」だった可能性がある。

そうするとこの「一国」あるいは「壱国」とは何だろう。一支国の手前に「一国」があった事になる。倭人伝では博多付近には「奴」国があるとしている。その付近に「伊都国」がある。これを僕は「イ(委・倭)と言う国があって、(委・倭・伊)都(奴)国と中国が呼び、その後倭人伝では伊都国と奴国になった」と解している。志賀島の金印には漢委奴國王とあるのでこれが伊・倭、都・奴国と読める。「一」は「イあるいはイチ」と読める。その北の海上に有り、対馬方面との境界だからその島は「一支国」と言う。市杵島媛(イチキシマヒメ)の伝説もある。

「伊国」、「一国」、「壱国」、「壹国」、「委国」、「倭国」が見つかった。どれも「イ国」と読める。こうなってくると、「倭国」を「ワコク」と読んだのかどうかも怪しくなる。本当は「イコク」だったはず。「委」を「倭」に替えて記述した事で、後に国名が「倭」となってしまった。

「邪馬」に関しても現在の大分県宇佐市近辺に「耶馬」の地名が残る。近隣の宇佐神宮は左に八幡大神、中央に比売大神、右に神功皇后を祀る。比売とは卑弥の原型とも言われ一般名詞の姫、日女、日霊女等と言われ、ここが宗廟である可能性があると言われている。

と言う事で「邪馬国」と「壹国」、これらは本来「山」と「一」であるものを中国に悪字を当てられたような気がしますが、証拠はないのでここではスルーします。とにかく、「山一国」あるいは「邪馬壹国」の連合軍を証明する、一仮説ができました。似たような説はありますが、この説と同じ説を唱えている人を知りません。もし同じ説を唱えている方がいるようなら嬉しいです。別々に考えて同じ説を唱える方が多いなら、それは真実に近いと思えるからです。

もし「ヤマタイ、ヤマト」が正しいなら、「ヤマタイ」や「ヤマト」とは何なのだろう?「8つの的だから八的」などの説があるがどうもしっくり来ないこじつけのような話しかない。8つの的の国って何なんだ?

因みにこれらの一部は中国史書には記載されているものの、日本の正史には一切記録がありません。それはなぜか。それは記紀を編纂した人達の時代の王家と「山一国」の人には関係が無かったか、関係が薄かったからだと思われます。「万世一系」の建前が崩れてしまうからです。

そんな事で、今、日本は国を本当に愛している人が少ないと思われます。
敗戦の影響でアメリカの犬に成らざるを得ず、隣の国の変な宗教にも集票で釣られて言いなりにされています。国の本当の起源や歴史を知らずして、誇りを持った国民など存在できるはずがありません。神や仏をミソもクソも一緒に祀るような出鱈目さを大らかさと解釈し、お茶を濁してうまくやっていくしかないのです。
国民は堂々と誇りを持って生きたいのですが

僕らは嘘を言う必要など、どこにも無いのです。
真の歴史を学ぶ大切さを考えましょう。

追記
臺(台、ト)ではなく壹(壱、イ)である傍証

卑弥呼の後継者として十三歳の女性が立ったが、これを通説では台与と書き、トヨと読ませる。実はこれも魏志倭人伝中では「壹與(イヨ)」、後代の書である『梁書倭国伝』『北史倭国伝』では「臺與(トヨ)」と記述されている。「台与」は「臺與」の代用表記であり、「壱与」は「壹與」の新字体表記である。

これもなぜか古い元の史料では「壹與(イヨ)」で、後に「臺與(トヨ)」にされている。これは恐らく、後に日本ではヤマトになっていたので、中国史書もそれに習ったのだろう。

原文を勝手に間違いと解釈して「イヨ」を「トヨ」に変えてしまった。「ヤマイコク」を「ヤマトコク」に変えてしまったように。

「イヨ」の場合だと、壱岐や宗像三女神、イチキシマヒメとの整合性もある。「耶馬国」の東には「伊予」が現在も愛媛県として存在する。宇佐神宮の大分県とは狭い海峡を挟んて隣接しているので、卑弥呼の後継者「イヨ」と無関係ではないだろう。

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