長谷川の謎 (なぜ「はせがわ」と読ませる?)Ver. 1.2

長谷川と書いて「はせがわ」と読む。これは知らなければ読めない。なぜそう読むのだろうと思った人は多いはず。調べてみた。

僕の知り合いに平野さんと言う人がいた。この人は理由は知らないが別名が有り(たぶん離婚した両親の名字)、もう一つは堀井と言う。身長が190センチ近く有る日本人離れした体格だった。しかし体重は60キロそこそこと言う細身の人だった。そしてその顔立ちもまた日本人離れしていた。やはりどちらかと言うと大陸系、半島系の顔立ちだった。これがその長谷川とも関係している。

この長谷川(ながたにがわ)とは奈良県、大阪府を流れる、現在の大和川の事だ。大和川の上流部分を初瀬川と呼ぶ。そこは欽明天皇の磯城の宮や雄略天皇(実在は不明)の泊瀬朝倉宮、武烈天皇の泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)がある。

大泊瀬幼武天皇とは雄略天皇の事であり、この時代は倭の五王時代であり、雄略はこの倭の五王の讃、珍、済、興、武の誰かの時代に当たる。諱から武ではないかと言われる事が多い。雄略は作られた皇統での名称であり、実在性はほぼ無い。実在した倭王武の足跡を雄略に当てはめたと考えるのが妥当だろう。

この泊瀬は「はつせ」と読み、初瀬の由来だ。だから元は泊瀬だった。そしてまたその元の読みは「はくせ」だったと思われる。「はくせ」は日本語の読みとしては読みにくい。これが次第に「はくせ」から「はっせ」、「はせ」と音韻変化するのは自然な流れだろう。

するとこの「はくせ」とは何なのか?これは「泊瀬」の「泊」からさんずいを削除した「白」、それで「白瀬」。「瀬」は浅い流れ、浅い川の事。これは分かる。残るは「白」の正体。これは歴史の中では頻出する逆字や変字(いずれも造語)。歴史を変形した時に地名や古くからの名称の漢字を逆に並べたり、変形したりするもの。「白」は「百」の変形と言われる。これで答が出る。

「百瀬」、「百川」は「百済川」、「くだらがわ」の事だった。

コトバンクで「百済川」を調べてみると、

[一]大和川支流の平野の古名。大阪市の東南部を流れる。
[二] 曾我川上流の重阪(へいさか)川のこと。奈良県御所(ごせ)市を流れる。 

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について

くだら‐がわ〔‐がは〕【百済川】
奈良盆地中部を流れる曽我そが川の古称

デジタル大辞泉「百済川」の解説

ここまで調べてWikipediaに長谷川があった。

「長谷川」を「はせがわ」と読む理由はその発祥にある。歴史を遡れば古墳時代にまで遡り、当時日本の政治の中心地であった大和国(現在の奈良県)にあった初瀬はつせ)という地名が「長谷川」の由来である[1]。当時の日本では、陸上の路があまり整備されておらず、「運送」(物の運搬)と言うと水運(船による運送)が主力だったわけであるが、当時「はつせ」という言葉には、「船着場(船の発着場)」という意味があり、「はつせ」という言葉に当てる漢字としては、初瀬、泊瀬[2]、発瀬、などがあった。
「瀬(せ)」とは「(川の)水深が浅くなった場所」などという意味で、「初瀬」と名付けられた大和国にあるこの場所は、大和川が東から大和盆地に流れ下る場所にあたり、この地に都を置いた天皇貴族、昔から住んでいた豪族たちにとってこの地を流れる川付近の場所はいわば 水運のための「船着場」であったので「はつせ」と名付けられたのである。この地には「はつせがわ」「初瀬川」という川が流れていた[1]が、むしろこの地を流れる川を船着場として使うようになったので、ある時から「はつせがわ」つまり現代風に言うと「船着場 - 川」という意味の言葉で呼ぶようになった、と言ったほうがよい。なお前述のように「はつせ」に当てる漢字は数種類あったので、「はつせ がわ」に漢字を当てる方法は実際にはいくつかあり、(あくまで)そのひとつが「初瀬川」であった。
この川「はつせがわ」は長い谷の中を流れていたので、いつしか「長谷」という漢字を「はつせ」の当て字とするようになった[1]。そして、やがて「はつせ」の「つ」が省略されて発音されなくなり、「はせがわ」となったとされる[1]
異説もあり、初瀬とは別に「長谷(はせ)」という地名があり「長谷の発瀬川(はせのはつせがわ)」という呼称が出来[1]、それが縮まって「長谷川(はせがわ)」となった、とする説もある[1]

Wikipedia

まあまあ、当たらずとも遠からずと言う所か。

それで知り合いの平野さん。もう一つの名が堀井さん。これもWikipediaに興味深い資料を見つけた。

和気清麻呂の工事
律令制制定以降もたびたび大和川流域一帯で護岸工事が行われ、『続日本紀』巻第三十の記述によると、弓削道鏡による西京建設と前後して、神護景雲4年7月(770年)、河内国志紀郡渋川郡茨田郡付近の護岸工事がのべ3万人余りの労力で行われたとある[3]
その後、『続紀』巻第三十九によると、延暦7年(788年)ごろに和気清麻呂により河内川(現在の平野川)を西へ分流させるべく本格的な流路変更が試みられた。のべ23万人の労力で現在の四天王寺の南付近を掘削する工事が行われたが[4]上町台地の高さの前に挫折した。現在の天王寺区阿倍野区の地名である「堀越」「北河掘町」「南河堀町」「堀越神社」などの名はこの工事が由来していると言われている。

Wikipedia

平野川は大和川の支流であり、地名に「堀」が付く事が多いらしいから「平野」も「堀井」もやはりこの周辺の名前なのだろう。平野さんが堀井の名を使う事情も少し見えた。

そしてあの大柄な風体の謎も。

いろんな事があっと言う間に分かってくる。ネット時代。

曽我川と言うのもきになるなあ。歴史上、逆賊と扱われる蘇我氏は大王家だった時代もあると言う説もある。日本の大王家は一つでは無かった説。百済が長谷川、泊瀬、平野と関わっているのも偶然では無さそう。

これは書く機会があればまた。
白は新羅でもあるし、高句麗でもある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?