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「身近にあった死」の話

母が倒れたのは今から10年前。私が中学3年の、とある初夏の日の夕時だった。


―さき。
―みさき。
名前をはっきりと呼ばれて目が覚めた。
その日は午前授業で、帰宅した私は体操着のまま、2階の自室で転寝していた。
開けた網戸から初夏の風と、夏の予感を孕んだ陽が差し込んでいた。寝起き特有の勃起した乳首が体操着に擦れて痛い。
夢見が悪かった。凛として時雨の「Telecastic fake show」をBGMに、父が若い女を殺していて、それを金網越しにみる夢だった。水が飲みたい。じっとりと嫌な汗で濡れた腋を体操服で拭って、階段を下りた。
台所の隣の居間で母が横になっていた。パートをいくつか掛け持ちしていた母は、仕事の合間に横になっていることが多かったが、その時は明らかに様子がおかしかった。
みさき、みさき、とか細い声で名前を呼ばれているのに気づいて近づくと、額に脂汗を浮かべて苦しそうに喘いでいる。どうしたの、大丈夫?。声をかけてもはあ、はあ、と呼吸が返ってくるだけで、気が動転した私は台所から水を汲んで枕元に置いた。
一瞬で、明日から修学旅行なのに何の用意もしてなくてごめんなさい、受験生なのに数学の課題まともに手をつけてなくてごめんなさい、そのほか、たくさんのこと、ごめんなさい…。と心の中で謝った。ごめんなさい、全部頑張るから、ごめんなさい。
母がきゅうきゅうしゃ…と呻いた。慌てて固定電話を掴んだ。ええと、なんだっけ?泣きそうになりながら母を見たら、119…と口が動いた。バカな私は110番と119番の区別も咄嗟につかなかった。
住所を告げて電話が切れて、近くに一人暮らししている姉を呼ぶように指示された。電話に出た姉はあきらかに不機嫌そうに「ナニ」と短く言った。
お母さんが倒れて、それで、救急車でね。喉が震えて上手くしゃべれなかったけれど、察した姉はバイクで飛んできた。
救急隊員が到着して、私と姉も救急車に乗り込んだ。ブラジャーをつける暇もなかった。
涙がどばどば溢れてきて、眼鏡の蔓がずるずる滑った。喉と、頭の両端をずーっと締め付けられているような感じがずっと続いて苦しかった。

母は急性心筋梗塞とのことだった。いきなり血管が裂けたらしい。病院の待合室で私と姉は緊急手術が終わるのを待った。姉が連絡して、会社から父が、大阪から新幹線で祖母が駆け付けた。父は憔悴しきった顔で、自販機の焼きおにぎりを渡してくれた。硬くてぽそぽそして、2口目は食べられなかった。
私は乳首が浮かないようにずっと背中を丸めて、合皮のソファで項垂れていた。その間ずっと、「Telecastic fake show」が頭の中に流れていた。君のなまえなんだっけ。だんだんわからなくなって。そのフレーズだけがぐるぐるぐるぐる渦巻いている。吐きそうだった。
当時思春期だった私は、日本で起きた凶悪犯罪についてよく調べていた。調べていたといっても、気が向いた時にウィキペディアなどで検索して残忍な行為に背筋を凍らせるだけだ。自分では「うひゃあ」と面白がっている気はなく、「こういう事もしっておかなきゃネ」と思っていたのだけれど、今思えば完全に野次馬根性というか、他人事だからこそ味わえるゾクゾク感で遊んでいただけだ。

死を他人事だと思っていた。まさか身内が、それも一番近しいところで生きる母が、西成育ちの大阪女で、殺しても死ななそうだと思っていた母が、今まさにすぐ隣の治療室で生死を彷徨っているなんて。
ずず。離れて座っていた姉の方から鼻を啜る音が聞こえた。フィリピン人の様な顔をした姉の真顔は迫力がある。口をへの字に曲げて、斜め下あたりを睨みつけながら、デカすぎる目から静かに涙を流していた。
家を出る前は毎日のように癇癪をおこしては、そばめしやハサミやペットボトルを母に投げつけてきた女でも、泣くんだ。と思った。こいつが静かに泣くのを初めて見た。

結局そこから5時間ほど、私達姉妹と父と祖母は母の手術が終わるのを静かに待っていた。


10年経った今。
「あの時、お母さんに呼ばれた気がするんよ」と言うと、血管にカテーテルをいれてすっかり元気な母は「ああ、その話ね」と茶をすすりながら笑う。
「2階で絶対聞こえるわけないのになあ。でも、神さんはいるんやね。あの時死ぬべきじゃなかったから、美咲を起こして助けてくれたんやろうね」
助けてもらった命やから大事にせなねえ。ははは。冗談っぽく言う母に、うんうんと私は頷く。

神様がいるかは分からないけれど、もし仮にいたとしたら、あの時母が私を呼ぶ声を届けてくれたのも、胸糞悪い夢を見て水が飲みたくなったのも、全て神様の采配なのだろう。
ひとでなしだと思っていた姉が静かに泣くのを見て、死は人を変えるんだ、と思った。人の死をきっかけに、昨日までの人生がガラリと変わることもある。
私の価値観も変わった。出会う人たちに「明日、この人が死んだらどうしよう」と思うようになった。そうすることで緊張感が生まれて、人を傷つけたくなくなった。死んだあとで、ごめんなさい、と謝りたくないから、出来る限り誠実に接したいと思う。これがなかなか難しいから、いつも誠実とはまだまだいえないけれど。
私が死んだとき、あるいは死にかけたとき、悲しみや喪失感の先により良い変化がありますように。それは私以外の人にも言えること。
その為にまず、「惜しい人を亡くした」と大いなる喪失感を感じてもらえるイイ女にならなくては、と、ひそかに決意したりしている。

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