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生放送でのデマ中傷までの流れ

前回からの続き。
2016年春に小林よしのり関連の読み物の購読をやめ、そののち、ゴー宣道場に参加したことの反省などを個人ブログにまとめることにした。

2017年当時、私のアメブロは一般公開しているものの閲覧していたのはごく身近な知り合いのみだった。
別に名のあるブロガーではないのだから、アクセス数なんて基本2桁で、更新が途絶えれば1桁台などザラであった。
名もなき一般人がそこで何を書こうが世間に響くわけはないし、だからこそ極私的な日記の感覚で単なる内省として自らの黒歴史を綴ったわけである。

小林よしのりライジングのコメント欄に投稿していた内容を元にかつての自分を振り返り、現状思うことなどをつらつらと書いているだけのものであり、他人が読むという配慮がないために説明不足甚だしく、小林よしのりやゴー宣道場に関する内容であるなどと第三者が理解することはまず不可能だと断言出来る。

「ネット空間は味噌も糞も同じ桶に混ぜ込んでいるようなものだから、ちゃんと見極めて味噌を掬ったつもりでも必ず糞がブレンドされているに違いない。ネットと上手に付き合おうと言いながら、糞汁を啜って、美味い美味いと唸っているのがネット食通なのだと思う。」
「本質的なことを語ろうとしても、末梢的なことで揚げ足を取ろうと躍起になるのがネット空間という荒野。絶望的に荒れ果てた地平を歩んでゆく。」
「あの場所は今や、自分の言動を正当化する理屈のみを考え、自分にとって心地の良い肯定的な意見や賛美のみを求め、反対者には悪罵を投げつけては嘲笑するという状態にまで転落しています。そのような人々に届く言葉を私は持ち合わせてはいません。」

「当時の私としては、この乱暴で大雑把な意見を叩き台にして、優れた意見を聞けたら良いなと思っていたのですが、悲しいかな返ってくるのは罵倒のみでした。何ら実りある議論など出来ゃしません。まるで悪鬼羅刹のパワースポットです。」
「当時も息苦しいと感じていましたが、おそらく他のどんな場所よりも狭苦しい空間であるとしか言いようがないほどの閉鎖的なコミュニティぶりに眩暈がしました。」

「自分がギャグだと思っている戯れ言がどんズベりしている事に気付いていない有り様はクソ寒いにもほどがある。笑いのセンスのない奴のウケ狙いほど寒々しいものはない。何しろ、センスのない馬鹿はウケを狙うべき時とマジに語るべき時の判断が出来ないから空気が凍るのだ。笑いのセンスがある者は、しっかりと笑いを取りながらも論じるべきところは論じ、疑義を呈されたことに対してもユーモアを交えながらキチンと応える。」
「互いの意見が対立した問題について、相手側が真剣な態度で疑義を呈しているのに対して、ひたすらに茶化して、舌を出して屁をかませば、自分が優位に立っていると思い込める幼稚さは目も当てられない。自分の主張を手放しで「いいね!」と首肯してくれる奴に対しては、どんな腐れた差別主義者だろうが両手を広げて迎え入れ、少しでも意見が違う人に対しては敵意を剥き出しにして嘲りながら信用ならない者であるかのように印象操作して言葉を奪う。」
「まったく違う人について書いたことでしたが、今やこの文章を投稿した先の主催者にすべて当てはまってしまっているから人生って不思議なものですね。」
「一方で「発表された作品を読まずに批判するな」と言いながら、しっかり熟読した上で疑問点を指摘してくる者に対して「やれやれ読解力のないストーカーが粘着してきて困ったもんだ」と言って嘲笑し、犬笛を吹いて支持者をけしかけるさまを見た時は唖然としたものです。」

「インターネットにはさまざまな功罪があります。その一つに「可視化」があります。
あらゆるものが可視化されてしまうと色々と世知辛くなる面も息苦しくなる面も大いにあります。しかし可視化されたことで今までは泣き寝入りしていたような案件が糾弾されたり立件されたりしているので一概に悪いこととはいえません。
可視化されていなかった時代には誤魔化しが利いていたものの化けの皮が、最近はべろべろに剥がされていて痛快でさえあります。
可視化されたことに狼狽し、言っていることの一貫性を失い、右往左往して後付けの言い訳を繰り返すという浅ましさを露わにしてしまう人まで出てくる始末です。その主張そのものよりも、その場しのぎの振る舞いの見苦しさに幻滅してしまいます。」

上に貼ったブログ記事を幾つか投稿していたところ、奇妙なことが起きた。
小林よしのりがまるでそれらのブログ記事へエアリプしているかのような反応を示したのである。小林はゴー宣道場サイトの公式ブログで、主語もないまま私の記事を当てこするような内容のものを書き始めた。
その小林ブログについて当初は偶然だろうと思った。そりゃ当然の話で、名もなき一般人が個人ブログで特に名指ししたわけでもなく、ポエティックな文章を公開しただけで、著名なマンガ家が怒りに震えて脊髄反射するなど考えられないことだろう。
であるものの、あまりにもその偶然が重なるので、ものの試しに小林のブログ記事や連載中のマンガなどへ軽いツッコミを入れるブログを始めてみた。無論のこと小林よしのり宛てであると明記しないままで書いてみた。

「プロの物書きが、ネット記事を丸写しして最後にチロッと愚にもつかない自説を書いた文章で購読料を徴収するという浅ましい商売をしているのを最近よく目にします。ああいうことをやり始めたらもう作家としてはおしまいですよね。
せめて引用元を明記するなり、リンクを貼るなりしなくちゃいけないと思うのですが、それすらせずに語尾や接続詞を変え、元の記事を多少いじくっただけでは、そりゃほぼ記事の盗用だろうと思うのですが、私などとは倫理観が違うのでしょうか、恬として恥じず得意顔です。」

「週刊誌に掲載されていたマンガには次のような記述がありました。
「これは、いざという時に、必ず逃げる男を、どう正当化するか? という話だ!  コペル君は2回も友達を見捨てて逃げ、それでも正当化され、称賛され、許される。そんな虫のいい話を描いている本が200万部以上の大ヒットなのだ。 」
果たして「公論おじさん」は本当に本作を読んだのでしょうか? もしかしたら、間違って主人公コペル君を二次創作した同人誌でも読んだのではないでしょうか。
普通に読めば誤読のしようがないほどにテーマは明瞭です。おそらく読んだ人の十人が十人、「いざとなったら、戦う勇気なんて要らない、傍観して言い訳を考えていればよい」という内容であったなんて思わないでしょう。そんなコペルニクス的転回をする馬鹿は「公論おじさん」以外には存在しないのではないでしょうか。」

「文章にはその人のクセが出ます。長く読み続けている人の文章はどんなに表現法に変化をつけてもすぐに分かります。他人がどんなに文体を真似て代筆しても気付きます。」
「さて、私はある作家がスタッフをゴーストにしていることに触れました。」
「作家本人の作品が読みたくて定期購読したにも関わらず、海のものとも山のものとも分からない何も成し遂げたこともないどこの馬の骨とも分からないスットコドッコイに過ぎないスタッフの駄文が送信されてくる」

このように書いていたところ、小林よしのりは2018年8月21日に放送したネット配信で、私の批判について唐突に話題にし、驚くべきことに私の妻の素行についてデマを吹聴して誹謗中傷した。
その内容は未だにニコニコ動画で公開され続けている。

呆れたことに私のアメブロでの批判を熟読していた小林よしのりは、その批判内容については一切反論せずに私の妻に関して取り返しのつかないデマを流して中傷したのだ。
一応は著名である思想家気取りのマンガ家が反論の術を持たない一般人についてデマを流して萎縮させ、口封じを図ったのだから卑劣極まりない。

噂の眞相がやった手口を模倣する小林よしのり

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