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憑き物落とし

どうしても宗教に関してはマイナスイメージがあった。よく言われるのは、オウム真理教の事件によって新興宗教、ひいては宗教全般に対してそのようなイメージが付いたということだ。

宗教について、じっくり考えることも勉強することもなかったのだが、宗教の役割について思う機会があったので書こうと思う。

今回は少しキリスト教的話が入ってくるが、その信仰や教義についての話ではない。あくまで宗教の役割を考えるきっかけであるので、キリスト教(含む宗教全般)に詳しい方から見て文言や解釈には違和感があったら許してほしい。

また今回のお話は、プライベートの話が入るのでややぼかしたり、直接体験していない部分は想像で補っている。(ちょっと重いです)


僕の妻が妊娠中の話である。

僕たちは20代半ばで結婚し、子供も欲しかったのだが、なかなかできなかった。そして、不妊治療の所謂ステップ2である人工授精まで進み、幸運にも妊娠できた。ここまで途中の中断期間も含めて約2年。

そして、妊娠を喜んだのも束の間、激しいつわり期間が来た。つわりは病気ではない且つ個人差もあるとのことから、仕事は休めない。(妊娠悪阻であれば、診断書が出るらしい)

ようやくつわりも落ち着いて、ひと段落したところで切迫早産の診断が下った。簡単に言うと、早産のリスクが高い状態なので、入院して安静にしてください、と言う事である。

安静といっても寝ているだけではない、切迫早産の深刻度にもよるのだが、張り止め薬を点滴で常時入れ続ける。個人差もあるが、張り止め薬の副作用はかなりきつい。しかし、それでもお腹の張りは収まらず、マグセントという強い張り止め薬を体が許容できるぎりぎりまで点滴することになった。

張り止め薬を増やすと一時的には張り収まるが、副作用の倦怠感や痛みが消える頃にはまたお腹の張りは再発する。これ以上は打ち手も無いところまで来ると、妻は自分を責めるようになってしまった。

薬の量を増やしても良くならない症状に対する焦りや怒り。これ以上、自分が頑張れることが無いことに対する無力感。そして、早産となってしまった場合の赤ちゃんへの影響とその責任を自分の無力さに求めていたのだと思う。(もちろん、妻のせいではない)

僕も毎日の病院通いのなかでは、妻の感情を受け止めて緩和できるようにしたかったが、手を握って話を聞くか、昔や今後の明るい話をして現実から目を逸らそうとすることくらいしかできなかった。

僕らの入院していた病院は、キリスト教系でチャプレンがいた。看護師さんからおすすめもあり、チャプレンとの面談ができるということで、妻はチャプレンと話すことになった。

チャプレンとの面談で妻は、「どれだけ頑張って耐えても、症状が改善しないことに対する無力感」、「自分のせいで赤ちゃんが早産のリスクにさらされている」、「赤ちゃんに障害が残ったりしたら自分のせいだ」、「お腹が張るのが怖くて、ご飯も満足に食べられない。それによって赤ちゃん栄養が行っていないことが申し訳ない」といったことを話した。

チャプレンは色々な話をしてくれたのだが、まず妻に伝えたことは、

「妻さんは、赤ちゃんのことを愛しているんですね」ということだった。
妻はこの言葉を聞くと泣き出してしまった。後になって聞いたのだが、妻はこの言葉を聞いて、「憑き物が落ちた感覚だった」と言っていた。

今思うと、妻の赤ちゃんへの強い愛情や健やかに生まれてほしいという希望の裏返しとして、うまくいかない自分への責任追及があったのだと思う。

チャプレンの言葉を通して、自分の中に赤ちゃんへの愛があることに気づかせてもらった。そして、愛故に作り上げてしまった罪悪感であることに気づいたとき、少し自分を赦すことができたのだという。それが「憑き物が落ちた」といった感覚だったらしい。(僕らは余裕が無く、自分では気づけないところまで来ていた)

自分を縛る罪の意識が愛ゆえのものであったことに気づいても、症状が良くなるわけではない。でも僕はそれでも良いのだと思う。現代において自分の病気を治してくれるのは医科学の役割、そして自分を縛り付ける罪(の意識)に対して赦しを与える手助けをするのが宗教、そんな役割分担なのかもしれない。

何もうまくいかず自分のせいだと追い詰めてしまう時、自分を追い詰めているもの(憑いているもの)はどこから来たのか。それは子供への愛かもしれない、恋人への愛かもしれない、自分への愛かもしれない、他人への温かい期待の裏返しかもしれない。

何かと忙しく、追い詰められることも多いこの頃。そのような視点を提供し、憑き物落としの手助けくれるのは、一つ宗教の役割かもしれないなと思った。


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