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攻略本的/聖書的
風呂の中でふと、教条的な人が苦手だなと思った。特定のルールに、それが作られた背景や目的を無視して固執する人。
そして、こんな表現が思い浮かんだ
こっちが攻略本だと思って読んでいた書物を、聖書として読んでいる奴がいたら気持ち悪いだろう
教条的な人は、いわば聖書的なのである。
ここから、人間を攻略本的/聖書的に分けるという発想に至った。語感が存在論的、郵便的に似てるのもなんか良い。
さて、攻略本的人間は物事を「もし〜なら〜すべき」という形式で語る。処世術のイメージ。人生をゲームだと思っている。
一方、聖書的人間は物事を「〜べき」の形式で語る。そこに理由はない。
いやいや、人間をそんな大雑把な二分法で分けられるはずがない。実際の人間は場面によって二つの面をのぞかせる微妙な存在である。
そこで、攻略本的人間の聖書性、聖書的人間の攻略本性を指摘することにより、この二項対立を無効化する(これがやりたかったのだ)。
とりあえず続けよう。
攻略本的人間の聖書性は、そもそもゲームを攻略するべきなのはなぜか?と問うことにより暴露される。ほら、理由なんかないじゃないか。「ゲームは攻略するべきだ」などと暗黙の前提を置いている君は、まさしく聖書的人間じゃないか。
一方で、聖書的人間の攻略本性はどうだろうか。聖書的人間の従う道徳律の起源の”攻略本”性を明らかにするのが一つ。例えば、コーランで豚肉食が禁止されているのは、当時の衛生環境的に感染症リスクが高かったからだ、みたいなやつ。もちろん本人は否定するだろうが、道徳律が攻略本的に機能していることを示せば十分だと思う。
だから、この二項対立はナンセンスである。
人間はまず聖書的に目標を決め、攻略本的に目標達成に向かう、という両義的な存在である、とは言えるのかもしれない。
大した結論ではないけど、今日は終わり。
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