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贅沢せよ
少し高級なレストランに行って食事をした。
スープが出てきたのだが、器の大きさに対してスープが1/3くらいの高さまでしか入っていなかった。これでは体積にして1/27しかないじゃないか、などと思いながら飲んだ。
少ないスープを飲み終えて、贅沢とは「目的に対する手段の過剰」なんだな、と思った。思ったというか、どこかで聞いたそんな言葉を思い出した。
あの器はあの量のスープを容れるには明らかに大きすぎた。スープを入れるという目的に対し、器という手段が過剰なのだ。
高級車は贅沢品だが、それは移動するという目的に対して車が過剰だからである。仮に移動手段として車が必要であったとしても、中古の国産車で十分なはずだ。ウン1000万のランボルギーニが必要だろうか?
贅沢=目的に対する手段の過剰、とするなら、それは非合理的である。そして、非合理的であることこそが重要なのだと思う。
合理性には、正解=最適解がある。目的に対して必要十分な手段こそが正解である。
正解=最適手段は、目的と状況との二変数関数である。個人が置かれた状況と、その個人の目的とを入力すれば、最適な手段は一意に定まる。その個人の嗜好などは無視だ。
これって、つまらないんじゃないか?
だからこそ、非合理的な「贅沢」が重要なのでは、と考える。正解のない非合理性の中にこそ、「個性」が現れる余地がある。
こう考えると、一般に「贅沢」とされているものの中にも、実のところ贅沢ではなくなってしまっているものがある、とわかる。
例を挙げる。先ほどランボルギーニの例を挙げ、その目的を「移動すること」であるとした上で、ランボルギーニが手段として過剰である、と述べた。しかし、実はその目的が「金持ち自慢をすること」だったらどうだろうか。
この場合、ランボルギーニは合理的である。有名な高級車であるランボルギーニを見れば、誰だってその持ち主のことを金持ちであると考える。したがって、ランボルギーニは贅沢ではない、ということになる。
今のは極端なケースである。現実世界では、自分の目的をはっきりわかっている人なんてほとんどいないだろう。車で金持ち自慢したい人だって、高級車に乗ることによる「金持ち」効果の合理的計算だけでランボルギーニを選んでいるわけではないだろう。そこには、合理性では説明不可能な目的からの逸脱があるはずだ(例えば、よくわからないけど形が好きだ、など・・・)。
しかし重要だと思うのは、贅沢はお金の問題ではないということだ。目的に対して手段が過剰であれさえすれば、それは贅沢である。いつもよりちょっと大きい器を使ってみるだけで、それは贅沢になりうる。
日常の中に贅沢をどれだけ含ませられるだろうか?
ちなみに、スープはとても美味しかったです。
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