具体的な体験談に興味がないから、友達が少ない
具体的な物事に興味がない、というか、一般化をして欲しい。
体験談をただそのまま、「この間こういうことがあって、こうで、こうだった」と言われても、「で?」と思ってしまう。
私としては、その先の学びというか、その人なりの受け止め方というか、考え方にどんな影響を与えたかを聞きたいのだ。
具体的な物事に興味がないのは、なぜだろうか。
人に興味がないから。
確かにそうなのかもしれない。実際よく言われるし、自分でもそう思うことで納得しようとしている面はある。
しかし、「人に興味がない」という言い回しはよく使われるだけに、大事なことが抜け落ちて思考停止しているような気がする。
そもそも、逆に、「人に興味がある」というとき、一般的に何が言われているのか?
人に興味があると聞いて思い浮かぶのは、他人の話を目を輝かせながら聞き、澱みなく質問を投げかける人である。いわゆる「コミュ力の高い」人。こういう人は「雑談」が上手い。
逆に、「人に興味がない人」といえば、最低限の会話しかせず、「雑談」しない/できない人を指すのではないか。
人間が心の中で実際に何を考えているはわからないのだから、評価は行動によって行うしかない。とすると、世間一般的には
「雑談」をうまくしている人=「他人に興味がある人」
なる等号が成立している、として問題ないのではないか。
(※「雑談上手いのに他人に興味ない人」は確かに思い浮かぶ。しかしそういうのはある程度関係性が深まってからわかるものであって、より表面的、一般的にはやはり雑談できる=興味あるで良いと思っている)。
では、「雑談」というとき何がイメージされるか?
趣味の話、仕事の話、SNSの話・・・。
これこそが、具体的な体験談なのである。
だから、私のような、具体的な体験談が苦手な人間は、「人に興味がない」と思われてしまう。つまり、理由として「人に興味がないから」を挙げるのは循環論法なのである。
実際、私は人間に興味がないわけではない。
前述の通り、体験談を踏まえた、その人なりの思想への影響に関する語りには興味があるのだ。
ただそういったことはいわゆる「雑談」では出てきにくい。
なぜか「ある程度仲良くなってからでないと話しづらい」ことになっているのだ。
ではそれはなぜか?
思うに、体験談を一般化するそのやり方にこそ、その人の人間性が表れるからではないか。
たぶん、個人の経験なんてたかが知れている。
でもその経験から何を受け取るか、というのは、人によって全く違う。
そこに人間としてのあり方が漏れ出てしまう。
人間としてのあり方が漏れるのは恥ずかしいことだから、関係の浅い人に話すのは避ける。
こう考えると、私に友達が少ないのは、関係が浅い時期の雑談をつまらないと思って面倒くさがり、新しい関係の構築を避けるからだ、ということになる。
もっとも、いきなり抽象的な話題を振る勇気が私にあれば良いだけの話なのかも知れないが。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?