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セクシュアリティのふしぎ

日本でも、LGBTが盛んに取り上げられるようになってきたように思います。私はこれまで女の人も男の人も好きになり、どちらともおつきあいしてきましたが、バイセクシュアルといわれるのには少し違和感がありました。女の人も男の人も好き、というよりは、恋愛という意味で好きになるときに相手のセックス(生物学的性別)やジェンダー(社会的性別)について考えることがなかったからです。

最近パンセクシュアルという言葉を聞いて、何事も説明することができる便利な世の中になったなあと思いました。パンセクシュアルについて、この記事などわかりやすく説明されていると思います。言葉があるだけで、それにあてはまる他人の存在が想起され、認められた気持ちになるのは、言葉のある社会に生きるかぎり共通なのではないでしょうか。

私は、性的嗜好というのは「好きなタイプはどういう人ですか?」というのと同じレベルの話で、マッチングアプリなどでほかの人にわかりやすく示さなければならないなどの実用的な目的がある場合以外、本来特に社会的には話題にする必要がないものだと思っています。家庭的な異性が好き、背の低い〇〇人異性が好き、いじめてくれる人が異性が好き、角ばっている手がすき、優しくて背の高い異性が好き、の延長に、家庭的な同性が好きだとか、優しくて背が高ければ同性も異性も好きとか、丸い物体が(性的に)好きとかも含まれるのだと思います。こんな話、近しい友達同士やパートナーを見つけるコミュニティ以外ではする必要がないですよね。

もちろんこの延長には幼い子供が好き、とか、死んだ人が好き、とか、結婚した異性または同性が好き、とか、言いなりになる弱い人が好き、など社会的に問題となるものも含まれます。これらが問題になるのは恋愛には相手が必要で、相手の権利が侵害されるとき法律が介入せねばならないからです。これは別に性的嗜好にかぎったことではなく、「自分の好きなことをしていいけれども、それは人の権利を侵害しないかぎりである」という社会で生活していく上での共通のルールです。

性的嗜好は本人が成長したり人生経験を積むうちに変わる可能性のある、一人の人間の中でも流動的なものだと思っています。どんな人が好きか完全に人に納得のいくように説明することは難しくありませんか?少なくとも私にはとても難しいです。私は女の人を好きになるまで女の人を好きになるとは知らなかったし、男の人を好きになるまで男の人を好きになるとは知りませんでした。これまで好きになった人に共通することもあれば、違うところもあります。将来的に机が(性的に)好きになるかもしれないし、これまでと全く違うタイプの女の人や男の人を好きになるかもしれませんが、人に迷惑をかけない限り全く問題ないと思っています。

このとりとめのない文章で何が言いたかったかというと、私の中での理想の社会はLGBTなどという言葉で人を納得させる必要のない、議論すら起こる余地のない、みんな違って当たり前の社会だということです。


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