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ステーキが食べたい(大相撲 令和3年九州場所)

※2021年12月に書いたものです。

 ステーキが食べたい。もう、以上である。これ以上何を言ってもステーキが食べたいという欲求以上に何も伝えられやしないだろう。
これでは七十字にしか達していないので、どうしてステーキが食べたいのかを書いてみることにする。でもステーキが食べたい理由を語るなんてバカじゃないか? ステーキが食べたい理由なんて、昨日見た夢の話くらいくだらない話題な気がする。でも語ろう。

 九州場所が終わってしまった。今年の大相撲はこれでおしまいだ。少し寂しいけれど、実は私は今年、そんなに熱心に大相撲を観ていなかった。久しぶりにテレビをつけたら、私が応援している照強がまだ幕内力士として頑張っていたので、九州場所だけは毎日観ることにしたのだった。

 照強の五日目の相撲は素晴らしかった。照強は私と同学年の二十六歳、身長は一六九センチ、体重は一一七キロ。力士としては小さく、いわゆる小兵と呼ばれる小柄な力士である。五日目の相手はブルガリア出身の碧山。身長一九〇センチ、体重一八〇キロのでかい力士だ。一分を超える長い相撲だった。どちらのものだかわからないゼエゼエという息が聞こえた。照強は長い戦いの末、この大きな相手を下手投げで制したのだった。
 最高に熱くなった戦いだったが、別にこれはステーキとはなんの関係もない。照強が好きだから書いただけである。

 問題は八日目、逸ノ城と貴景勝の相撲で起こった。どちらにも特に思い入れはなかったが、この日を境に私は逸ノ城を応援している。

 二分五十秒のこれまた長い相撲だった。互いに疲れる相撲だったろうと思う。モンゴル出身の小結逸ノ城は身長一九〇センチ、体重二〇六キロである。でかい。対する大関貴景勝は一七五センチ、一六三キロ。数字がどれもこれも大きすぎて、書いててよくわからなくなってきた。簡単に言えば、でかければいいという話ではないということだ。体が大きければものすごいパワーが生まれるけれど、そのぶん動かすのにもエネルギーを使う。

 この日は現役を引退した元横綱白鵬、間垣親方が初めて放送席の解説を担当した日でもあった。間垣親方は現役時代の勉強熱心さがわかる良い意味で理屈っぽい解説で、語り口も穏やかでけっこう面白かった。

 逸ノ城と貴景勝の長い相撲は、押し倒しで逸ノ城に軍配が上がった。直後に審判部から物言いがついた。間垣親方からも「最後の逸ノ城の足ですね」というコメントが出た。逸ノ城の足が先に出ていたのでは? いや、貴景勝の体が先に飛んでいるのでは? と、最後数秒のVTRを何度もスローモーションで振り返りながら、放送席も盛り上がって審判部の結論を待っていた。

 しかし、審判部の結論は拍子抜けするような内容だった。逸ノ城が貴景勝のまげを掴んでおり反則、軍配差し違えで貴景勝の勝ちと宣言したのである。福岡国際センターに集まった観客の間にも一瞬遅れてどよめきが走った。
 
「まげですか」と実況アナウンサーが驚き、間垣親方も「うーん。どこですかね」とピンとこない様子であった。VTRが再生されると、開始十秒くらいに、確かに逸ノ城が貴景勝の首をつかみ、その手がずるっとまげへと滑っていく場面があった。逸ノ城の手はすぐに離れた。自分でも、勢いでまげに触ってしまったことに気づいたのだろう。

「これですかね?」と訊ねるアナウンサーに、間垣親方は「うーん。まあでも、離してますからね」と返す。故意であったかどうかにかかわらず、まげをつかんだら反則である。もちろん、実況席でああだこうだ言っても結果が変わることはないので、すぐに次の取組へと話題は移っていった。

 逸ノ城が支度部屋へ下がっていくときの表情が印象深かった。大関相手に一度は勝ったと思ったのだ。だが、まげをつかんだ自覚もあった。でもそれは最初の十秒間に起こったことで、あとの二分四十秒間、逸ノ城は大きな体で忍耐強く持ち堪え、貴景勝を土俵の外に吹き飛ばした。

 良い相撲だった。この反則により、貴景勝は初日から八連勝を勝ち取った。連勝を止めることはできなかった。悔しさをぐっと堪えてうつむきながら、眉間に皺を寄せて歩く姿が忘れられない。

 この取組のことが頭から離れず、私は何かないだろうか、とインターネットで検索をかけた。特に当てがあったわけではない。勝手に手が動いていた。そして、あるコラムを見つけた。元横綱北の富士さんが東京中日スポーツで連載中の「北の富士コラム はやわざ御免」である。

 辛口批評で有名な北の富士さんがコラムを持っているらしいことは知っていたが、普段の放送席での解説を聞いているだけでもおっかないのに、わざわざコラムを読もうとは思わなかった。だが私はその日、うっかり見つけた逸ノ城と貴景勝の記事を読んでしまった。

 まず、おっかない内容に反して読みやすい文章に驚いた。北の富士さんは文章を書ける人だったんだ、と思った。そのコラムは、その日の相撲をすべて観戦した後に、北の富士さんの控え室だかホテルの部屋だかで猛スピードで書かれているらしい。

 記事のタイトルは「逸ノ城が貴景勝のまげをつかんだ時点で反則負けにすべきではなかったのか」というもので、最近の審判部の判断はお粗末であり、まげをつかんだ時に指摘されず最後に物言いで反則を言い渡すのでは、お客さんも納得しないだろうという内容だった。

 北の富士さんは「良い相撲内容だった」と両力士をほめつつ、逸ノ城に対しては「やけ酒でも飲むがいい」といつもの調子。それでも、なんだか私はほっとしてしまった。よかった、私が感じたやるせなさはみんなも感じていて、あの北の富士さんも良い相撲だったと言っている。その日の相撲に感じた久しぶりの大興奮といらだちは、それでほどけたような気がした。数分のスポーツ観戦だけで、一人で勝手に興奮しているんだから、私は相当燃費がいいと言えるかもしれない。

 さて、北の富士さんのコラムは大変面白いのだが、一つ欠点がある。毎回、その日に食べる食べ物の話をするのである。元横綱で地位も金もある人の食べ物の話なんて、いや、興味はあるし嬉しいけれども、一般庶民には手に入らないものの話をされるわけだからある意味苦しい。悔しいことに食べ物の描写も妙にうまいのだ。それが毎日なのだから、気が狂いそうになる。では、逸ノ城と貴景勝の記事の最後に書かれた、北の富士さんの食べ物の話をちょっとだけ引用させてもらうことにする。

 私はなじみの屋台「紀文」に行こうかと思ったが、雨が降ったので止めておこう。「紀文」は何でもうまいが、特にステーキが絶妙にうまい。牛肉の「サガリ」にたっぷりとニンニクを効かして、年季の入ったフライパンで一気に焼き上げる。それに生じょうゆをかけて食う。何万円もする高級ステーキ屋より、はるかにうまい。想像するだけでよだれが出てきた。
北の富士勝昭 東京中日スポーツ『はやわざ御免』より

  雨が降ったから食べないのになんで詳細に描写をするんだ。私だってよだれが出てきた。

 そう、ステーキとはコラムに出てきたこのステーキのことだ。記事を読んだ十一月二十二日から、私はずーっとステーキが食べたい口になっている。ステーキが食べたい。それも、そのへんのファミリーレストランで食べるそこそこ及第点のステーキではなく、完璧においしい牛ステーキが食べたい。ぐわー。書きながらつらくなってきた。私の口の準備は完璧なのに。

 これだけステーキを渇望している状態で、絶対に失敗したくないので、まだ下手に手は出していない。
 駅ビルに入っているお肉屋さんは信用できないし、伊勢丹地下一階のスーパーも、高島屋のよくわからん精肉コーナーも信用ならない。七〇点のステーキはお呼びでない。一〇〇点満点のステーキが食べられる場所をご存知の方がいたら、私にこっそり教えてください。

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