連綿
夕方は好きなのに苦手だ。夏の夕暮れが一番好きだ。日が傾いていくのを長く楽しめる。風に煽られて千切れていく雲を見ているのも楽しい。たくさんの色が見える。
冬の夕暮れは、劇的な変化の兆しは無いくせにものすごい勢いで時が変わっていく。それにいつも焦っている気がする。
本棚を見上げた。漫画は紙で買わなくなった。ここに残っているのは、自分が何百回でも読み返したいと思う漫画だけだ。「令和の家政婦さん」を手に取る。里さん、もう令和も五年になってしまったのよ。あなたは今どこで手を動かしているの。
「家政婦さん」を読んでいたら、夕方がいつの間にか夜になりかけている。「家政婦さん」を本棚にしまうと、まだ読んでいない半村良と司馬遼太郎の文庫本に目が留まった。どなたかにいただいたものだろう。そのまま半村良の本をめくった。
どうしてこれをまだ読んでいなかったんだろう? 最初の一行ですぐにそう思った。これを眠る前に読みたい。私は本棚に本を戻し、靴下を脱いだ。
髪を一つにしばる。スウェットを膝までたくし上げ、給湯器のスイッチを入れる。浴槽に洗剤を撒いて、ブラシでこする。清潔な香りがする。白い泡が排水溝に流れていく。浴室を出て、風呂を沸かした。
こんなに普通ぶって生活を送っているのに、胸に寂しい穴が空いているのが恥ずかしい。知られたくないし、そんな歳になってまだ穴を埋めるものを見つけられていないの、と思われるんじゃないかと恐れている。まったく、私はいつまで経っても同じパターンだな、と自嘲するところまでいつもと同じ。
湯船に浸かると体が緩んで、暗い穴のことを少しの間忘れられる。穴が空いているのを気にしないでいられる。この穴は私を追い詰め、私の体まで凍えさせている。湯船で体を縮こめるとその冷たさが余計にわかる気がした。
誰かに見てもらわないとダメだ。誰かに気にしてほしい。私の存在をじゃない。私の挙動を……私が何をするかを見ていてほしい。ただ観測してほしい。そうでなければ耐えられない。
彼女が私を見ている……。私の胸を指さして、そのままではいけないわねと言う。彼女は手に持った瓶から黄金色の何かを私の胸に零す。眩しい! なんて大きく輝く光なの。そんなものが私の胸に入ってしまったら、と拒む間もなく液体のような砂のような黄金が空洞を侵食していく。痛みを感じた。
「どうして寂しくしているの。あなたは私を愛し、その愛で心を埋めるはずでしょう。何を妬んでいるの。この世界の誰があなたより幸せだと言うの。まだわからないのね。いいわ、あなたを黄金で満たしてあげる。私の優しさを拒んではいけない。
あなたは自分の何が憎いの? 美しい人、あなたは私をそう呼んでずっと私を見上げているわね。自分とは違う世界にいると決めて、自分で線を引いているわね。今日は特別に教えてあげるわ。あなたは美しいのよ。私にはそう見えるわ。あなたの瞳、あなたの意志、指の節、腹や脚、あなたの胸に渦巻く感情、全て見えているけれどどれも私と同じようにきれいだわ。何一つ醜いものなんてないのよ。だってそうなりたかったんでしょう、私に近づきたかったんでしょう。できているわ。だからその空虚に私が渡せる限りの黄金を注ぎましょう。あなたが光あるところを歩けるように願っている」
ごちんと浴槽に頭がぶつかって私は目覚めた。水を飲んではいなかった。湯はまだ温かかったが、脱水する寸前のように手足が痺れていた。思ったより長湯をしたようだ。
浴槽から上がると、赤く茹だった四肢が鏡に映った。突如抑えきれない殺意が沸き起こる。それは胸の空虚の根源であり、自覚してなおほとばしる連綿たる呪いだった。
私は、嫌いだ! この体を憎みたい! ずたずたに切り裂いてやりたい。でも胸の虚の、塵が汚く溜まった底に砂金が見えた。ちらちらと明るさを主張する光は見慣れなかったし、それによって私の体が温まるわけでもなかったが、きれいだった。私は眠る前に読む本のことを思い出し、体を拭いて部屋に戻った。空虚は変わらず空虚だったが、私の腕は確たる意志を持って本棚に伸びた。