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正気(ホラー 短編小説2/3)

※タグ参加の期間を勘違いして遅刻なのですが、せっかく短く編集したので投稿します。2,000字にはまとまらなかった。

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 クリスマスが近づいている。すべてが清算される年末が来る。依子は冷えた床にうずくまったまま「彼女」を見上げる。ベージュのストールの微かなほつれを押さえようとしている彼女の手元を見る。
「何が欲しいの?」
 依子にだけ聞こえるように、彼女が囁いた。鼓膜を揺らす彼女の声。
「あなたと一緒にいられるならそれで十分なの」

「まったくどうしようもない人ね」
 彼女は何がおかしかったのか薄い肩を震わせた。
「それで私と一緒に出掛けるつもりなの?」
 彼女がそれと言ったのは、依子が着ている毛玉だらけの部屋着のことだ。依子はああ、と呻いた。彼女が問う。
「それで、欲しいものは何なの?」

「思いつかない。あなたが教えてくれなきゃ、私はなんにもできない」
 彼女は艶やかな髪をかき上げて鼻を鳴らした。ストールを広げ、依子の肩へそれを掛ける。
 彼女からは彼女の香水の香りがした。酔ったまま気絶してしまいたかった。

「仕方がないわね。いつになったらあなたは自分で欲しいものが決められるようになるのかしら」
 彼女は上着のポケットからたばこを取り出して煙を吐き始めた。彼女はカーテンの向こうから鈍く光を寄越す太陽へ顔を向けた。依子は凍りつく寒さと、彼女の美しさに肌が焼かれる気がして身を捩った。底冷えする床と一体になり、ほとんど横にくずおれそうな体勢から見上げる彼女は、淡い光を受けて神々しかった。こちらからは見えない口元から煙が滲み出る様子さえ、触れがたい神聖なものに思えた。

「今年は青いジャケットを着なさい。並んで歩くと綺麗だと思うわ」
「ああ、やっぱりそうなのね。あなたの言う通りにする。私はいつでもあなたの言う通りにする。あなたが私のために発してくれる言葉が、何よりも私を美しくしてくれるのよ。あなたと私のために、深くてめまいがするような青のジャケットをきっと用意する。あなたに会える当日だけが楽しみなの」
 骨ばった四肢を部屋着の上からゆっくりとさすった。
 これは夢。これは現実。まぶたを閉じればそれがわかる。天井の隅から自分を見下ろすと、自分の眉間には何度も折った紙のようにしわが刻まれているのが見えた。これは悪夢ではないはずなのに。彼女を前に、考えなんてものは存在しない。時間すら無意味なのだから。依子は眠った。床の上で、あるいは凍ったのかもしれない。


「あなた、ああ、どうして一緒にいてくれないの?」
 夢から醒めて依子はすぐにカーテンを開けた。曇った窓ガラスを介して、夜の空に白い身体が映った。棒切れみたい、幽霊みたいだ。でもどうでもいい。

 窓を開けた。十二月の風が勢いよく部屋に飛び込んでくる。窓をそのままに、部屋の真ん中に落ちているベージュのストールを拾う。生地は柔らかい。口から微かな喘ぎが溢れる。彼女の指を思い出す。
 クローゼットを開く。たくさんのドレスが吊るされた中に、深い青色のジャケットとスラックスを見つける。

 香水を胸につける。たばこを口にくわえる。顔の前で、燃料がほんの数滴しか残っていないライターを何度かかちりかちりと押して火をつけようとする。
 部屋がずいぶんと冷えた。頭と下腹部だけが熱を持っている。腹が熱い。膝を擦り合わせ頭を振る。狂おしいほど熱いのに胸の中は虚ろで、彼女はここにいない。

「どうしてここにいてくれないの。私が悪かったの?」
 テーブルの上に置かれた果物ナイフを依子は手に取る。鞘から抜くと、刃には水垢のような汚れがびっしりと付いていた。依子の手が力無くナイフを離した。ナイフは足を掠めるように落ち、派手な音を立てて床を転がる。
「いいえ、違う。覚えているもの」

「そう、そうだった、そうなの。その時あなたは隣にいて、震える私の手を握ってくれていた。繋いだ手の上にハンカチをかけてもらったんだったわ。全部覚えている」

「ねえ、だから今年のクリスマスは一緒に過ごせるでしょう? 何よりも美しい私の女神、そうでしょう」
 私の言葉は正しい。なぜなら彼女が何よりも正しい存在だから。

 依子はクローゼットを再び開き、几帳面にビニールが被せられたドレスをかき分けて小さなハンドバッグを取り出す。わかっている。
「わかっている。あなたが私を見て、なんて言ってくれるか私にはわかっている!」

「叫ばないで。いいえ叫んで。あなたは私をうんとほめてくれる。私があなたのために着飾って、きらきらした街の中、あなたを待つために頬を上気させることを喜んでくれる」

「あなたが望んでくれる私の姿が、私が一番欲しいものなの」
 冬は痛々しい。自分の身体も、どこまでが自分のものかわからなくなる。切断された手足を部屋の隅まで取りに行く、そんな重苦しさで依子は膝をたたみ、手を擦り合わせた。依子は祈らない。

「今度こそ私を迎えに来てくれる? 私の手を取ってイルミネーションが輝く街へ誘ってくれる? あなたが隣にいないのに、ここで人間のふりを続けるなんて耐えられない。私はあなたのいないこの世界に歓迎されていないの。何を着るか、どの口紅を塗るか、誰に何を語るか、あなたが教えてくれなければ私には何もできない。いつか終わりにしないといけないのに、私がやっていることと言えば愚かなままあなたを待つことだけ」
 依子は胸を掻きむしり、しばらくすすり泣きと唸り声を交互に続け、頭を揺らしていた。

 どんな声も掠れてしまった後、「それじゃあ行かないと」と呟くと、依子は開けっ放しにしていた窓をぴしゃんと閉め、洗面台へと向かい化粧ポーチを開けた。白い顔が滑らかな手つきで華やかに整えられていく。
 最後に依子の指は別に置かれた真紅のポーチへと伸びた。依子は目を閉じて思案した。時折口もとに笑みを滲ませたり、何かに反応するような頭の揺れがあり、それらの動きをゆっくりと止めると目が開かれた。そして中途半端に伸ばされていた指で、ポーチの中の口紅の一本をつまみ出した。
「あなたは私を見て喜んでくれる」

 依子は部屋に戻り、クローゼットを三度開いた。下着をつけ、ブルーのジャケットを羽織った。同じ色のスラックスを履いてストールを首に巻き、小さなバッグを肩に掛けた。

 依子は玄関へと向かった。パンプスに足を滑り込ませる。まっすぐに立ち上がって、また目を閉じて置物のようにじっとそこに立っていた。数十秒ののち、前触れなく目が開かれ、同時に依子の顔には唐突な笑顔が貼り付けられた。

「ええ、そうなの。彼女といると本当に世界はおかしいの。彼女はその一時間、一瞬だって口角を上げたりしなかったのに、私は彼女とお話しできるのが嬉しくて、ずっと笑っていたんだもの

「そうなの。彼女ったらそうなの。だからね、私その時言ったの」
 依子はシューズボックスの側面に付けられたフックから部屋の鍵を取り、ドアを開けた。先ほどまで窓から勢いよく吹き込んでいたのと同じ温度の空気がその顔を包んだ。依子はもう喋らなかった。依子は目を伏せて、いつも通りに戸締りをするとエレベーターへ向かった。

 エントランスを出た依子は空を見上げた。細い細い三日月が真上で光っていた。明るすぎる街の中、依子には星が見えていた。それは彼女とともに数えた光であり、彼女を願った星であり、女神である彼女を形作る星座であった。だから依子には見えていた。

「あなたが教えてくれるから、私にはなんでもできる」
 首元で緩むストールに顔をうずめ、その香りを肺いっぱいに吸い込むと、街へと足を進めた。舗装路に響く高い靴音は、まだ一人分しか聞こえない。



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