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音声燻製(短編小説)


お借りしたキッチンの主→


 皆さんこんにちは。驚いているみたいですね。ええ、そうです。このキッチンで音声を燻製にするのです。料理はスピードが勝負ですから、今すぐ始めましょう。

 ここは私のキッチンではありません。持ち主から三十分いくら、でお借りしているのです。キッチンの主をご紹介したいところですが時間がないので、それは次の機会にしましょうか。

 燻製なのに時間がないなんておかしいですよね。でも、音声というのは一瞬の産物です。高校の芸術選択であなたは何を選びましたか? 工芸? 工芸が選べる学校は少ないので、今は置いておきましょう。
 音楽、美術、書道。この三つから選んだはずですね。だから、工芸の人は静かにしていてください。

 さてこの三つの芸術分野は、時間の流れ方という観点で二つに分類することができます。時間に可逆性があるかそうでないか。繰り返しや巻き戻しができるかということです。
 あなたならどう分けますか。私は、時間に可逆性があるものは美術、可逆性がないものは音楽と書道と分類できると考えます。

 油絵をイメージしてみてください。キャンバスに一筆描いてみて、まだ足りないと思ったら上から更に色を重ねますよね。下の色がかわいそうだからこれ以上描けない、なんてことは起こりません。よりよい絵を完成させるために、筆は何度も重ねることができます。

 一方音楽は、始まったら止まることができません。練習は別ですよ、揚げ足を取らないで。楽譜の通り音符を追いかけ始めたら勝手に戻ったり演奏し直したりしたら台無しです。
 書道も同じく、筆を紙に置いたらそのまま最後まで書き上げます。中国では重ね書きが普通だったなんて、北魏時代のことを持ち出さないでください。高校美術の話をしているんですからね。

 音声を燻製にする時は何が起こるかお分かりですね。音は非可逆性の芸術です。だから、じっくり燻したいところではありますが、空気中に飛び出した音声を目にも止まらぬ速さで捕まえたら、急いで燻製にしなければならないのです。それを実現するのがこのキッチンというわけです。

 間借りしている分際でキッチンのことを語るのは恐縮ですが、このキッチンはこれまで凡ゆる現象を発生させてきました。少なくとも、私は持ち主からそう聞いています。今回も期待を裏切ることはありませんよ。

 それじゃ、早速燻製にしたい音声を作り出しましょう。燻すのにふさわしい特別な音声がよろしい。どんなものが特別かはまったく個人の自由ですが、燻すわけですからあんまり水分が多い音声は避けたがいいですね。もやしや茄子みたいな音声は次回のナムルで使いましょうね。

(私は銀の追憶の箱からそれを細く取り出した。彼女のピンク色の口元から微かに聞こえた、何度も私の耳を支配した吐息をはっきりと記憶している。私の気が狂っているなら彼女のせいにしてしまいたい)

 道具は何でもいいんですが、片手で扱えるアイスクリームディッシャーが私は好きです。空気の中に溶けていこうとする音声を捕まえて丸い形に整えたら、フライパンの準備をします。金網とアルミホイル、桜のチップを使えば、燻製器が無いご家庭でも燻製が楽しめるんですよ。

 いい音がこぼれ出てきましたね。あら、お皿の必要はありませんよ。音声の燻製は、まあ食べたい人は食べればいいと思いますが基本は耳で楽しむものです。あれっ、そう思ってこのキッチンを借りたんですが、なんだか皆さんの反応が思ったのと違うなあ。このキッチンではどんな現象でも起こるんですよ。さあ、音声燻製を楽しみましょう。短時間で熟成された音声がどんな波を鼓膜や顎の骨に響かせるか、開いてみようではありませんか。

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