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話の腰を折るエッセイ

私にも癖みたいなものがあって、突っ立っている時、どうも腰に手を添えているらしい。

真偽のほどは分からないが、なんだかそんな気がしている。そんな気がしているだけで、
特に気にするものでもない。

先日、2週間かけた天然酵母でようやっとパンを作ろうとこねた。パン屋の仕事が一通り終わった父とのはじめての共作であった。

どう考えても多い粉に対してどう考えても少ない天然酵母でこねたパンは、パンというかはんぺんのような弾力だった。

発酵室に入れてみてもまるで発酵しない。
酵母に対して粉が多いからである。

こねた段階で分かっていたことなのだ。
「あ、これは、粉、多いな。」って。

それでも私と父はこねた。

「一応やってみるか。」と、もうもはやこねたはんぺん風を見るより先に諦めながらこねた。

私たちは終始、「粉が多かったね。」しか言わなかった。

話は、パン生地同様膨らまない。
2人揃って腰に手をやり、話の腰は「粉が多かった。」で折れていく。

飛距離の出ない2人は、窯から覗く膨らまないパンもどきをただ見ていた。
初の共作は、ほぼ無発酵のパン、はんぺんと餅の境目みたいなナニカに終わった。

「話の腰を折る。」

もし仮に、話にもヒト同様、腰があるなら
折れ方はやはりヒト同様、前方向に折れるのだろうか。

はたまた、さながら某SF映画のおじさんが銃弾を避けるように腰が折れるのだろうか。

真偽のほどは、私の癖と同じで分からない。

けれども多分、実際のところは、会話なんていう概念じみたものに物質的な腰なんて無いのだろう。

話の腰を折ると、すぐに着地する安心と同時に猛烈なつまらなさを獲得することが、よく分かった気がする。

人生は、腰折れしない。

だから、死ぬまで着地できないし、
腰折れしないが故の面白さがある。

前にしか折れない私の腰が、ブーメランみたいに曲がりっぱなしの腰になっても、
へ理屈と妄想を並べて抜けた歯を見せながら笑っていたい。

抜けた歯は、見せられないか。

#話の腰を折る #エッセイ


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