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「こ!は」というスケジュールタイトル。

私たちは、名称という記号にとらわれているように思えてならない。
スマホをスマホたらしめているのは、機能、形状はもちろんであるが、「スマホ」という名称によるところが大きいのではないだろうか。
モノに魂を吹き込むというか、総仕上げ的だと思うのだ。

粉を練って、形を整え、甘くし、油で揚げたものをドーナツと呼ぶなら、
ドーナツを、ドーナツたらしめるのは、
真ん中の穴ではないはずで、
「ドーナツ」という名称が、
ドーナツの「ドーナツ」なのだ。
穴の空いていないドーナツはドーナツではないことにはならない。
すべからく、「ドーナツ」はドーナツであるように。

昨日、彼女との共有カレンダーに
「こ!は」と書き込んだ。

この共有カレンダーの用途は
彼女が毎日提供するテーマが各日書き込まれ、
追加するように私もエッセイのURLを貼り、
タイトルを書き込む。

そこへきての「こ!は」。
エッセイのテーマは『充血』
「こ!は」なんだそれは。

何かの略称だとしてもなんだか妙である。

「こんばん!は」
いやいや。

「今日から、コーネリアだ!君は」

猿の惑星より如何ともしがたい「こ!は」の
魅力が、私を疑問の洞窟へ誘って
なかなかに出口へ向かわせてはくれない。

半ば諦めたように、100均で買った
シゲキックスを
数年ぶりに食べている。

それにしてもだ、シゲキックス懐かしい。
私がシゲモンを最後に目にしたのはいつだろうか、パッケージは変わり、シゲモンの姿はない。

新口中ハードグミ
シゲキックス
スーパーレモン
ビタミンC入り
やさしさグローバル
"体にやさしく、街にやさしい"
食べるガム

パッケージを文書化してみた。
ここには「こ!は」に通ずるものがある。

「新口中ハードグミ」の「新口中」は記号としての名称の誤作動とも言えんだろうか。
機能性の小ささを感じずにはいられない。
「新口中」のわけわからなさ。

神奈川県立第一新口中

ほら、違和感が有給消化中である。

各々調べて欲しいのだが、
シゲモンの代わりに添えられたイラストも如何ともしがたい。
あえて、私の感性に基づいて言うなれば
『平成初期の関東電気保安協会の紹介パンフレットに出てきそうな女の子』である。

伝わらないだろうから各々調べて欲しい。
(リンクを貼ったりはしないが。)

そして何より、「食べるガム」であろう。

意味不明な「新口中」を乗り越え、
誰それてきなイラストを見て、
「ハードグミ」を咀嚼し終えて、
「食べるガム」

混乱の大低気圧である。
?の嵐が脳内に吹き荒れる。

「ハードグミ」を食べていたつもりであるのに、
「食べるガム」だったらしいのだ。

シゲキックスの如何ともしがたさは
記号としての名称がチグハグだからに違いない。

「新口中」の分からなさ。
「ハードグミ」と「食べるガム」のごたつき。

モノを人と繋げる場合、
機能性と同様に、名称が必須で必要なのだ。

色々できるがスマホは「スマホ」で、
ドーナツは「ドーナツ」であるように。

ある意味でシゲキックスは世俗離れしているのだろう。何1つしっくり来ない。
宇宙からきた何かであろうか。
スーパーレモンも、おそらく味であろうが、
「味」表記すらない。
味を味とも表現せず、レモンの酸っぱさをスーパーで煽り、
コンシューマーに頼るなら、
もう割り切って、
「小学校の遠足の行きのバス」くらいにしたらいいのだ。
スーパーレモンのボヤボヤ感よりは、
各人の思い出に任せた想像性を頼った
小学校の遠足とシゲキックスの絡みを
パッケージに押し出したらいい。
小学校の遠足の行きのバスの定番だったはずだ、シゲキックス。

気づいたのは「こ!は」は
私のスマホ操作のクセからして、
「これは!」の打ち間違いであるということ。
同時に、共有カレンダーに「これは!」と書き込んでも
彼女からしたら、「どれだよ」という話であり、どういう経緯が「これは!」と打たせようとしたのか、私は分からないままなのだ。

新口中ハードグミが、食べるガムたらしめる要素が、なんであるか、これも、私は分からないままで、これからも分からないのだろう。

エッセイを書き終えて、外を見て
「あぁ、黄昏時だ」と、思う私は、
同時に黄昏時を「黄昏時」にしているのは、
名称としての「黄昏」を口にする、私の心の有り様にほかならない。
そして、今この「黄昏時」の景色を見て感じる心の情景は、
「野球に飽きて、缶蹴りしたけど、それにも飽きて仕方なく帰る私の、小学校の頃」の時間である。

モノが名称に先だって存在するが、
名称があるからこそのモノであり、
名称のないモノは、モノとしては不完全であるのだろう。
というより、名称のないモノは存在しえないのだろう。

だから、私の「黄昏時」は、モノとして存在しているわけではなく、「黄昏時」という名称としての記号をたどって、
小学校の頃の思い出と一緒に心の中にあるのだ。

いささか、説明的過ぎた。
が、まぁ伝わらんでも良いのかもしれない。
「こ!は」と、シゲキックスに、私が感じたことを、無理矢理エッセイにしているだけであり、「私の感じたこと」に対しては、
名称など無いのだから。

#エッセイ


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