見出し画像

何かを始めることに、もう浮き足立てないのではないか。

身近なところにいる人の殻が、これからバリバリと剥がれていくのだろうと分かってしまうことがあって、
喜ぶべきことなのだけど、やっぱり、それは自分にとって少し怖いことのように思えた。

始まったら終わるということを僕たちは夏に教わってきたし、また今回もそのことをちゃんと教わっている真っ只中だ。

ちょっと離れたところの同じ国の人たちの安全をほんの少しだけ祈って、雨が上がるのを長らく待ってるうちに、
もうそろそろ長袖が必要かもなぁなんて思う、
それこそ、季節が流れてしまう時に吹く気持ちのいい夜風が僕を包んで、浮かれられない。
身に纏う服が変われば心の強さも変わるのならば、
僕は特別な苦労などしないんだろう。

9月の僕はきっと「まだまだ夏じゃないか。半袖に飽きたのよ、こっちはさ。」などと思うだろうけど、
8月半ばの僕はまだまだ夏でいて欲しい。
捨ててしまいたい幼気な自分を捨てきれていないんだ。

小説の単行本を読み進めて左手に持つ本の厚みが薄くなるたびになんだかソワソワすることとおんなじだ。と思うことに生きているとたくさん遭遇する。
プリングルスのポテチが残り少なくなるのだって、
フタをしてまた明日食べるか、もういっそのことそれいけ!と、何枚も重ねて食べるか、何歳になっても僕は毎回ちょっとの間迷ってしまう。

読み始めたら当然読み終わりに向かうわけで、
例えばそれが恋だったとしても、
終わりに向かって、月に向かって歩こうって話なのだ。

僕は今を生きている。当然皆んなもそうだ。
エッセイの中に時間という概念があるとするなら、
上から下へ読み進めることが時間によって縛られた行為だ。必ず時間は流れて、季節が過ぎ去って、
それを窮屈に思うことの方が多いけれど、
時間は進むから、逆説的に立ち止まることも出来る。
僕はそう思っている。

読み進めた小説に栞を挟める。
流れ去っていく季節の中、2人抱き合って
お互いの肌と肌を伝う鼓動だけを数えたって良い。

時間というレールの上を生きなければいけない僕たちが、
能動的に何か語ろうとすれば、何か事を起こそうとすれば、前に進もうとすればするほどに、
時間が抱えるどうしようも無さ、いたたまれなさを理解してしまう。
だから浮き足立つことでそのレールのルール、システムから一度離れることを試みる。
浮き足立つことの無意味さは、長い時間かけて
身に染みてしまっていて、
もうきっと大人になり腐った僕(たち)には、浮き足立つなんてこと出来はしない、してはいけないけれど、
地に足つけた僕たちにだって、立ち止まることぐらい出来るのではないか。

何度だって色んなことを思い返していい。
何度同じ本を読んでも良くて、何度同じ音楽を聴いても良い。時間というルールによって縛られている行為も、
繰り返して良いということが僕にとっては大きな救いになる。

月の満ち欠けが神秘的に人を魅了するのは、
時間の上をただ漫然と繰り返しているという点によるのではないか。
月など、夜をただ繰り返しているだけなのだ。
けれども時間が勝手に進んでいくから、その間、僕たちは多くを見て、感じて、体の細胞も入れ替わって、
懐かしい月のはずなのに、新しく感じられるようになっていくんだ。

さっきまで見えてた高さの月が、
今はもうすっかり低くなってしまったことに、
僕は何度でも気が付きたい。

月まで一緒に行こうと思う人がいるなら、
僕は何度だって夜を歩き疲れることが出来るだろう。
行き着く所まで、許されるなら、一緒に歩ききってみたいと願っているのだ。

言ってしまったから、栓を開けたビールを飲み干すようにして、少なくとも僕にはもう歩くほか無いのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?