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そこで、僕たちは誰と生きようか。

少し考えごとをした。

人やモノを撮ることで記憶を形として保存し、思い出とすることも出来る、手を洗うより身近な写真を撮るという行為。
今年に入ってすぐだったと思う、僕はスマホに撮りためた写真のほとんどを削除した。4、5年分の写真、枚数にして1000と数百。
直近1年間の写真だけ手元に残っている。
それを淋しいことだとは思わないし、「これで良いんだよ。」と声に出してみたりもした。
自然と、目の前にいる恋人または、この自分の生活を愛したいと願うようになった。


けれども矛盾はどうしても生じる。
矛盾が生じないようにするより、矛盾が生じるものが人なのだと諦めることとした。
淋しいことではないが、寂しさを感じたっていい。
ずっと抱えてきた大切なもの手放すことは覚悟のいることなんだ、後悔が生じたって仕方がないのだ。
僕に限った、写真に限った話ではないのではないか。
見慣れた街での慣れ親しんだ生活とその景色を手放してまで獲得した挑戦にだって寂しさは同席している。


知らない街やよく知らないコトやモノの中から、馴染みのある慣れ親しんだ景色、気配、モノやコトのカケラを探す行為に伴う心の揺れを僕はホームシックだとしている。
あるべきモノがあるべき所にないという不安は寂しさに直結する。
身体性を未だ伴わない、側だけの街と心だけが生き急ぐワタシの間には埋まらない溝がある気がする。

埋まることのなさそうな深く暗く心地悪い溝の中でワタシは「ここにいても良いのかな、本当に。」と自問するようになる。
写真フォルダを見返すみたいにして、記憶を美化しながら思い返して生活を続けていく。思い出を思い出だとするためにも大きな覚悟や乗りこなすべき勇気が必要なのだ。
触れたことのない肌にさえ安心を求めるようになったとしても生活を続けていかなければいけない。

続けた生活のその少し先に、「1人でも生きていけるじゃん。」という手応えのようなものがやってくる。
知らないことも多いけど、見慣れてきた街で、空の、殻のワタシが生きているのではなくて、青い炎のような心を携えたワタシがいることにここで初めて気がつく。
美化した記憶の曖昧さよりも、目の前にある幼気にも生の香りがする今をそっと手に掬い取ってみたくなる。

何かを手放すから空く身体で僕たちは1人でも生活できる。
1人でも生活できるということが、誰と共に生活したいのか、誰とどう生き踊るのかを選択する兆しになるのだ。

ワタシには写真を撮ることが出来る。事実を記憶にする事ができる。
その記憶を思い出だとすることが出来る。曖昧に思い返すことも出来る。同時に削除し手放すことも出来る。


今を切り取りカタチとして残す写真。
自分の思うがままに自分で決めたイメージを思い出す写真。




これは僕と、目の前にいる守りたい恋人とその生活の話。
だけど、どこかの誰かの4月と繋がっているようにも感じられるし、
僕のコンプレックスを拭うためだけに書かれたエゴそのものだとすることも出来る。





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