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必ず誰かといるということ、するということ。

これは、皆んなが日々の中で寡黙にやってることを
一々言語として自分に言い聞かせるまでの話。

他人の感情はおろか、自分1人分の感情さえ心に留めておくことが難しくなったと感じるのだ。

さて、ぬいぐるみに話しかけたことがあるだろうか。

僕が25歳になって1、2週間が経つ頃だった。
2人暮らしをしているパートナーが使い古した大きなくまのプーさんのぬいぐるみに、僕が「プー、そろそろ寝るだよ。」と話しかけたのが最初だったと思う。
父親に、もしくは母親に言われた記憶がある言葉を僕はプーに、または、ダッフィーに投げかける。「今日は何して遊んだの。」と、パートナーもまた同様にする。

言ってしまえば甘ったるいコントなのだが、そういう言葉の積み重ねは、次第と僕の中で愛着へと変化していく。
ぬいぐるみは入れ物なのだ。空っぽの入れ物に僕たちが愛着を注いでいく。“プー”や“ディー”に何かが吹き込まれていく。この2つ、僕たち2人、あの時間、その空間の愛おしさは想像に難くないはずだ。

他人の不機嫌に触れることも、嫌な顔見るのも、自分が不機嫌でいることに対しても、年々センシティブになっていると感じる。
他人の感情を受け取り、自分の感情を入れておく箱の容量が小さくなっている。

まだ幼気だった頃、淀みの無い視界でとらえた何気ない景色にさえ心が動いた。
言葉を知らなくても感情を入れておく箱に何かを詰めることができた。
あとで見返すために、共有するために、整理しやすいように「エモーショナル」と名前を付けて保存することができた。

悩み事は考え事へと姿を変えて僕の心に残り、生活のためにやらなければいけないこと、仕事だから解決しなければならないこと、自分で責任を取らなければならないこと数えだしたらキリがない。
テレビの裏の埃のように知らず知らずの内に確実に積もっていく。


繊細のフリをしていても仕事にならないから毎日を祈るように、感情を押し殺しながらも祈るように過ごす。
祈りは寡黙に行われる。毎日を生活する中では感情を削ぎ落としてしまった方が、ラクなのだ。正確には感情を揺さぶられる対象を減らした方がラクだ。
言葉など用いないほうが良いということも職人気質な仕事を通して知った。
言葉には愛も意思も存外に全部乗っかってしまう。
発した僕も、受け取る誰かも傷ついてしまうことを2人暮しで知った。
言葉によって気分が上がることも、下がることも本来必要ないのかもしれないとまたしても仕事の中で感じた。
愛は伝えなきゃ伝わらなくて、でも言葉に頼る表面上の愛は他人を傷付けるだけだから言ったら最後やり通すしかないということ、愛は抽象性に付随するものではなくてあくまでも具体的な行為にのみ宿るものなのだと2人暮しと仕事で痛感した。

内面に留めておくだけでは意味がない言葉を他人との関わりの中で必ず扱う。
具体と抽象とを行き来しながら僕の内面はどこへ向かうのだろうか。

繊細のフリをする暇もない生活の中で、言葉を用いて、取り返しのつかなさを抱えながら、それでも必ず誰かと、言葉を用いて、時に感情を発露しながら、愛を支えにしてこの万華鏡のような日々を暮らす。
この難しい途方もない問いに長い期間をかけてアプローチしていくのだ。




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