雲隠
(11月24日金曜日の記録)
明け方に、父が逝った。
早朝に義姉からのLINE電話が鳴って、「血圧が急激に下がっているので病院に来て」とのこと。ちょっと待って、と義姉が電話の向こう側で兄と話している気配がして、涙声で告げられた。
「いま、息を引き取られたそうです」
夫が不在だったので、息子を起こして病院に行った。
ベッドの父の頬に手を当てたとき、ああもう冷たいんだ、と思った。
この指先の感覚を、ずっと覚えていられたらいいのに。
二日前の水曜日、母と父の見舞いに行っていた。
私は、普段は家族にもあまり自分の話をしないのだけれど(秘密主義というのではなく、単に自分のすることなど大したことではないと思っている)、この日は、思うところがあって父に自分の仕事上の報告をした。
父は、とても喜んでいた。
もうその頃には表情もあまり変えられない体力だったけれど、そのときにはほんのりと頬に力が入り、血の気がさしたように見えた。
「すごいじゃないか。嬉しいよ。安心した」
はっきりと言葉が聞き取れた。
嫌な予感がして、「お父さん、安心するのは早いよ。まだうちの子の進路が決まるまで頑張って」と言ったら、父は黙って頷いた。
先週は、「おじいちゃんも頑張るよ」と言ってくれたのに、この日は頷いただけだった。
「また来週来るからね」
私の自宅から見舞いに行くには往復3時間かかるので、平日しか見舞いを許可されないその病院には、週に1回行くことにしていた。
母は、また金曜日に来ますよ、と言っていた。
父が、「嬉しいよ。ありがとう。本当に嬉しい」と、繰り返した言葉を、とても鮮明に覚えている。
それが、最後の会話だった。
伝えたら、安心して逝ってしまうのではないか。
実はそう思っていた。だから、前の週には資料を持っていたけれど、言わないで帰った。
早朝に電話を受けたとき、心のどこかで納得している自分がいた。
「私が、引導を渡してしまったのではないだろうか」
病院に向かう電車の中で、通勤客を眺めながら、罪悪感に近い感覚を覚えた。
病室で、父の遺体を前に、長兄が私に言った。
「最期に、明代からいい報告ができて、よかったね」
母も次兄も、優しい目で私を見ていた。
ああ、私はこの人たちにこんな風に承認されて、今まで生きてきたのだと、思った。
その日は、大事な仕事の今年最後の日だったから、あとは兄たちに任せて病院を後にした。
父が2回目に危篤だったとき、その日は大事な仕事の、本当に大事な自分の出番だった。早朝電話があったけれど、父はあの日は堪えて、生き長らえてくれた。
本当はあの日、父は半ば旅立っていたのかもしれない。
夢現に、自宅の玄関で何かを着替えている気配がしたあの朝。
あのとき、私は甲冑を着ているようだ、と思ったのだけれど、よく考えればあれは、甲冑を脱いでいる音だったのだろう。
それからの3週間、父は落ち着いているような、いつでもいなくなってしまうような容体だった。そのくせ、頭はしっかりしていて、見舞いに行くと話すことができた。「頑張るよ」と言っていた。
この3週間は、私たち家族が旅立つ父を見送る準備をするために、父が私たちにくれた猶予の期間だった。父自身は、辛かっただろうけれど。
最後の最後まで粘り強くて、競争性・戦略性・学習欲の塊みたいな父に相応しい、これ以上ない去り方だった。
天国で穏やかに過ごしてね、と言いたいところだけれど、あの人のことだから、どうしたら早く仏になれるのか、もう学習を開始している気がする。
一生、越えられないけれど、私も私なりに頑張るよ。
ね、お父さん。
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