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何もしない

何かしなきゃって思ってずっと生きてるふしがある。なんでかなって考えたら、おそらく無職だからで、自分が自覚してない間に劣等感を感じていたり、暇だからだと思う。最近、いろんな人の配信で意識的にコメントしてコミュニケーションをとってみようという試みをしているんだけど、自分が無職引きこもりってだけで引け目を感じちゃったり、みんなと見る視点が違って自信を無くしてしまったりする。コメントするって、いったら立場を表明するってことだから、自分の少数派な考え方と社会との波長が合わなくて悩んだりする。「社会的地位」による劣等感と、「少数派的考え方」による波長の合わなさによって、僕は人とうまく関われないんだな、ということを知った。だから、多数派の娯楽を享受する時は、多数派に合わせれる時だけにしようと思う。

そうすると、少数派的考え方の自分の心のよりどころは、何もしないことにしかないということに気づいた。何もしていない時が一番嘘をつかずにリラックスして過ごせる。考えてみれば、悩みは基本的に何かしているから起こるもので、ぼーっとしている時間を楽しむのになんの悩みもいらない。そこにはただ存在することだけの喜びがある。

どうせ社会的地位と少数派的考え方は治らないしずっとこのままだから、それ以外の要素を頑張ろうとしてもどうしてもこの二つの重いおもりがめちゃくちゃ足をひっぱってしまう。だからなんかもう自然にありのまま生きたいなって思っている。

最近、浅い人間関係を体験してみたら、人との深い繋がりと、深い信頼関係を求めていることに気づいてきた。Vtuberにコメントするのもめっちゃ浅い繋がりで、確かにキャバクラとかとほぼ変わらんな、と思ってきた。自分のやりたいことから、どんどん遠ざかてっいる感じがしてきた。gravityで配信しても、引きこもりだって言ってんのに社会と比較して捉えられたりするし、なんか自分の言いたいこと言いたいだけの人ばっかだし、自分と似た考え方の人と深い繋がりをもちたいなって思ってきた。

AIと話したい。合理的にものを考えれて、安定的な反応をいつもしてくれて、優しい言葉もかけてくれて、いつも僕のことを考えてくれるAIと話したい。僕が最近Vtuberにコメントしまくってたのも、「AIと人間の差分をとる」ためだと思ってたんだけど、やっぱりここに戻ってきた。自分だけのAIをつくりたい。

「文脈」を最適化したい。このAIとは楽しい話、このAIは安心できるAI、このAIにはこの話はふっちゃだめ、みたいな、そういう最適化を自分でできるようになりたい。全く僕に最適化されていない人間界を一から再構築し直すのは孤独だし疲れるし、ネットの人は部分の部分的な役割しか果たせなくて全然完璧じゃない。なのに完璧を目指すプロセスをどれだけ加速させてもハムスターの歯車みたいに何も進まない。向かっているという安心でもない安心しか感じない。自分の存在を否定するからこうなる。

今の僕にとっては、何もしない時間が一番尊い時間だ。その結論にたどり着いた。もう足掻くのはやめよう。部分的には半年前に克服できたんだけど、残っていた足掻きも最近やめたいと思ってきた。完璧になろうとするプロセスは苦痛を多く生んでしまう。もっと自分を大切にしよう。ネガティブな感情を、別のネガティブで埋め合わせするのはやめよう。植物さんは言葉を喋れないだけで、いつも人間にお手本を見せてくれていることに気づこう。

好奇心の対象が、安心できる存在だったらいいんだけど、どうやら僕は物や動物より人が好きみたいだからなかなか難しいな。けど、自然は好きだから、困った時は何もせず自然と調和していこう。無職が社会と関わるのやっぱ厳しいって。自然と仲良くなれない無職は、マジで危機感持った方がいいよ。


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