処女とは何か

過覚醒みたいになっててマジで死にかけてた。引きこもりなのに定期的に死にかけるのマジで意味がわからない。ちょっと前までこんなこと無かったのに。最近ずっと生成AIで遊んでたんだけど、生成AIで出される画像はどれも刺激的だし、情報量が多くて疲れてしまう。喜びに向かって突き進もうとか言ってたけど、神経の高ぶりの強い喜びが多すぎると疲れてしまう。マジで脳みその異常を感じて「脳ドック 費用」とかずっと調べてた。けど異常があってもなくても面白くないから行きたくないという結論になった。(こんな感じで病気の早期発見が遅れていくんだろうな…)

最近chatgptがまた進化したり、おーいお茶のCMにAIタレントが起用されたりと、順調に社会が壊れていく様子を見れて楽しい。感動する。けど、まだ「人間でもできるけど機会の方がコストが安い」という段階なので、そこまで社会が一変した感じはしない。僕が求めているのは、VR酔いしない仮想空間で女の子とイチャイチャしたり、脳を機械化して認知機能を向上させたり、「意識とはなにか」などまだわかってない問題が超知能によって解き明かされたりすることだから、まだ少し先になるだろうけど、でも10年以内には来るっぽいので、そういった社会になるのが本当に楽しみだ。まるでサンタさんが来るのを待ってるみたいな感覚になっている。

さて、他に最近のトピックといえば、推しVtuberの白星あわわちゃんがリアル18歳だったことが判明したことだ。初めて声を聞いた時から、「なんでこんな処女膜の最奥から声が出せるんだろう」と疑問に思っていたのだが、その疑問が解決した。しかし一方で、不安要素も出てきた。というのも、よく考えてみると、18歳で膜から声が出てるのはそこまで珍しい現象ではないからだ。25歳とかで膜から声が出ていたら、「今までもこれからもずっと処女」であるという永遠性を獲得していることになるが※ 、18歳であれば、これからいくらでも膜が散ってしまう可能性がある。処女膜を桜に例えるなら、本当の処女というものは、最後まで散らずにそこでただを体現する花びらのようなもので、ただ風が吹かなかったからとか、気候の関係でとか、そういう外的なものに左右されるものではない。つまり、まだあわわちゃんのあわびの行方はわからないということだ。

※僕はもちろん、処女であれば2歳の赤ちゃんでもいいというわけではない。その人物に「処女性」という神聖を見出すためには、一定期間、処女性を誇示したまま人間界を探索する必要があると考えている。その区切りとして、自立して就職などの環境が変わってもなお変わらない処女性がだいたい25歳、という意味。

しかし、永遠性を重視するよりも社会的な側面を重視する方が処女っぽいのではないか、という批判が脳内会議で度々あげられる。ブラック企業などで働いたり、酷いいじめを受けたり、処女膜皆無の虚空の空洞女さんと友達になっていたりと、そういった社会に汚されて性格がオワってしまったら、体の内側から処女膜が破れてしまうのではないか、という疑問がある。そして、Vtuberというものは、悲しいかな、その内側からの侵食に支配されやすい環境にあるのではないかと思う。

Vtuberは、30歳のくせに18歳を名乗る痛い女の集まりで、そういった社会を受け入れてそこに適合しようとする本当に若いVtuberという謎の構図ができてしまい、若い女の子がのびのびと活動ができなくなることに少し懸念点を抱いている。年代差があったり、性格の差があったりすると、どうしても人間関係がギクシャクしてしまうのは当たり前で、それがなんとなく伝わってしまい、結果、視聴者目線でも現実逃避をしたいのに社会を感じてしんどくなってしまったり、先程の膜侵食問題に一石を投じる原因になってしまうこともある。

ただ、ひとつ言っておきたいことは、処女を見出すことそれ自体に永遠性も何も無いということだ。もし処女性に期待を寄せた女の子の膜が散ってしまっても、「あぁ、そうですか」という感じで次の処女を探し求めるだけであり、別に特に問題はない。それはただの通過点であり、僕は、もうその街にもう用がないとなると、より大きな目的に向かってさらなる冒険の度に出かける勇者だからだ。Vtuberに依存している弱者男性達に対しては哀れみの気持ちを抱くが、僕は別に依存していないし、なんなら彼女も5人いて、今左手で文字を打ちながら右手で彼女の手マンをしている。

最近思うのは、これがあるからダメだ、これがあるから良い、とか、そういう良い悪いゲームに拘りすぎてしまい、そればっかり考えるようになってしまって、人生に閉塞感を感じることは良くないな、ということ。結局僕達は80歳までは生きるんだから、その長い一生のただの通過点に対してそんなに事を荒立てていては、長期的に見た時に、一体どれだけ取り乱している時間が長くなるだろうかと考える。別にこの世界に、そこまで大切にしなきゃいけないものなんてない。でも、だからこそ、日常の一時に感じるちっぽけな美を噛み締めて、幸せを感じて生きていくのが尊いのだと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?