Twitterとnoteの話

Twitterで繋がっているという関係性ってなんなんだろうか。僕がどんなツイートをしても、いいねだけでほとんど会話に繋がらない関係の意味とはなんなのだろうか。インタラクティブな関係ではなく、承認を満たし合うという関係に、価値はあるのだろうか。

…と、思っていたんだけど、生活の一部にこの機能を最適な量で組み込めば、それはウェルビーイングを促進してくれるということを知った。承認欲求は、多すぎたらそれが満たせない時苦しいけど、少なすぎても、誰からも見られていないという理由で排他的な言動をしてしまうかもしれない。例えると承認欲求とは糖質のようなもので、食べすぎると太るけど、食べなさすぎると脳のエネルギーが不足してしまうのだ。

「必要な栄養素」といえば、ビタミンDとか亜鉛とかマグネシウムとかいろいろ浮かぶと思うけど、それが欠乏した時にどのように機能不全に陥るかについては人は全く無自覚である。それと同じく、ウェルビーイングに必要な栄養素に、適度な承認欲求は加わると思うんだけど、それを毎日どのくらい摂取すればいいかの基準値は、食事の栄養素と違って厚生労働省か管理栄養士かなんかが教えてくれたりしないので、何故か自分で考えなければいけないことになっているし、「価値観」とかいう0でも100でもOKという意味を多分に含む言語にこの問題は圧縮されてしまう。「遊び」とか「快楽」とかもウェルビーイングの栄養に欠かせないと思うのだけど、遊びなんてせずに上司の言われた通りに仕事をするという生き方もアリだし人それぞれだよね、という話になっている。精神の栄養素は、価値観とかではなく生物学的欲求のひとつであるのに、そこを主体的に考えずに社会のレールに乗っ取った半無意識的な行動をすることを個人の生き方として是認することは、人間という生き物の可能性を狭めてしまっているのではないだろうか。答えがない問いに対して、僕達はやることがあるということについてもう少し自覚すべきだと思う。

情報の受け取り方が、Twitterとnoteでは違うと思う。noteは、ワンクリックしないと情報までたどり着かないから、1枚服を着ているって感覚で書けるんだけど、Twitterは生まれたてホヤホヤの言語が生のままタイムラインに投下されるから、恥ずかちぃ(/ω\*)てなって濡れてしまう。けど、流れる寿司が誰かの唾液で粘ついてるかなんて何か特異な事件が起こらない限りはみんな注意深く見ないので、基本的には自意識過剰だと思う。ただ、フォロワーひとりひとり僕を見る目はだいぶ違うはずだし、感情も全員持っていると思うので、何らかの文脈で僕のツイートの情報をキャッチして味わってはいると思うから、そこを意識することで僕はひとりじゃないんだと思えるという側面もある。

noteにはないTwitterの良いところは、文章が多少論理的整合性がとれていなくても、誰からも文句を言われないところだ(自分含めて)。論理は時間に弱いということを最近学んだので、無時間的に捉えられ、ひとつの額縁に飾られた作品かのように見られるnoteは、感情の曲線の山の一部だけを切り取って見せることになってしまい、その全体のうにょうにょ上下している感情の感じは、複数の記事を見てもらわないとなかなか伝わりずらいので、ひとつの記事の責任みたいなものが強いと感じる。タイトルを見て読者を期待させていろいろ論理を展開したところで、「ごめん書くの飽きたわ!寝る!」で終わらせることもできないし、自分のプライドみたいなものも多少はあるから、それゆえ腰が重くてなかなか執筆に取り掛かれないという側面がある。 毎日noteを書ける人って、その辺を意識せずに直感的に筆(指?)を進められる人なんだろうな、と思う。いろいろ1から考えていたら、流石に毎日は時間が足らないだろう。まぁ僕も全部1から考えてるわけではなく直感の要素もあるだろうけど、でもまだ未熟なので考えることが多い。汎用単語の意味もまだたまに調べたりするし。けど、こうして自分が見た世界を言語化していく行為は嫌いじゃない。

押し入れに埃が被った美術作品に息を吹きかけた時、それが見た事のない感動的な作品であるかもしれないし、それは僕がそこに意識を向けて見たいと願わないと起こらない世界の見え方の変化である。この世界には変化することがあるということを積み重ねていくと、その現象は世界の不変の摂理として認知に刻まれ、何か行動する時の希望の糧になる。何かが起こるかもしれないって信じれるからこそ、僕達は前に進めるのである。


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