ネカフェと空間の話

こないだ、電車乗って近くの街を散策するnote書いたけど、あれから外に出て散歩する喜びを取り戻してきて、今度は大阪梅田の周辺を散歩していた。中乃島美術館ってところで28日に落合陽一さんのイベントがあるから、散歩がてら下見に行ってみたら、無料で入れるすごい綺麗で広い建造物(中には美術館とかレストランとかがある)があったので、開園前の美術館の前で座ってぼーっとしたりしていた。そこから見える窓からの景色は高速道路で最悪だったから、もし自分で都合の良いようにつくりかえれるなら自然とか複雑で面白い建物とかが見えるところにこの建物を建てたいと思った。帰りにネットカフェにも行って、オープン席で「可愛ければ変態でも好きになってくれますか?」を読んでいたらカップルに「真剣な顔で読んでてウケるw」とか言われて笑いの種にされた。けどまぁ、これくらい殺伐とした空気感で張り詰めている感じがネカフェの雰囲気をつくっているとも思う。

建物の中にいるって、どういうことなんだろう?そこでの人の流れ、どういう心理でそこにいるのか、建物の外部からどういう文脈でその中に入ってきたか、出る音と自分の心境との共鳴など、単なる形状の中に、構造の中にいることの喜び以外にも、複雑な要因がいろいろ絡んで、そこに「いる」ということが説明できるし、また感じるものでもある。僕はネットカフェが好きなんだけど、「ここが良い」というのを決めれるわけでもなく、いろんなところに行くのが好きだ。何故いろんなところに行きたいかというと、ざっくり言うと「新鮮な気持ちで漫画という娯楽に触れたいから」な気がしている。ネットカフェの個室がもし家の一室にあっても、そこに新鮮さは無いし、建物全体があったとしてもやはりすぐに飽きると思う。でも、新鮮さだけを求めたら別にいろんな公園で漫画読めるならそっちがいいのか?という話になるが、そういうわけではない。やはり一番は、ネットカフェの建物の構造に強く惹かれるところがある。「照明の暗さ、ある一定の広さの規制、ドリンクバーの位置や種類のランダムさ、自分の机の周辺の景色のランダムさ、部屋の流れとその空間の関係の形状的な美、それらを自分の隠れ家であると部屋を行き来するたびに認識していく感じ」今思いつく限り、これらの要素が新鮮さとか、ワクワクする感じをつくりだしていると思う。建物の構造をつくるゲームに、マイクラとかがあるけど、「自分でつくらなきゃいけない」という認知的負荷があるし、そこで自分は何もできないというのもあるので、あらかじめつくられたいろんな建物を探索してみて、そこで自分はどういう行動をするのか、ということを考える方がとっつきやすい。自分でクリエイションするのは向いてないけど、形や構造に対しての興味はあるし、その形と自分はどういう関係なんだろう、ってところを無意識に探るのが好きなんだと思う。だから散歩も好きだし、建物を見るのが好きだ。

僕の身長は170センチだが、それが表現されるためには高さ170センチ以上の空間は必要であり、つまり自分のアイデンティティは空間の都合で容易に覆ってしまうことを意味する。アイドルのパフォーマンスも、地下でやるのととドームでやるのとでは表現の仕方が違うだろう。そのドーム的な広さの中で、ステージや観客のための椅子が無いと、その広さをうまく使いこなせないだろう。つまり僕達はいつでも、空間に対して適度な規制あるいは装飾を求めているというわけだけれど、ではその「最適な規制」はどういった文脈から生まれるのだろうか?「パソコンで動画編集をしたい」という文脈なら、機能的にはネカフェの個室的広さで事足りるが、開放的な気分になりたい時はリビングで作業するかもしれないし、あるいはキッチンへのアクセス性を意識するかもしれない。しかし、僕が注目したいのは、そういった直線的な論理から生まれる文脈ではなく、もっと内側から来る身体感覚や内的心情だ。誰もその空間がなんであるかを本当の意味で理解することができないので、既に知られたフレームに合わせてそこにいる理由を説明するのだが、そうではなく、説明できないものと説明できるものの間にある要素について探求したい。全く説明できないものを理解するためには、一旦その狭間にある要素を感じ取っておく必要があると考える。つまり、直線的な論理のモデルを利用しつつ、そのモデルをどう改変してもっと個人化するかということをしたいということだ。「白い壁で機能的な広さの歯医者の待ち受けがなんか怖く感じるのは、僕のもちうる歯医者のイメージとの不一致から起こるのかもしれない」とか「白いものは汚れることを象徴してほしくない」とか、そういうことを考えたんだけど、あれ、普通に小説とか書きたいってことなのかな?

まぁ何がしたかったのかよくわからないけど、なんとなくこういうことを考えておくと、次に出すべきアイデアが無意識に浮かんできたりするので、こういうのたまに書くのは重要なことだと思う。書いてて気づいたけど、人生も、noteも、恋愛も、「どう最適な規制をかけるか」という視点から考えることができるし、そこを文字にせずとも無意識に感じ取って実行してるのが人間なんだろうなと思う。僕は空間が好きなので、空間とイチャイチャしながらいろんなことを考えたい。形状は、好きなものとそうでないものがあると思うけど、それを説明するための言語をほとんど持っていないように感じる。形状を心理状況に対応させて、とげとげした言葉とかそういうふうに言うことができるってくらいか?少なくとも何かに関連付けて比喩的に説明することはできるけど、直接その形と対話することは難しいというか、言語に変換することの方が優先度が高くなってしまうような感じがする。この辺の問題はまたいろいろ考えたい。

彼女がもしできたらしたいことランキングの一位に、一緒にネカフェの2人席に入ってイチャイチャしながら漫画を一緒のペースで読むっていうのがあって、どうやったらできるのか考えているんだけど、考えてニヤニヤしてるだけである程度満足してしまう問題があって危機感も感じない。ただ、ラブコメアニメなどを見ても、ネカフェを利用したシチュがほとんど無いこの現状には危機感を持った方がいいと思う。「誰かに聞かれているかもしれない、けど暗い個室で2人きり」という状況は結構興奮すると思うし面白い話もつくれると思うんだけど、なぜここに着眼しないのか。

ネカフェから帰ったら、心地よい疲れを感じて、ベットに横になる時いつもの数倍気持ちよかった。「心地よい疲れ」って、仕事してても無職でも感じずらくて、最適な刺激レベルを自分で調整できるこういった目的の無い散歩が一番感じやすいということに気づいた。適度な刺激を与えるために、これからも定期的にいろんなところに行ってみようと思う。noteに書きたいネタもできるし、視野も広くなる気がする。けど疲れたのでしばらくはおうちでゆっくりするかな…。


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