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湧き出るものに耳を澄ませる

今日まで、湧いてくるものや露わにしたいことがあったのだけれど。なかなか言語化できずにいた。
今、表現してみようと感じたので、熱量そのまま、現してみます。
上弦7.5(小潮)

街の生活

しばらく遡ること街の生活のとある日。台風が来た。風が窓を叩いた。曇ったり晴れたり、空がころころと様変わりした。海は、大波が寄せては返すのが遠くから見えた。
わたしの心模様もまた、台風時の海のように、さまざまな感情が溢れ出ていた。
その日の朝、瞑想したら、二匹の龍が空や海を泳いで回っているビジョンがみえた。
なにごともなく、その日を終えた。いつのまにか、自分の心も晴れやかになっていた。
龍に「ありがとう。」ときもちを伝えた。

「わたしって、こんなにも心が揺れ動くのか。」と感じる出来事が重なった。その出来事が起きるまで、自分にこんな感情が動くことがあるなんて、きづかなかった。否、自分のきもちにきづくために、その出来事があったのかも…。「なんなんや!」、「やれやれ、なんちゅうことや…」そう思わされたと感じた出来事も人も、「ほんまに、わたしはどうしたいの?」をきづかせてくれたんやな。なんて、ありがたい話だ。

からだも、おかげさまですっかり完治した。およそ一ヶ月半。わたしの水を清らかに、健やかに保つこと。そのための、自問自答、傾聴。今も、そしてこれからも自問自答は続く。
病院で受診して、診断してもらうのも、わたしには目安になった。自分自身が不快に感じたとき、西洋、東洋、自然療法、ホメオパシー、様々なものを自分に聴いて、選択し施した。「これは、良い」「これは、身体に良くない成分が入ってるから、駄目!」とジャッジにきをつけつつ。ただただ、そのときその瞬間、わたしが心地よくなるものだけを与えてあげられるって、「嗚呼、しあわせや。なんて自由なんや…」そう感じた。
ずっと重ね履きしていたけれど。この一ヶ月半、そして今も裸足生活。肌寒いときの半身浴や重ね履きの芯まで温まる感じ。裸足の一体全体感。それぞれのきもちよさを、あらためて体感、実感している。

わたしにとって、物事や人との距離感が大事だと、身を持って実感した。幾ら親しい友だち、身近なパートナーや家族でも。「心地よくない」だとか、「これ、嫌やし、止めたい」だとか、そう感じた時に、そう言えるようにしようと努めるようにした。そのために、独り言からコツコツ言語化して、人に伝えることをやってみている。
その言語化する時に、一呼吸おいて、感情が荒ぶるときにしないこと。出来事や人が悪いとかではなく、あくまで自分の中で何かが引っかかって、感情として現れていることを、自分や相手に伝えることをするように心掛けている。

森の生活

パートナー以外の家族に森の生活のことは、内緒にしていた。まず、自分が心身からどっぷりと自然や静寂に浸り、体感、経験することに意識を集中したかったからだ。
しかし、ほどなくバレて、家族で遊びに行きたいと、日を合わせて決めると言う話になった。結局、日程が合わず、話は流れた。
相手を重んじたり、調整や調和することばかり重んじるのは、疲れる!そんなん、ほんまの調和やないやん(心の叫び)
きちんと、自分の意志を伝えることは、自分も相手も尊重することに繋がる。もっと早くにしておけばよかった。たった今から、できることだ!

さて、前置きが長くなったけれども。森の生活で決定的に違うことは、電磁波の有無。スマートフォン、タブレット、パソコンをみてすごすのと、電波の入らない森で過ごすのとでは何が違うのか。まず、身体の負担。同じ姿勢で過ごすことがなくなる。寝るときに電磁波があるのとないのとでも、睡眠の質が違う。ただし、それが良いとか悪いということではなく、電磁波は何らかの影響が身体にはあるんだなということ。
ただ景色を眺めて過ごすだけでも、季節の移ろいとともにやってくる虫たちも違えば、山野草も彩りを添え、変化する。家の窓枠は自然という絵画の額縁だ。
先日カフェで遭遇した方の本をみると「深山刺草」「三葉」は、群生している。もしかしたら、イラクサは染もできるかもしれない。わたしたちを迎えてくれた「キヌガサギク」雨とともに緑が茂る中、目を引く存在だった。

わたしたちがみつけると、その気配を感じてパッと止まり死んだふりをする蟻が、たくさん訪問した。「ほら、あなたたちワンパターンやねん、そうやって死んだふりするの。」と言うと蟻はこれでもかと死んだふりをし続ける。「ほんでまたブーンって入ってきた!ブーンやないねん!いや、わたしたちもここに住ませてもらってますので、お邪魔してますけども。」と蟻に話しかけると、ブーンと飛ぶのを止めたりするから、可笑しい。

わたしの足を食べていた雑食系カマドウマは、小さな子どもはよく見たけれど、夜に訪問してくることがなく、少し寂しかった。
そうそう!蚊帳という新アイテムを導入したので、カマドウマに齧られることも、蟻に噛まれることも少なくなった。

桃やネクタリンなど、果物も豊富。伝統野菜古太胡瓜と出合った。コリコリとした食感。森の家でもマリーゴールド、オクラ、バジルを植えてみて、日照や乾きと湿度の状態をみている。ご近所さんによると、どうやら花が咲くと鹿ちゃんが食べてしまうらしい。そして、熊の通り道も近いらしい…。(啞)うん、時々寝てるときに獣の吐息というのかしら、聴こえて来たことあったから、ね。

とにかく今回の滞在中は、物凄く雨が降っていたのだけれど。それもまた龍ちゃんが、えっちらおっちら、鎮めてくれたのかしら…。全国、川が氾濫したり、土砂崩れがあったり。様々な想いをしている方々もいらっしゃるかと思います。
ただただ、心の平安と健やかであることを祈ります。
移動した次の日には、快晴だった。
街へ帰宅したときには、植物たちは天の雨を浴びて、ダニに葉っぱを食べられて褐色になっていたローズマリー、エキナセアは、葉っぱが甦って青々としていた。逆に、雨を浴びすぎたフェンネルと蓬は萎れてしまった。
ホワイトセージは、湿り多めだったから軒に入れて様子をみている。
森から街へ。街から森へ。それぞれがそれぞれで、きづくことがある。
あっ、そうそう。雨が降ると森の空気が澄んでとてもきもちがいい。木々のいい香りが湿りとともに立ち込める。目一杯、それを吸い込むのも、最高。




わたしの世界への没入、没頭

没入、没頭と書いておきながらなんですが、「さぁ、やろう!」、「しよう!」と思ってすると、わたしの場合大抵、力みが入るので。
「まぁ、お茶でも飲もうか。」、「そっちは行きたいところじゃないけど、脇道面白そうやから、行ってみよか!」ぐらいの、一見全く関係ないことしてる道草くらいの感じが、JUST ぴったんこ!
またまたJust ぴったんこの村上春樹さんの対談本みてるけど。これもたまたま、お茶したところで出合った。
街の生活では、鉢に種を蒔いた。今日が一粒万倍日なんじゃないかとすら感じるくらい、衝動が止まらなかった。

感情を滾々とひとしきり反芻していたら、その感情は自分にきづく、布石やったんかもしれんなと、感じた。

誰かの何かの、お話も愉しい。
ただ今は、寄り道道草だらけの自分のストーリーを感じることが、なによりも癒やしになっている⚪

余談ですが、
わたくし、推しと遭遇しましたの!偶然、同じ宿泊先で!プライベートにもかかわらず、対応して下さって!もう、箱推しじゃなくて、その方を推しちゃうわよね、やっぱり。
ロック画面はその方とのお写真にさせて頂いております、ありがとうございます。






お読みいただき、ありがとうございます。 とても励みになります! みなさまから頂いたエネルギーを巡らせていけるよう、精進してまいります!